学校や教員をめぐる話題は多くの人々に関心を持たれるのか、メディアは必要以上にセンセーショナルに報じる傾向があるようだ。
最近では教員による性犯罪がメディアを駆け巡り、子どもを学校へ行かせるのが心配だという危機意識が醸成されるに及んだ。
「先生が目の前の子どもを対象に犯罪を犯す」などという行為は絶対に許されないものだが、それを理由に学校に対してまた新たな規制をかけてくるようだ。
ただでさえ窮屈な現在の学校に益々自由が失われてくるのは必至である。
学校や教員による不祥事が発生するたびに「教育の危機」だと言われ続けているが、政府や文科省にとっては国家による教育管理体制を維持するための道具として有効活用しているのが現実である。
学校現場の日常は、しばらくの間そこにいて観察してみれば様々な問題点を発見するに違いない。
固い言葉で言うなら、学習指導・生活指導の在り方やその内容、上司たる人間や同僚との関係性、施設・設備の状況、義務付けられた事務処理等々であるが、それらのどの部分でも最低一つは問題点が見つかるはずだ。
例えば一つだけ本当の「教育の危機」をあげるとしたら、私は「国家による自由な学びの剥奪」を指摘したい。
多かれ少なかれどの国においても、国は学校教育の大綱を定めて一定の枠を設定しているが、日本の場合は「民主主義陣営」といわれる国家群の中でも異様なほどに現場への介入や締め付けが強いように思う。
敗戦後の国づくりは教育の力に頼るものも大きく、「戦後民主教育」の出発点は1947年の教育基本法(47教基法)の制定と言ってもよい程に理想としての教育理念を掲げていた。
例えば「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきである」と述べられている。
この文言が日本国憲法に附合するものとして、第一次安倍内閣によって教育基本法が改悪されるまでの長い間評価されてきた。
しかし、これは、「47教基法」制定に関わった田中耕太郎(後の文部大臣・最高裁長官)の要綱案では、「教育は、政治的又は官僚的支配に服することなく」と記されていたようだ。
つまり、より具体的に権力を規定した官僚的支配となっていたのだが、日教組の力が強くなることを想定して採用されなかったようだ。
それにしても、47教基法は日本国憲法と並んで戦後の民主主義国日本を象徴するものでもあった。
その後も教育委員会の公選制が定められたりして戦後の民主化は教育がその旗頭となった。
しかし、この理想は「教育改革」と称される権力による制度変更の度に歪められ今日に及んでいる。
マスメディアや「専門家」が「教育の危機」を叫ぶのは、むしろ文科省が進めよとしている教育政策が何らかの「妨害」によって円滑に進まなくなる現象を指していると考えた方が分かりやすい。
今回の教員による性的犯罪もその一つに値しているに違いない。
すなわち、そんな破廉恥教員が明るみに出て社会から叩かれたりすると、文科省が進めているマニュアル化された教育を更に細かく再編する手間が必要とされるからであろう。
また、私のように文科省路線にアンチを突き付けるのも「妨害」であり、当局は「教育の危機」としてとらえることだろう。
その意味では破廉恥教員も闘う教育労働者も、当局にとっては厄介な存在に違いない。
ただ、一つだけ言えることは、概して今回の様な破廉恥教員たちは犯罪行為がなければ、当局の敷いた路線を忠実にこなす害のない教員であったと思う。
さて、私の考える本当の「教育の危機」は「国家による自由な学びの剥奪」と述べたが、少し具体的な事例を示すと以下の様なことになる。
自由な学びは自由な教員による創造的な授業づくりから始まるが、これが近年は容易に実践できなくなっている。
その一つが指導内容から指導方法、指導時間、評価の観点まで定められ、いくら文科省が「主体的・対話的で深い学び」なるきれいごとを並べても学習者一人ひとりには響きわたっていかないのが現実だ。
考えようによっては、この文科省の言葉を盾にして自由な学びを組織することも可能だが、全面的に一教員の自由に委ねられるわけではなく一定の帰着点に収束するように導かれがちだ。
特に経験の浅い教員たちにとっては自由な冒険など容易にできないだろう。
子ども側に立場を置けば、自由な学びは自らの欲求が基盤になり、教員側が示す内容が受け入れられないものだとしたら、スタートからつまずくことになる。
であるならば、教員はどの様なものをどの様に示すかが、まず問われるのだと思う。
ここは時間が必要になってくる。
場合によっては、真正面から本題に向かうのではなく日常の諸々な問題から話を始めて、少しずつでも子どもの問題意識を喚起できればよいだろう。
これは学習の様々な段階においても言えることであり、ただ筋書き通りに授業を進めれば良いというわけではない。
何故、自由な学びが大切かというと、お仕着せの授業では、良くてもせいぜい知識の丸暗記であり、「自分の頭で考える」というプロセスが省かれてしまうからである。
指導者側は学習者へ「自分の頭で考える」契機や場を提供しなければならない。
これは、文科省が言うところの「対話的」な学習をその指導のプロセスで取り入れることも重要になるのは言うまでもない。
因みに、私は現役のころ、校内研究で校長とも協力しつつ「対話型授業」をテーマに学校ぐるみで社会科自主研究発表を行ったことがある。
(その実践を日教組全国教研社会科分科会で発表した。)
回顧主義に陥るのは自戒したいが、自分だけではなく同僚とも協力しつつ「対話型」
を追求した授業研究は楽しかったし、子どもたちも生き生きしていたように思う。
ただ、課題として残ったのは本当に個々の問題意識は解決できたのか、授業の定型化の弊害はないのか、というものであった。
これらを含めても真摯に授業の在り方を問うことができたのは、文科省が定めた一定の枠に沿いながらも随所で逸脱(これこそ自由な発想)しながら進むことが可能であったからである。
あの当時、子どもだった青年たちが今、どのような生き方をしているのか、とても知りたい思いに駆られるのである。
今日における本当の「教育の危機」は、かつての様な実践が容易でなくなったことを含め、子どもたちが一人の主権者として自立できる学びが保障されなくなっている現実にこそあると断言できると思う。
<すばる>