コデマリ(小手毬)って、ネーミングからして、かわいいお花だなあ~って思います。
「Reeves spiraea」「bridal wreath(花嫁の冠)」などと呼ばれているのだそうです。
明日は主の日、礼拝の日です。
私たちを愛し、命までも捧げてくださった
教会の花婿である、イエスさまを礼拝します。
4月19日(日)の礼拝
午前11時~12時
聖書:マルコによる福音書12章28~34節
メッセージ:「神の愛のうちに歩む―十戒が導く愛の道―」
明日は主の日、礼拝の日です。
私たちを愛し、命までも捧げてくださった
教会の花婿である、イエスさまを礼拝します。
4月19日(日)の礼拝
午前11時~12時
聖書:マルコによる福音書12章28~34節
メッセージ:「神の愛のうちに歩む―十戒が導く愛の道―」
昨日の「讃美歌を歌う会」に、はじめて来てくださった93歳の方がおられました。
その方は、幼いころに教会に通っていたことがあるそうです。
そして、「覚えているのは『いつくしみ深き』だけなんです」と、お話してくださいました。
さっそく、みんなでその讃美歌を歌いはじめました。
けれど、しばらくすると、その方がぽつりと、「昔の歌と、少し違いますね」と言われました。
同じ「いつくしみ深き」でも、時代によって歌詞が少しずつ違っていたことを、あらためて知りました。
私たちは、1954年に出された「讃美歌」の歌詞で歌っていますが、その後の「讃美歌21」では、歌詞が少し違います。
歌のことばもまた、時代とともに歩んできたのだと思わされます。
その方は、やがて教会に通うことができなくなり、それ以来、教会との関わりはほとんどなかったそうです。
けれども、幼いころの教会のことを、とても懐かしそうに楽しかった思い出としてお話してくださいました。
あたたかく、楽しく、やさしい場所だったそうです。
さらに、その方は、こんなお話もしてくださいました。
弟さんが亡くなられたときのこと。
ちょうどお盆の時期で、お寺で葬儀を行うことができず、教会で葬儀をされたそうです。
牧師のお話と讃美歌がとても明るくて、とてもよかったという思い出です。
その方のお母様も(クリスチャンではありませんでしたが)、教会で葬儀をなさり、
ご本人も「とても心があたたかくなりました。葬儀は教会がいいと思いました」と話してくださいました。
教会に通っていなくても、長い年月の中で離れていても、なお心に残るものがあるのだと思いました。
まさに、「いつくしみ深い 友なるイエスは」どんな時も、一緒に歩んでくださるのだと思わされました。
M さんお手製のシフォンケーキでお茶をいただきながら、いろいろなお話を伺いました。
それから、4月なので「イースター(復活日)」の歌を歌いましたが、「聞くのは初めてです」とおしゃいました。
「わたしたちも年に一度しか歌わないので、あまりよく覚えていないのです」と言って、
それでも、イエスさまの復活の意味を味わいながら讃美を歌いました。
その方は、「十字架のはりつけの意味が、わたしにはよくわからないのです」とおっしゃっていました。
まじめに、やさしく、そして平和な日々を過ごしてこられたのだと思います。
イースターの歌を歌いながら、あらためて十字架の意味をかみしめました。
たとえ十字架の意味が分からなくても、
幼い頃に出会ったイエスさまが、人生の日々を共に歩んでくださったことを思い、これからも健やかに、平和な日々を過ごしていただけたらと願いました。
このあとで、「12月8日」という歌を披露してくださったのですが、それはまた後日…
「主をほめたたえよ。わが魂よ、主をほめたたえよ。
わたしは生きる限りは主をほめたたえ、
ながらえる間は、わが神をほめうたおう。」(詩篇146:1.2)
よろしければお聴きください。「いつくしみ深き」は、教派をこえて歌われている、愛と希望と喜びの讃美です♪
よく見ると、土のようでもない。
では、いったい何?
戦争や痛ましい出来事が続くこの世界で、命の不思議と尊さを、あらためて思わされます。
自分の命も、人の命も、神さまからいただいた大切なもの。
今日という日を、命を大切にしながら歩んでいけますように。
闘病されている方々に、神さまのいやしとお力が豊かに注がれますように![]()
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毎週水曜日は、日曜日の主日礼拝のメッセージをお届けしています。
復活日(イースター)のあとの、最初の礼拝でした。
今回は、私たちの心の中にある「ねたみ」や「競争心」、「もっと認められたい」という思いからどうすれば解放されるのかを、思い巡らしてみました。
4月12日 の礼拝メッセージ
(一部だけ載せています)
「隣の芝生は青い」ということわざがあります。もともとは英語のことわざだ ったそうですが、人の持っているものが、自分のものよりもよく見えてしま い、他の人のものを羨む心は人間だれしも持っているようです。
うらやまし いなあ、と思うだけで済めばよいのですが、それを妬んだり、自分のものにし たいと思うようになると、それは大変なことになります。
今日の第十戒は、まさにそのような私たちの心に向けて語られています。
ヘブライ語の「むさぼる」(ハーマド)という言葉 は、「見て、好ましいと思い、欲しくなる」という意味をもつそうです。
これは、最初の人間アダムの妻エバが、ヘビにそそのかされて神さまに禁じ られていた知恵の実を見て、「見るに美しく、食べるのによく、賢くなるには 好ましい」と思って、欲しくなって、採って食べてしまったという話と通じま す。(創世記 3 章)
今日は、私たちのうちにもある「むさぼりの心」を知って、むさぼりから 解放される道を考えてみたいと思います。
イスラエルの民も、「むさぼり」を体験しました。
エジプトを出て荒野に入 ったとき、神さまはマナというパンを与えました(16 章)。
マナは、安息日 をのぞいて毎朝 1 日分ずつ与えられ、それぞれに必要な分を集めました。
その 時、「多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった」(16: 18)とあります。
それなのに、余分に集めて取っておこうとした人がいました。しかし、取って おいたマナは腐ってしまった。
これは、日ごとの糧(日々のパン)を神さまが お与えくださるという信頼を学ばせるためでした。
神さまは、「明日のことまで自分で抱え込まなくていい」と、日ごとの恵み に信頼して生きる道を教えてくださったのです。
必要以上に持とうとする心 は、この神さまへの信頼を手放してしまうことにつながります。
むさぼりは「もっと欲しい」という思いから始まり、やがて貪欲となって、 神への感謝を失わせます。そして隣人との関係を壊し、奪い合いや争いを生み 出します。
聖書には、「見て、欲し、取る」という流れが繰り返し描かれてい ます。
「むさぼり」の心を制御できずに、失敗してしまった人が聖書に登場しま す。
イスラエルの民の戦利品をこっそり自分のものにしてしまったアカンとい う人物(ヨシュア記7章)、人の妻を自分のものにしてしまったダビデ王(サムエル記11章)。
むさぼりは、隣人との関係を壊し、奪い合いや争いを生み出します。
平和を乱し、共に生きる共同体、社会をゆがめてしまいます。
「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」(ヤコブの手紙1:15)のです。
そして、民 族や国家がむさぼりに走ると、紛争や戦争へと進むことがあります。
今、世界では、資源や土地、力をめぐる争いが絶えません。その根の深いと ころには、「もっと欲しい」という人間のむさぼりがあります。
ここで思い出したいのです。人間はもともと、すべてが満ち足りた環境、エ デンの園に置かれていました。
必要なものはすべて神さまが与えてくださって いました。
また、荒野を旅していたイスラエルの民も、水や食物を日々与えられました。
イスラエルの民が 40 年の後、約束の地に導かれる時、モーセは言いました。
「この四十年の間、あなたの着物はすりきれず、あなたの足は、はれなかった」 (申命記 8:4)。
罪を犯しても悔い改め、神と共に歩んだイスラエルの王、ダビデはこのように歌います。
「あなたはわたしの分け前を守られる。測りなわは、わたしのために好まし いところに落ちた」(詩篇 16:5.6)
「主はわたしの羊飼い。わたしには乏しいことがない」(詩篇 23:1)
神さまは、それぞれに必要で十分なものを備えてくださっている……この事を深く心に思うとき、神さまの恵みはわたしに十分であるという心に満たされま す。
これは、「物欲」「貪欲」からの解放です。
「むさぼってはならない」――これは、心の平安を奪い、争いの道に進ませる悪を断ち切る教えです。
今、世界はむさぼりの戦いをしています。
神の恵みを知る私たちは、 人と比べることから解放され、与えられたものを感謝して受け取り、分かち合 いと平和の道を歩んでいきたいと思います。
【黙想・祈り】
父なる神さま。あなたがわたしたち一人一人、それぞれに必要なものを十分に お与えくださっていることを覚えさせてください。
あなたからいただいた賜物 を感謝し、それを分かち合って平和に生きる私たちへと導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。
お腹がいっぱいなのに、ケーキを見たら、なぜか“別腹”が「欲しい〜」って言い出します。
「もう十分食べたでしょ?」と言っても、「いや〜、食べる!」と駄々をこねます。
そして、つい負けてしまうのです。
ブランド品をうらやましいと思うことはあまりありませんが、人の「知恵」や「判断力」を、うらやましく思うことがあります。
「計算能力」「洞察力」「統率力」……。
でも、自分の庭は“はげかかった芝生”かもしれませんが、イエスさまが「緑の牧場」に導いてくださる。
だから、いつも、必要な恵みの中に生かされている。そのことを、あらためて思わされて感謝しました![]()
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「わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」
(詩篇23:6)
notoにも同じ内容を投稿しています。遊びにいらしてください。
でも、なかなか上達しません。
前日にあわてて短歌を作って、先生に添削していただくのですから、これではダメですよね…![]()
せっかく基本を教えていただいたのに、なかなか身につきません。
たまたま、ある方から
「ブログを歌にしませんか」というお誘いを受けました。
ブログの記事を「楽曲」にしてくださるのだそうです。
へえ、そんなことできるんだ――と思いましたが、
ブログの文章が歌になるなんて、ちょっと想像がつきませんでした。
だけど、「作詞」なんてしたことがありません。
そういえば以前、知り合いの牧師が、ある方の、平和を願う心に反するような発言をきっかけに「悲しみの歌」を作られたことがありました。
その牧師は、趣味で作詞・作曲をなさる方ですが、そのときは歌詞をAIに作ってもらったそうです。
そしたら、なんと、AIが見事に思いをくみ取った「詞」にしてくれたそうで、それにご自身で曲をつけて披露してくださいました。
そのことを思い出して、私もAIにブログ記事を歌詞にしてもらいました。
2026.4.11のブログです
いろんなバージョンで作れるみたいです。
これは子どもも歌えるバージョン。「サビ」までついています![]()
(1番)
きのうの雨が やんだ朝
おひさまキラキラ
いい気持ち
スズメもちゅんちゅん
うたってる
今日もいちにち はじまるよ
やることいっぱい あるけれど
ちょっぴりあせる ときもある
それでも一歩 あるこうよ
前に 進んでいこう
(サビ)
主よ あなたが 備えてる
わたしの 歩く道
ひとつひとつを だいじに
いっしょに 歩こうよ
(2番)
アジサイの芽が ちいさくて
いつのまにか のびている
ゆっくりでもね だいじょうぶ
ちゃんと 育っていくんだよ
やりたくないこと あるけれど
あとまわしに しちゃうけど
今日もひとつ やってみよう
できる ところからね
(サビ)
主よ あなたが 備えてる
わたしの 歩く道
できないときも
そのままで
やさしく つつんでる
(3番)
みことばそっと 思い出す
「すべては 備えられてる」
やさしい声に 守られて
こころが あたたかい
ガーベラひとつ わらってる
にっこり こっちを見ているよ
与えられた この場所で
わたしも ほほえもう
(サビ)
主よ あなたが 備えてる
わたしの 歩く道
どんなときでも いっしょだよ
きょうも あるいていくよ♪
昨日、教会員にこのことを話してみました。
そしたら…
「歌は自分の心からわきあがる思いだから、
人間が作ったほうがいいよね」
はは…やっぱり、そうだよね!![]()
「主はわが力、わが歌であって、わが救いとなられた。」(詩篇118:14)
生成AIがいろいろな分野で活躍している時代ですが、
やっぱり歌は、人の心からおのずと生まれてくるものだなあと思いました。
私も一緒に歌いたいな…と思いました![]()
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わたしたちの教会の週報に掲載しているコラム「からし種」です。
イエス・キリストが知らせてくださった「からし種のような小さな神の国」を、日々の生活の中で見つけた驚きと喜びを綴っています。
ちょうど6年前の今頃は、コロナ禍による「緊急事態宣言」が出されていた。人の集まりが制限され、礼拝もままならなかった。
皆で集まることができなくなってから、週報に「教会たより」を載せることにした。
最初は連絡事項が主な内容だったが、家で礼拝を守るために「黙想のために」を書き加えるようになった。
役に立っているかどうかはわからないが、礼拝に集えなくても、一人でも聖書を読み、味わうことができるようにと願ってのことだった。
コロナ禍が収束してからも、「教会たより」と「黙想のために」は続いている。
いつしか、それが「説教の準備」にもなっていた。聖書を黙想し、神が語りかけるみ言葉を思い巡らす。
一緒に、この小さな喜びを味わってもらえたらと願っている。
ちょうど6年前、誰も経験したことのない日々の中で、「教会たより」と「黙想のために」が始まりました。
緊急事態宣言が出たときも、教会では礼拝を捧げていました。
ただ、参加はそれぞれの判断に委ねられ、礼拝の形や週報の内容も少しずつ変わっていきました。
「からし種」は、皆が集まって雑談しているような気持ちで書いてきた週報のコラムです。
週報のコラム「からし種
このブログも、最初は教会員の皆さんに「からし種」を読んでもらえたらと思って始めたものでした。
けれども、少しずつ読んでくださる方が増え、あたたかく応援してくださる方々との出会いも与えられ、本当にうれしく思っています。
「見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び」
(詩篇133:1)
相変わらず小さな教会ですが、これからも神さまの愛を皆さんと一緒に分かち合えていけたらと思います。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします![]()
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notoにも同じ記事を載せています。
やりたいことも、やりたくないこともありますが、
「やらねばならないこと」は次々にやってきます。
でも、やっぱり「やりたくないこと」は後回しにしてしまいます…![]()
賀茂川沿いの桜並木を歩きました。
京都のお友だちが案内してくださり、観光客も少ない、静かな場所でした。
川の対岸からは、からし菜と桜の美しいコントラストの写真が撮れたそうですが……。
加茂川にはカモが泳いでいます。
下鴨神社のところで高野川と合流して、鴨川になるそうです。
賀茂川を歩く前に、「京都府立植物園」にも寄りました。
1923年(大正13年)開園の、日本最古の公立植物園です。
27品種、約500本の桜が植えられています。