これで「日の丸」の件は私の中では納得して終わりになるはずだったが、翌1959年(昭和34年)には皇太子の結婚式が執り行われたのであった。
パレードの様子を、未だ買ったばかりの白黒ブラウン管テレビでの小さな画面で見ていたのを覚えている。
沿道の人々は手に手に日の丸の小旗を振りながら祝っている様子が映し出されていた。
もっとも、日の丸は赤白ではなく黒白でしかなかったが…。
さらにそれから5年後、1964年は否が応にも日の丸が日本国中に溢れかえった。
東京オリンピックが開催されたからである。
因みにこのオリンピックには、当時中学3年生だった私も聖火リレーの伴走者の一人として参加したのである。
胸に日の丸が付いたランニングシャツを着て、五輪の小旗を掲げながら地元のメインストリートを友だちと共に走った。

競技場では日本選手が3位以内に入賞すると、熱狂と共に日の丸が掲げられるのがテレビに映された。
テレビの中ではアナウンサーがしきりに「日の丸が…」と話していた。
しかし、日本の選手が勝つのは嬉しかったが、日の丸がメインポールに掲げられても特に感動もしなかった。
それは、小3の時に深く心に刻み込まれた日の丸をめぐる経験からだったに違いない。
時間を少し巻き戻すが、小学校の5年生の時だったと思うが、卒業式の練習をしていた際に、生まれて最初で最後のゲンコツを担任ではない教員から食らったことがある。
「君が代」を歌う練習をしていた時だ。
縦一列に並んでいた私たち男子の数人が歌の途中で笑ってしまったのである。
とは言っても歌わなかったのではなく、何だか意味のよく分からない歌詞を間延びした曲に合わせて歌うのが可笑しくて、笑いなら或いは笑いを堪えつつ歌ったのである。
私はどちらかと言うと後者だったと思う。
その男の教員は、後ろの方からボコッボコッと殴ってきた。
自分の後ろで終わるかと思いきや、ついに私も殴られてしまったのだ。
この時、初めて「君が代」は姿勢を正し真面目な顔をして歌わないといけない歌だと思わされたのである。
しかし、こうした少年時代を送ってきた自分は、ある意味で「日の丸」や「君が代」の学習を必然的にしていたと言える。
逆に言うと、この様な体験がないまま育っていたら何の疑問も持たずに大人になり、「日の丸・君が代」に対応していったであろう。
蛇足ではあるが、ゲンコツ教員A先生のことは嫌いでもないし恨んでもいない。
むしろ、ボッと生きていってはいけない事を気付かせてくれた恩人とさえ思っている。
(つづく)
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