これで「日の丸」の件は私の中では納得して終わりになるはずだったが、翌1959年(昭和34年)には皇太子の結婚式が執り行われたのであった。

パレードの様子を、未だ買ったばかりの白黒ブラウン管テレビでの小さな画面で見ていたのを覚えている。
沿道の人々は手に手に日の丸の小旗を振りながら祝っている様子が映し出されていた。
もっとも、日の丸は赤白ではなく黒白でしかなかったが…。



さらにそれから5年後、1964年は否が応にも日の丸が日本国中に溢れかえった。
東京オリンピックが開催されたからである。

因みにこのオリンピックには、当時中学3年生だった私も聖火リレーの伴走者の一人として参加したのである。
胸に日の丸が付いたランニングシャツを着て、五輪の小旗を掲げながら地元のメインストリートを友だちと共に走った。


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競技場では日本選手が3位以内に入賞すると、熱狂と共に日の丸が掲げられるのがテレビに映された。
テレビの中ではアナウンサーがしきりに「日の丸が…」と話していた。


しかし、日本の選手が勝つのは嬉しかったが、日の丸がメインポールに掲げられても特に感動もしなかった。
それは、小3の時に深く心に刻み込まれた日の丸をめぐる経験からだったに違いない。




時間を少し巻き戻すが、小学校の5年生の時だったと思うが、卒業式の練習をしていた際に、生まれて最初で最後のゲンコツを担任ではない教員から食らったことがある。
「君が代」を歌う練習をしていた時だ。

縦一列に並んでいた私たち男子の数人が歌の途中で笑ってしまったのである。
とは言っても歌わなかったのではなく、何だか意味のよく分からない歌詞を間延びした曲に合わせて歌うのが可笑しくて、笑いなら或いは笑いを堪えつつ歌ったのである。
私はどちらかと言うと後者だったと思う。


その男の教員は、後ろの方からボコッボコッと殴ってきた。
自分の後ろで終わるかと思いきや、ついに私も殴られてしまったのだ。

この時、初めて「君が代」は姿勢を正し真面目な顔をして歌わないといけない歌だと思わされたのである。



しかし、こうした少年時代を送ってきた自分は、ある意味で「日の丸」や「君が代」の学習を必然的にしていたと言える。
逆に言うと、この様な体験がないまま育っていたら何の疑問も持たずに大人になり、「日の丸・君が代」に対応していったであろう。

 


蛇足ではあるが、ゲンコツ教員A先生のことは嫌いでもないし恨んでもいない。
むしろ、ボッと生きていってはいけない事を気付かせてくれた恩人とさえ思っている。




(つづく)




<すばる>

祖母の話では、最初の子(私の父)が生まれる頃は貧乏の真っただ中で、現金収入はほとんどなく、それこそ曾祖母の遺族年金くらいしかなかったようだ。

 

 

そんな中、祖父は休む暇なく働き続け、他所の農家でも働き日銭を稼いでいたようだ。

戦争による苦しみは根深く子々孫々まで続くものなのだ。

 

 

豪農ならともかく、我が家の様な没落地主農家において、頼りにすべき長男が戦死するとなると次の担い手は次男三男となるのだが、先述したとおり次男は養子に出したため最後は三男(祖父)に託されたのだ。

 

もちろん、三男は学校教育を受けるような環境にはなく、尋常小学校4年を終えた後は家業の農業に従事していたのである。

つまり、子どもの頃からずっと働きっぱなしだったのだ。

 

余談ではあるが、祖父は文字を書くのが苦手で子どもの私に代筆してもらうことがあった。

私は不思議でならなかったが、家族の歴史を知るうちに何となく子ども心にも感じるものがあった。

 

 

こんな境遇を諦観することなく、我が子(長男である父)には借金しても学業に就かせたかったに違いない。

 

 

 

 

そんな我が子が師範学校に入ったにもかかわらず兵役に就かされるという現実を知った時の両親の思いは如何ほどだったか容易に想像できる。

 

さらに追い打ちをかけるように広島に原子爆弾が投下されたのだ。

 

 

この時、父は広島からそう離れていない土地で野営していたのだ。

ここから先は後日父に聞いた話も含むが、新型爆弾が広島に落とされたという情報を得た部隊は翌日か翌々日には広島市街に入り救援活動を命じられたという。

 

 

しかし、実際には遺体処理が主な任務だったようで、その光景たるや筆舌に尽きるものだったという。

さらにそこに数日間とどまって作業し続けたが、自らの食糧さえ満足に与えられず、崩壊した建物の地下にあった缶詰等にむさぶりついたそうだ。

 

どのくらいの期間そこに留まったかは本人もよく覚えていないようだが、その間にも体調を崩す者がいたり、撤退してからも一緒に行った仲間たちは次々に体に異常をきたし亡くなっていく者も少なくなかったという。

 

 

そういえば、私が祖母に話を聞いた頃にも、夏休みに父の背中に多くの湿疹やあばたのようなものがあるのを見た記憶がある。

母に何やら軟膏のようなものを塗ってもらっていたが、それが何なのか当時の私には分からなかった。

 

言うまでもなく、被爆によるものだったに違いない。

 

 

 

祖母は言った。

「父ちゃんは、本当に運が良かったんだよ。生きて帰って来て。その後も何度か大熱を出したことはあったけど、こうして元気にやってられるんだから・・・。」

 

私は、父本人から聞く前にこうした経過を祖母から聞いて、何とも言えない気持ちだった。

 

しかし、当時の私はそれ以上にこの話を父に聞くことはなかった。

何故そうだったのかは、今では想像でしかないが、何となく祖母の話だけで分かり、「もういいや」と思っていたのかもしれない。

 

 

 

 

「日の丸を揚げなくてもイイんだよ。ウチは」と言った祖母は、大事そうにしまってあった染みの付いたそれを見せながら戦争当時の話をしてくれたのである。

 

戦死した祖父の兄や生きて帰って来た祖父も父も、この日の丸に見送られて戦場へ行ったというのであった。

 

 

しつこく日の丸を揚げることを迫る私に対する祖母の答えは、あまりにも衝撃的だった。

そして、小学校3年生の私は納得したのであった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

<すばる>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の子ども時代は、毎日学校での出来事を必ず母に話すことが習慣化していた。

だから日の丸の件も母に話していたと思うのだが、記憶が定かではない。

 

 

当時の我が家は、農家とはいえ既に保有する田畑が少なく第二種兼業農家に類する家だった。

しかしながら、「旦那」(一家の財布を握る者)というシステムは母が嫁いだ後もしばらく続いていたようだ。

幼い私にも何となくそれが分かっていた。

 

その「旦那」を務めていたのが祖母だったのである。

 

実際の現金収入の大半は教員である父と叔父が稼いできたものだが、主に父が家計費として毎月一定金額を祖母に渡していたようだ。

 

大家族(9人家族)の我が家の家事炊事の中心を担うのは母であった(それは別途述べたい)が、自給できない食材等は「旦那」である祖母が調達するのだった。

 

 

「旦那」は、タテマエとして経済以外にも家庭内の諸々の在り方を仕切る存在とされていた。

しかし、幼い当時の私にも、祖母は一家を仕切れるようなタイプではないのが分かっていた。

 

だから、日の丸のことがあってから数年後には、祖母自ら「旦那」役を母に譲ることを申し出たのである。

 

 

 

またまた話が横道に逸れてしまったが、おそらく母は私が日の丸のことを話したら、「それは、ばあちゃんに聞いてみな・・・」というようなことを言ったのかもしれない。

もっとも、母も日の丸がどこにしまってあるのか知らなかっただろうし、まして私のように日の丸を掲げたいとも思っていなかったと思う。

それに、家に関わることは「旦那」に任せておきたかったのだろう。

 

 

 

我が家では日の丸を門柱に揚げないのは何故なのか?

仮にその時点で9人家族の内6人の大人それぞれに聞いてみれば、誰一人として掲げようとは言わなかったに違いない。

 

 

 

ここで、いよいよ父の話にしよう。

父のことは父本人より祖母に聞いたことから分かった部分が多かった。

 

祖母は仏壇の下の引き出しの中の物から、必然的にかつての戦争の話を私に語るのだったが、最後に登場したのが学徒出陣で動員された父のことだった。

 

父は祖父母の強い願いもあって、借金をしてまでも師範学校へ入るべく勉強をさせられていたようだ。

それは、一家の悲惨な歴史から少しでも兵役を免除されるべく願っていたからだ。

 

後で父にそのことを尋ねると、自分は本当は師範学校ではなく文理科大学に入りたかったともらしていたことがある。

 

 

そんな父も1944年には戦況悪化に伴い学徒動員されるに至ったのである。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

<すばる>

 

 

日の丸がたたんでしまってあった仏壇の下の引き出しの中には、何やら祖母が大切にしていたと思われる手紙やらアルバムに貼られていない写真等が入っていた。

 

私が昔のこの家の歴史に触れた瞬間でもあった。

その時までは時々話には聞いていたが、亡くなった人たちの写真や戦時中に書かれたと思われる手紙を見たのは初めてだった。

 

 

 

「この人は誰?」

「この手紙は何の手紙?」

 

「まだ若いのに、どうして死んでしまったの?」

「爺ちゃんも戦争に行っていたの?」

 

「父ちゃんは何で戦争に行ったの?」

「何で広島へ行ったの?」

 

 

小学校3年生の私には分からないことや初めて知らされたことばかりで、次々に祖母に質問した。

 

それに対する祖母の答えは詳しくは覚えていないが、凡そ次のようなことが分かった。(一部、その後の学習で分かったことも含む。)

 

 

 

 

・自分(祖母)が嫁いできた我が家は、夫(祖父)の祖父が村長を務めるなど品格のある家柄で、利根川の改修工事には多額の寄付をするなどしていた。

 

・しかし、夫(祖父)の父親の代になると自由奔放・放蕩三昧(私が勝手に解釈)な生活になり、田畑の多くを失った。

 

・自分の姑(曾祖母)は命運を長男に託して大切に育てたものの、召集され戦地で戦死を遂げた。(後で曾祖母に聞いた話では実に優秀な青年であり、亡くなったことをずっと悔やんでいる様子だった。)

 

・跡継ぎ予定者が戦死後、一家の経済はどん底まで落ち込み、次男(祖父の兄)を遠い親戚の家に養子に出した代わりに経済的支援を受けて生活を維持した。

 

・三男(祖父)は残されてた僅かな田畑の収入だけでは食っていけず、地主の家で働き日銭を稼いでいた。

 

・そんな貧乏家に嫁いできたのが豪農家の娘であった私の祖母である。

 

・未だ若かった当時の祖父(17歳)だが、家を継いで再建することを求められた。

 

・その祖父も召集され戦地へ送り込まれたが、幸いにも生還できた。

 

・手紙の多くは、祖母が外地の戦場にいる祖父宛に書いた無事を祈る手紙だった。

 

 

 

ほとんどが自分が嫁ぐ前後の話だったが、最後の方で語ってくれたのは自分の息子(父)のことだった。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

<すばる>

 

 

 

学校で先生に言われたことは、何でも素直に受け止め従っていた小学校時代の私である。
校長先生が朝会で話されたことを無視するなどできるはずもない。



それまで我が家では日の丸を門柱に掲げた様子は見たことがなかったので、ウチには日の丸の旗が無いのかもしれないと思い祖母に尋ねたのだ。

「ねえ、ばあちゃん!ウチには日の丸がないの?」
しつこく祖母にせまる私に対し、仕方ないと思ったのか、徐ろに仏壇の下の引き出しから染みが付いたような薄茶色に変色したそれを取り出した。

 

そんな所に日の丸がしまってあるなんて、初めて知った私である。

因みに、この仏壇下の引き出しには、古くて大事な細々として物が入っていた。

私はもっと白く、赤い日の丸が際立つようなものをイメージしていたので、なんか嫌な感じがした。
心の中で「こんな汚れた様なのじゃなく、新しい日の丸があれば良いのに…」と思ったが、貧乏だった我が家に敢えて「新しい日の丸を買って」とは言えなかった。
とにかく我が家でも掲げることが大事なんだと考えたのである。



「今度の祝日にはウチでもこの旗を飾るからね!」という私に対し、祖母から返された言葉は意外なものだった。


「○○(私の名前)、ウチはイイんだよ。ウチでは国旗をあげなくてもイイんだよ。」

この時の祖母の表情は、いつもの笑顔ではなく何か悲しげな感じがしたのを覚えている。
学校で校長がしっかりした口調で国旗掲揚を求めたのに対し、祖母は静かにしかし説得力ある言葉と雰囲気で伝えてくれたのだ。


(つづく)



<すばる>
 

私が初めて日の丸を認識したのは記憶を辿ると小学校の3〜4年生の頃だと思う。

それまでにも学校を始め何処そこと掲げられていたのだろうが、意識の中ではっきりと認識したのはその頃だ。

 

学校で朝会の時に、多分校長だったと思うが「祝日には皆さんの家でも『国旗』を掲げましょう」と呼びかけたのだ。

 

                        

 

初心な私は帰宅すると早速その話を家族にしたはずだが、まともに対応してくれたのは祖母だけだったと記憶している。

他の大人たちは忙しそうにしているので、「ウチには『国旗』がないの?」なんて聞こうともしなかったのだと思う。

日の丸の旗を「国旗」と認識させられたのもその時からだ。

 

学校では「国旗」が様々な場面で登場していたはずだが、その辺の記憶は曖昧になっている。

様々な儀式や運動会などでも掲げられていたであろうし、朝礼台の後には国旗掲揚台というものもあってその名称は何となく覚えていた。

 

 

 

あれから67~8年経過した今、あらためてこの時期の教育・政治状況を振り返ってみると、1958年に学習指導要領が改訂されていくつかの大きな転換があったのを思い出す。

 

政治的には55年体制が確立されて自民党一党支配が強固になりつつも、社会党が一定の議席を確保して労働組合等の反権力闘争も盛んに行われていた時期である。

 

1947年に制定された教育基本法は戦後の民主主義教育のバックボーンとして存在し、自由で創造的な教育活動がなされていたのだが、50年代になると次第に戦争への反省が薄くなり戦後民主主義の揺り戻し現象が顕著になってきた。

 

まさにその時期に学習指導要領が大幅に改訂され、それまでは教育の手引書とも言える「学習指導要領『試案』」だったものから法的拘束力を持つものになったのである。

内容的には「道徳」の時間が特設され、各教科も系統的に指導する教科書中心・知識中心的なものに変えられた。

その背景には、「行き過ぎた自由の否定」「戦前思想への回帰」があったように思う。

 

 

少々横道に逸れたが、私が小学校3年生の時が戦後教育の曲がり角だったのである。

 

校長は上からの指示に従って様々な指導を行なう中で「国旗掲揚」も話したのであろう。

何しろ、初めて「国民の祝日などに日の丸(国旗)の掲揚と君が代(国歌)の斉唱を行うことが望ましい」と指導要領に明記されたからである。

 

 

(つづく)

 

 

<すばる>

 

 

《毎月一回ある最近の避難訓練の実情は》

 

 火事を想定した避難訓練は、どこから火が出たのかで使用できる階段の指示があり、校庭に避難する例が殆どである。

地震発生の訓練は机の下に潜ってから校庭に避難が多い。

 

消防署から起震車を借りて、代表の児童や時には6年生全員が体験する時もあった。

また、最近では津波発生で屋上に避難もあったように思う。 

 

ただ、火事の際に非常ベルを鳴らして避難するとか、閉じてしまった防火扉の「くぐり戸」から避難するなどは計画されていない。

 

     

 

また、4階の児童が取り残されたので、救助袋から避難するなどの避難訓練も無かったと思う。

 

二次避難として学校から離れた場所に移動して避難することも無くなった。

 

代わって防災訓練と称して「ミサイルが飛んでくる」など、現実的でない訓練も「行政」からの指示で実施されている。

 

その他、保護者が学校に来て児童を引き取る訓練も、9月1日の防災の日に合わせて実施される。

 

 

 

 

《救助袋を使用した避難訓練は》

 

 現役時代で避難訓練担当の時は、救助袋からの避難と発煙筒を使った避難訓練は必ず実施していた。

 

今では垂直式でらせん状に降りられる救助袋もあるが、20年前は斜めに傾斜を付けて避難するものが主だった。

 

4階の教室の窓側に取り付けてあり、実施する時は救助袋を担当する教員が最低3~4名は必要で、校庭側にはその倍以上の員数が必要となる。

 

校庭に避難した全校児童は、取り付け作業や4階から救助袋で避難する教員や児童を見ることで、疑似体験にもなっていた。

準備や時間と人手も必要だったし、給食調理師さん以外の教職員が総出で実施していた。

 

今では授業時数確保が優先され、避難訓練に多く時間を取られることを避けている傾向もあり、救助袋を使用する訓練は実施していない学校が多いと思う。

 

しかし垂直らせん式救助袋に取り換えれば、実施する学校も増えてくると思う。

 

       

 

       

       

           

                     

 

 

 

《煙の怖さを体験できる発煙筒の避難訓練》

 

 この訓練は非常に有意義だったと思っている。

いま時やっている学校は皆無と思うが、手順は

①砂を入れたバケツに二個 

②発煙筒を二個用意する 

 

発煙筒はマッチのように「頭薬」が付いており、「側薬」にこすり付けると着火して火と煙を激しく吐くので砂を入れたバケツに立てて使用する。

 

着火する担当者は防災ヘルメットを付けて、タオルで口を防ぐ準備をして行わないと大変なことになる。

 

階段の踊り場二か所に設置する。

煙が充満すると、階段が一段も見えなくなる。

煙で涙が出たり煙を吸ったり、一クラスが降りるのに時間がとてもかかる。

 

その間に煙が廊下に流れることもあるので、階段を下りて「煙」の怖さを体験させるため発煙筒は二個用意した。

 

 

 600人ほどの全校児童は、2階、3階、4階から同じ一つの階段しか使えないことを想定して訓練した。

 

 

      

 

 

前が殆ど見えないのは担任の私でも恐怖だったし、児童の多くは「とても怖かった」「煙を吸った」「校庭に出られてほっとした」など感想があった。

 

しかし、この訓練は担任の多くから「前が全く見えなくて階段は危険すぎる」と云う意見も出て見直しを求められた。

 

私としては発煙筒の階段使用にこだわりもあったが、「廊下で発煙筒」を着火してそこを通らせる案にした。

 

翌年廊下で実施したが、児童は煙の怖さも充分体験できたし、こちらの準備も少なくて良かったと思った。       

 

 

 

 

《火災の原因となった事例》

 

 過去に火災の原因となった事例として、日光に当たった水の入ったペットボトルが凸レンズの役目になり紙を焼いて火災になったことの事例が新聞報道であった。

 

実体験としては、魚の飼育観察室のある学校に勤務していたとき、メダカなど飼育に使う空気を発生するポンプが、プラスチックの箱に入ったままになっていたため、熱をもってプラスチックが溶けて煙が部屋に充満した例もあった。

 

また、火災にはならなかったが、水を入れた電気ポットを通電したままにして二週間も放置されたことがあった。

 

三学期が始まる前日に理科室準備室に行くと、通電されたままの電気ポットが保温状態になっていた。

中を見たらお湯が半分くらい残っていた。

 

誰が使い忘れて放置したのか、該当する担任を調べて注意をしたことがあった。

これは日直が準備室の中まで鍵を開けて点検すれば、気付いたと思うが誰も確認してなかった。

もしお湯が空っぽになっていれば、ポットが溶けたりして火事になっていたかも知れない。

     

 

 

 

《終わりに》

 

 今回の事件は音楽教諭の不注意と油断があったと思う。

 

電気ストーブやサーキュレーターは、音楽教諭の私物とも報道されているが、早朝出勤して金管バンド関係の洗濯物を乾燥していたことを、多くの教員や管理職は承知していたと思う。

 

音楽教諭の個人的な責任だけを追及するのは間違っていると思う。

 

ともあれ重大な結果を招いたことに学校関係者は、より一層安全管理に気を配る必要がある。

 

また、危険な薬品や火を使う理科や刃物を扱う家庭科や図工、ケガの多い体育など、小学校の教師は日々余裕がなく神経をすり減らす職業と云える。

 

事故など安全対策に関する情報共有も、「働き方改革」の一環で対面での会議を極力減らしている昨今、PC画面上の伝達が多くなり課題もある。

 

 

 

 

                                                          2026/7/5  <自立神経を回復中のデラシネ>

 6月19日 滝野川第三小学校の音楽室準備室から発生した火災は、音楽教諭が電気ストーブと二台のサーキュレーター(送風機)で乾燥していた洗濯物から出火したことが原因と判明した。

                       

 児童と音楽教諭ら11人が重軽傷を負ったものの、窓下の庇(ひさし)を伝って避難できたことは不幸中の幸いとも云える。

 

 それにしても、サーキュレーターはまだしも、人の居ない準備室で電気ストーブを使って、授業中に洗濯物を乾かすとは信じられない。

常識が無いのか、いつもやっていたことだからと安心していたかも知れない。

 

 

 

《校長会見への疑問》

 

 7/2のTV報道による校長会見では「以前から金管バンドで用いた消毒用タオルを洗濯して干していた」「19日当日は自分の服も干していた」ことが公表された。

 

 報道には若干の疑問も残る。

これだと当日の洗濯物は「音楽教諭の私服が火災の原因」に限定されてしまう。

当初「焼けたハンガー20本」と云う報道もあったし、私服以外の洗濯物は本当に無かったのだろうか。

 

 

 

《ユニフォームも乾燥していた可能性はないだろうか?》

 

 かつて勤務していた学校では、使用した金管バンドのユニフォームや体育大会で使用したユニフォームは、児童が家に持ち帰り洗濯して持ってくることになっていた。

近年ではそれらを拒む家庭も出てきたと思う。

 

 サーキュレーターが二台と電気ストーブがあると云うことは、以前からユニフォームの洗濯は音楽専科がやっていたかも知れない。

天気が良ければ外で干すことも可能だが、梅雨時でやむを得ず室内干しになったと思う。

 

 しかし、無人の部屋で電気ストーブ使用は最悪である。

衣類の真下にストーブを置くと、サーキュレーターの風で落ちて燃えてしまう可能性もある。

 

 火災で校舎の一部は使えなくなり、今月から三年生以上の児童は近隣の学校に分散登校と云う。

 音楽教諭は「深く反省している」と云い、いずれ責任を問われることは間違いないが、その代償はあまりにも大きい。

 

 

 

 

《防火扉のくぐり戸の使用は無理だったのか》

 

 初期消火が出来なかった原因として、

 

      

①煙探知機が作動していたのか 

②熱で感知する火災報知器は作動して非常ベルが鳴ったかどうか 

③消火ホースは4Fの何処にあったのか

などいろいろ気になる。

 

 報道では廊下は黒煙が充満して防火扉が作動していた。

その脇のくぐり戸から避難するはずだったが、無理と判断して庇(ひさし)から避難となったそうだ。

 

 また、4Fの音楽室には救助袋があったが、男性教諭はうまく「使えなかった」の報道もあった。

これは当然のことであり、一人で扱えるものではない。

 

 

 

 

《救助袋の準備は人手がかかり直ぐには使えない》

 

 救助袋は畳んで収納され、下に投げるロープに砂袋がある。

 

      

 この砂袋付きロープを校庭にいる人が拾って引っ張り、救助袋を斜めに支える二か所のフックに取りつける作業がある。

フックは校庭の地面に埋め込まれているので、何処にあるのか普段は砂に埋もれて分からない。

人手も準備もかかるし、実体験をした者でなければ分からないことが多々ある。 

 

 設置出来たら、教員が先に降りて安全を確かめる。

次に児童が降りるが側にもう一人の教員が必要だ。

このように手間暇かかかり大変なので、救助袋を実施計画に入れてある学校は最近では殆どないと思う。

 

 私が担当をやっていた時は、消防署に来てもらい、取り付け方や教員全員が救助袋から降りる実体験も2年に一回はやっていた。

 

 

 

《庇のあの校舎はどのくらいあるのか?》

 

 だから、庇(ひさし)からの避難は「それしか方法が無かった」し妥当な判断と思ったが、庇のある学校はどれだけあるのだろうか。

 

 児童が教室の窓から庇に出て、落下する危険性があるからと思われるが、私が勤めた4区6校の学校では一つもなかった。

 今後は庇も緊急避難の一つの方法として、設置の必要性など議論が必要かもしれない。 

 

 

 

(つづく)

                          2026/7/3 <デラシネ>

 

 

 

自らの労働条件は自らの手で!教え子を再び戦場に送るな!日教組・東京教組と共に闘おう!

NEWS  江戸川区教組

2026 /06/30  NO.2604   江戸川区教職員組合                                                                                                                                              (江戸川区東小松川3-35-13ニックハイム船堀204)

 
区教委に教育諸課題について                                           申し入れ
 

6月24日(水)、17時から区教委教育指導課に年度当初の顔合わせと申し入れを行いました。

区教委からは教育指導課長をはじめ3名の方が、区教組は委員長他3名が参加しました。

申し入れ事項の6点は以下の通りです。

<教育指導課の回答は紙面のニュースをご覧ください。>

 

1.小学校の教科担任制について

 江戸川区の教科担任制の実態は?

(実施校数、どの教科をどの学年で実施しているか。

理科などの教科によっては関わる時間に差があるのでは)教員への意識調査を行っているか。

 

2.タブレットの使用について

 学校、児童・生徒、保護者にアンケートを取っているか?

過度の活用による身体的・心理的な面への影響、学力の低下等について、どのようにお考えか。 

対策は?

 

3.小学校の「朝の居場所」つくりについて    

 参加人数や直面する課題等は?

 

4.学校部活動の地域移行について  

 どの学校のどのクラブで具体化しているか?

平日・休日それぞれの進捗状況?

教員の働き方改革になっているか。

 

5.フッ化物集団洗口の実施について

 幼・保・小・中で何園、何校が取り組んでいるか

参加しない子どもの状況はどうか。

問題や課題等はないか。

WHO(世界保健機構)ではフッ化物洗口については、6歳以下は禁忌となっている。

どう考えるか。

 

6.学級担任加算について   

  江戸川区の学級担任加算制度とその運用は?

学校は教職員が協力して成り立っている。 

賃金格差をなくしたい。

 

 部活の地域移行や学級担任加算など、教職員の労働条件に関わることは今後も教育指導課と率直な意見交換を行うことを確認して申し入れを終えました。

 

 フッ化物集団洗口は、担当の学務課給食保健係と話し合う予定です。

 

 

 

辺野古沖転覆事故に

     文科省が「教育基本法違反」 

       沖縄教職員組合から抗議

 

 5月22日、文部科学省は、沖縄県名護市辺野古沖転覆事故をめぐって、同志社国際高校の研修内容が教育基本法に違反するという見解を出しました。

6月5日、沖縄教職員組合4団体は会見を開き文科省見解に抗議しました。

 

 3月16日、名護市辺野古沖合で、京都府の同志社国際高校の生徒を乗せた船2隻が転覆し、17歳の女子高校生を含む2人が死亡した事故が発生しました。

 

 文科省は修学旅行の研修内容が教育現場での政治的活動を禁じる教育基本法に違反するとして学校側に是正を求めました。

 

 文科省の見解は「政府の意向に反する題材・取組みは許さない」「政府の意に沿うかどうかが中立性の基準」との圧力を感じさせるものであり、教育への不当な政治介入です。(沖縄高教組 執行委員長) 

 

 今回の文科省見解により、教職員が平和教育を行うことに委縮することが危惧され、教職員組合は会見で「沖縄で学ぶということを萎縮させてはいけない」と強調しました。(沖縄TV放送報道参照)

 

 

 その後、地方の動きとして、「公立学校における平和教育及び校外学習の政治的中立性と安全確保を求める陳情」が全国各地の議会に提出されています。

 

 修学旅行や平和学習の記録を確認し、政治的中立性の懸念が残る場合には、学校や関係者への聞き取り調査などを求める動きがあるとのことから、日教組から調査の要請がありました。(6月3日)

 

 東京教組の各支部で調べたところ、市部を中心に、区部でも近隣の東部のいくつかの区などで陳情書が出されていましたが、ほとんどが不採択でした。

 

 

 草の根保守が地域から、平和教育や平和学習に縛りをかけてきている動きを見過ごすことはできません。

「9条改憲」、「戦争する国」作り、「自衛隊派兵」に突き進んでいる高市政権の軍拡政策と軌を一にする動きです。 

沖縄の教職員組合と連帯し、文科省に抗議するとともに、今こそ、平和教育を推進していきましょう。 

 合わせて、東京教組ウイークリー1124号「今こそ平和学習の発展・充実を」をぜひ、ご覧ください。

 

 

 

<今後の予定>

                          

◎7月3日(金) 18:00~  分会代表者会議  タワーホール船堀405

 

◎7月4日(土)14:00~   「差別と偏見の現場を取材して

                ~「日本人ファースト」は何を壊しているか~

  安田浩一さん(ジャーナリスト)(日教組会館703)人権東京の会 学習交流会

 

◎7月14日(火)、28日(火)13:30~ 教育委員会 

               *傍聴は15分前までに 4F教育推進課受付

 

◎7月19日(日) 14:00~   原爆犠牲者追悼式   (葛西区民館)

 

◎7月19日(日) 15:30~  NO WAR! 憲法変えるな!

                  国会正門前大行動  各支部1名以上

 

◎7月25日(土)~ 27日(月) 夏の合宿 

             (三沢基地・六ケ所村原発関連・おおまのあさこはうす)

 

◎8月1日(土) 10:00~ 母と女性教職員の会 全国集会        

             「今こそ平和を!『はだしのゲン』」神田香織さん

                   13:00~ 分科会(日本教育会館)

 

◎8月4日(火)~6日(木)  原水禁広島世界大会 (区教組代表参加)

 

◎8月4日(火) 13:30~ 教育委員会 

 

◎8月 6日(木)    18:00~  反核キャンドルデモ   
                場所:滝野公園 (葛西区民館前)
 
 
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      生活と権利を守るためにみんなで力を合わせましょう

 

                             江戸川区教職員組合加入届

 

江戸川区教職員組合委員長様 

              

私は江戸川区教職員組合に加入いたします。

          

                     (        )学校分会     

                     氏名(        )  

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高市政権のろくでもない本質が次第にあらわになってきているが、国会終盤にまたおかしな法案を提案・成立させようとしている。

 

「皇室典範の改正案」である。

 

内容がかなりめちゃくちゃなものであるにもかかわらず「立法府の総意」として発表されている。

「総意」であるにもかかわらず、①女性皇族が結婚後も皇室に残る案、②旧宮家の男子を養子として皇族に加える案、の2案がまとめられた。

 

 

この「両論併記」こそ、やってはならない「悪手」だと思う。

歴史を見れば「両論併記」がこの国を滅亡寸前にまで導いたことを忘れてはならないはずである。

 

 

日米開戦前の日本において、陸軍省と海軍省の「対米強硬論」と「対米協調論」の双方を併記し、組織としての方針を絞り込めないまま開戦に至ったのだ。

 

陸軍、海軍双方のメンツを立てる「両論併記」が展望のない戦争を始めることにつながったわけだ。

 

 

このような問題はともかく、②案について「憲法違反」の指摘がないのはいかがなものか?

 

憲法14条は次のように定めている。

 

第十四条

1.  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

2.  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 

 

旧宮家というのは、この憲法が規定する「国民」ではないというのか?

 

今回の皇室典範改正案は、旧宮家の男子だけに「皇室の養子」となる「特権」を与えようとしていることになり、憲法違反になると考えるのはおかしいのか?

 

旧宮家に今回皇室典範の改正で皇室の養子となりうるという「特権」を与えるならば、それは、第2項の「家族その他の貴族」を創設することにならないのか?

 

こんな疑問だらけの案を「立法府の総意」としてまとめるというのは、「総意」という言葉を破壊することではないのだろうか?

 

そしてもしも「皇室典範」を改正するなら、「生前退位」を規定する方が先ではないのだろうか?

 

 

ちなみに「旧宮家」というのは、次のようないきさつでできたものという。

 

第二次世界大戦後、GHQの指令によって皇室財産が原則として国有化され、各宮家は経済的な自立を余儀なくされました。

同時に、皇室の規模を適正に保つ方針やGHQの政策に基づき、11宮家は皇族の身分を離れて一般国民となりました。

旧宮家と現在の皇室の男系(父系)の血筋は、約600年前の室町時代に分かれた伏見宮貞成親王(さだふさしんのう)に行き着きます。

現在の皇室とも非常に近い血縁関係にあり、明治天皇や昭和天皇の皇女が旧宮家に嫁いでいる家系もあります。

 

 

 

 

 

<K.H>