きのうのアカデミー賞は、作品賞を間違えて発表してしまい、しかもスピーチまでしてしまった後で訂正という、ドタバタになってしまった。
珍事はさておき。
いつも書く通り最近の私は衛星放送頼みになっているので、見る映画が日本の劇場公開から約一年遅れている。この季節は毎年一年前のアカデミー賞で話題になった作品の特集が組まれるので、それで見る事になる。
原稿書きの合間を縫って、そんな一本を見た。昨年の作品賞受賞作、トム・マッカーシー監督の「スポットライト 世紀のスクープ」である。
アカデミー作品賞には時々「ん?そうでもないけどな」という映画も散見されるものだが、この「スポットライト」は、文句なしだと思った。
いろいろな意味で「堅牢」な作りの作品、である。
舞台はボストン。2000年代の始め。
新聞社「ボストン・グローブ」の編集部内に、四人だけで編成された特別チームがある。彼らは「これは」と思うネタを掴むとすぐには記事にせず、そのネタを同紙の「スポットライト」というコラムで連載記事にする。地味なコーナーだが一つの話題を時間をかけてじっくり追うのが信条のコラムであり、またチームである。
マイケル・キートンをリーダーに、マーク・ラファロ、レイチェル・マクアダムス、ブライアン・ダーシー・ジェームズの四人が演じるのがそのメンバーで、他に彼らの上司的に編集長のリーヴ・シュレイバー(好演!)とキートンの友人記者ジョン・ステッラリーがいる。
そんな彼らが行き当たった大ネタ、「カソリック教会の神父による児童虐待事案」。
結婚を禁じられた若い神父たちの間で鬱屈する性的欲求から、主に男の子に対する性的虐待(レイプ)が長年に渡り頻発しており、しかしボストンの教会組織は深く地域に根ざしている為に、その影響力と隠蔽能力も凄まじく、驚くほどの数の性的虐待事件があるにも関わらず、その事実はほとんど表に出て来ない。
映画は、この虐待事件をコラム「スポットライト」で取り上げた実在の記者たちの物語を再現したもので、異様な迫力を持つ作品に仕上がっている。
「これは散発的な個々の事件ではない。もはや『現象』だ」
記者たちが密かに取材した、神父の性欲と虐待との関係を専門に研究している精神学者・心理セラピストのオフレコ発言がこれである。キートンたち記者がわずかなヒントや証拠から調べていくと、何とボストンだけで児童虐待をした神父の数が90人近くになってしまう。学者の言う、「現象」である。性的に抑圧された環境の中で、神父たちが同性愛、しかも児童性愛に走る「現象」なのである。
しかしそれほどの数の事例がありながら、教会組織の鉄壁の守りによって事件は悉く隠蔽されており、キートンたち記者の取材活動は難航を極める。何しろ教会組織は、ボストンという街の政界、財界、司法組織にまで食い込み、「牛耳っている」と言ってもいい状態で、あろう事かわずかに起訴された過去の事件の裁判に関する記録が、裁判所のファイルの中から消えているのである。劇中の記者たちだけでなく、この映画を見る我々観客も唖然とするのだが、とにかく、ボストン・グローブの当時の記者たちは、よくもこの難しい取材をやりきったものだと感心する。
取材の難しさは教会組織の隠蔽によるものばかりではない。
何しろ事がほとんど公にされていないから、ボストンの市民の間には「神父様方がそんな事をなさるはずがない」という固定概念が根強くあり、話を聞きに行ってもハナから信じない人がほとんどという有様。
一方、子供の頃に被害に会い、今は成人している被害者たちも、羞恥心や今の自分の家庭を壊したくないという想いから口が重く、当初はほとんど証言も取れない。つまり、教会組織が地域コミュニティーに深く根付いているこの土地では、虐待事件を暴く事イコール地域を敵に回す事に他ならず、そこに「スポットライト」の記者たちの苦行がある訳である。
それでも彼らは、10歳から12歳くらいの男の子たちが、無邪気に「神様の使徒」と信じて疑わない神父からレイプされているという事実に義憤とひどい嫌悪感を感じ、次々に立ちはだかる障害をはねのける原動力にしていく。そこには正義を重んじるアメリカ自由主義の神髄があり、実話の映画化だけに「まだまだ現実も捨てたもんじゃない」という気分になる。これは映画の作り手たちがこの作品の中核に据えた「揺るぎない信念」であり、何よりそこが「堅牢」なのだ。
別の「堅牢さ」もある。
かつては多くあったのだが最近は減ってしまったいわゆる「新聞記者モノ」がこの作品で、脚本も書いている監督のトム・マッカーシーは、この実話を徹底して「記者モノの最も優れたパターン」で貫いて描いた。
社内では小さな部署に属する記者的マイノリティーの主役たちが、密かに大きなネタに気づき、それを追い、様々な困難を乗り越えて真実を明らかにしていく。そこには途中から仕事を越えたいい意味での「社会正義」の通念が加わり、最後は記者生命の全てを賭けて巨悪に挑んでいく。これが黄金パターンだと思うのだが、「スポットライト」はこのパターンに忠実に組まれており、しかもその手法がちっとも古臭くなく、記者モノが減ってしまった今だからこそ逆に新鮮に見えるという、したたかな作りになっているのだ。
これもまた作りとして「堅牢」だし、衝撃的な事件を描くに当たって正攻法のドラマツルギーで攻めた辺りが、監督の有能ぶりを物語っている。他にもいろいろな手法の選択肢はあったはずなのだが、あえての「王道」に挑んだ腹のくくり方はおおいに評価されていい。「作品賞、文句なし」というのはこの点にも、ある。
監督のトム・マッカーシーは、普段は脇役の多いリチャード・ジェンキンスを主役に据えた07年の「扉をたたく人」や、同じく脇の名優ポール・ジアマッティ主演で撮った「WIN WINダメ男とダメ少年の最高の日々」、14年に酷評された(笑)「靴職人と魔法のミシン」を撮った人。私はこの「靴職人と魔法のミシン」ですら好きな監督さんなのだが、彼の映画はいつも、「あえての地味な感じ」にイヤミがなく、そして手堅く作り上げられている。その彼独特の「手堅さ」が、今回の「スポットライト」では「堅牢さ」にまで進化しており、そこが素晴らしい作品を生み出した理由なのではないか、と感じた。
さっきから「堅牢さ堅牢さ」と書いているが、わかりやすく言えばこうである。
この「スポットライト」は、今後何十年経ってから見ても、決して古びる事はない。おそらくいつの時代でも観客を引き込む事のできる力を持っている。
そういう「揺るがない堅牢さ」を持っている映画なのだ。
昨年の同賞は、ノミネートが白人ばかりだったために「白いオスカー」と言われ物議を醸したものだが、そのせいで作品賞を獲ったこの映画も何となく割を食ってしまった感がある。
しかし、事この「スポットライト」に限っては、そうした物議を別にして見事な仕上がりの映画だと、私は思う。その辺りを混同すべきではない。
まだそう言うにはちょっと早いのかもしれないが、以下、拍手とともに敢えてこう評したい。
紛れもない、名作である。