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適当な事も言ってみた。

~まあそれはそれとした話として~

何故、そうまでして芸術家は「誠実(客観的)な視点」で自他を見つめなければならないのか。
それが「新しい切り口」とどのような関係があるのか。

 それは、世界中に無数に存在する「見えざるもの」を見い出す目を養う必要があるからである。
そして、「新しい切り口」とは、その「見えざるもの」の存在をを証明する窓だからである。
 我々の”感覚(センス)”というものは、 本来はもっと明敏なものであるにも関わらず、
何も意識しないままでいると、不明瞭であいまいな判断しかもたらさない。

 例えば「美味しい」とか「不味い」といった感覚。

日常生活においての判断はこれで充分かもしれないが、飲食に携わるプロフェッショナルが、
これと同様の感覚ではいられない。
 彼らは何かを口にするとき、五感を総動員して、その出来不出来を解析するはずである。
言うまでもなく、彼らの本質的な感覚は、一般の人間となんら変わることはない。
だが、感覚を研ぎすます訓練を経て、彼らの感覚は極めて敏感になり、
微細な差異も感じとれるほどになるのである。

 料理人にとっての仕事とは、先ず「美味しいものを作る」ということであるとすれば、
料理人は「美味しいもの」について詳しいはずである。何も悪食の料理人がいてはいけない、
というわけではないが、それは例外(論外)である。

 これが「画家」であれば、先ず研ぎすますべき感覚は「視覚」にあるだろう。
色彩、形態、構図のバランス感覚。この感覚を鍛える為に、画家は素描する。
やってみれば解るが、”そっくり”に描こうとしても、最初はなかなか”そっくり”にならない。
素描の第一歩は、自分がどれだけぼんやりとものを観ていたかを自覚することから始まる。

では、プロフェッショナルな「芸術家」が鍛えるべき感覚とは何であろうか。
 「新しい切り口」によって、それまで当然と思われていたもの、ありふれていると思われていたものが
大きく変貌し、「新たな価値」を発揮し始める。
 これまで多くの芸術家たちが掲げてきた主題が「価値の創造」であるならば、
その主たる方法はこの「新しい切り口」の探求にあると考えてよいだろう。

「新たな価値」が「新たな基準」となり、やがてそれが「旧い価値」となったとき、
その真逆のベクトルに「新たな価値」を見出す、という作用と反作用の流れがある。
これが美術史では、古代ローマの時代から、幾度となくくり返されてきた。

 要するに「新しい切り口」を探求することは「価値の創造」とほぼ同義なのである。

故に、古来より芸術家たちは「客観的な視点」で物事を捉える訓練を行う。何とすれば、
「新しい切り口」で世界を切り取るには、「先入観」や「固定概念」、或は「常識的観点」
という無意識的バイアスを、出来るだけ取り除かねばならないからである。
 当然のことながら、完全な客観性を一個の人間が保有することは不可能である。
ここで重要なのは、「自分が観ている景色や風景を、自分はどのように見つめているのか」
という意識を持つことなのだ。

 一見、芸術家の魂は、極めて個人的な情念をエネルギーとしているかのように見えるが、
実はそれだけだと、自らの表現したいことを伝達出来ない。
それはあたかも、自らの心情を言葉で伝えるのには、豊かなボキャブラリーが必要であるのと
同じである。
混じり気のない情熱を伝達するには、自分の情感のみを重視するわけにはいかないのである。

 つまり、芸術家の素養として、どうしても必要なのものが、
「常に誠実に自らを見つめる」という姿勢にあるのだ。言い換えるなら、それは
「自と他の関係を問う視点」ということになる。

「自分とは誰か」「自分は何処に居るのか」「自分は何処から来たのか」

答えを出そうとしても出し様のない、根源的且つ普遍的な、哲学としての問いである。
 かくしてあなたは、自らを奮い立たせ、壁を昇ろうと決意する。
自分なりに、「やりたいことをやりたいようにやって生きて行こう」と決心するのである。
もしかしたら、凡人が巨匠になる過程とは、こうして切り拓かれるのではないだろうか。
「自分は大したことない」と実感して初めて、それでもなお、その道を進もうとして
、初めてスタートが切られるのかもしれない。

 自らの才能を奮い立たせるとき、あなたが持っている最大の武器が
「仕事に対する愛情」であるとすれば、
あなたは自らの成すべきことを能動的に「さらに好き」になる必要がある。

 普通、「好きになる」ことは、受動的な結果として感じることが多い。
”褒められたから好きになる”、というきわめて単純明快なシステムは、ほぼ誰の身にも経験のあることだろう。
 しかし、”自ら挑むようにして好きになる”というのは、かなり不慣れな行為である。
それ以前に「本当にそうなれるのか」という疑念が浮かんで来るかもしれない。

 結論から言えば、それは可能である。

 どのようなことでも、細部にわたって観察をくり返して行けば、なにかしら興味の対象を見出せるはずである。
ただ漫然と見ているだけでは不十分である。感覚を鋭敏に研ぎすます必要がある。
 なにかしら面白がれるところがあるはず。どこかに魅力があるはず。
もともと好きで始めたことであれば、それを見出す動機は既に充たされている。
もっとのめり込むだけの動機はないか、それを徹底的に探すのである。

 つまり、「世界を変える」というよりは「自分を変える」という方を望むのである。

 それは”人が変わったような”変革ではない。
自分の”ものの見方”を変えようと勤めるということである。
「視点の転換」或は「新しい切り口」とも言えばいいのかもしれないが、
実はこれこそが、ほぼ全ての芸術家たちが試みていることの本質の一つなのである。
 ありきたりで当たり前な世界でも、見る角度によっては、途轍もなく新鮮な世界に見え得るのだ、という試みである。
ここで、もう一つ、天才との邂逅におけるエピソードを紹介したい。
 「ケンブリッジにハーディあり」とまで言われた、ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは、
数々の偉業を残した、イギリス数学を牽引する存在であった。
 そんな超大秀才であるハーディは、数学者としての生涯最大の功績は
「ラマヌジャン発見である」と述べている。
 シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、インド出身の大天才数学者である。
普通の数学者なら、一年に一つか二つの定理を発見するのに精一杯だというのに、
このラマヌジャンは、一日に半ダースもの定理を発見したという。
 当時はインドがまだイギリスの植民地であった時代で、ラマヌジャンは寒村の出身、
しかも基礎教育もろくに受けていないという身の上である。
そんな彼は欧州中の数学者たちに次々と論文を送ったが、当然のように見向きもされなかった。
 たった一人、当時最高の大秀才であったハーディを除いて。

一発でその類い稀なる天才を見抜いたハーディは、早速ラマヌジャンをケンブリッジに招聘する。
後にこの二人は、数学史上で最も名高いコンビとなる。
(最終的にラマヌジャンは悲劇的な人生を閉じることになるのだが…)
 
サリエリとハーディは境遇的に似ているとはいえないだろうか。
才能に恵まれ、努力も人並み以上にしたはずである。だが、ふと現われた「天才」に対して、
彼らが選んだ選択は対照的だ。
前者はその才能を妬み、亡きものにすることを選び、後者はその才能に貢献することを選んだのである。

 絶壁の前で煩悶しているあなたは、その悩みの中で、あることに気付く。

実は私たちは、天才を知る前から、ずっと他人と比較してばかりいたのではないだろうか。
それこそ、ありとあらゆることについてだ。
資産、容姿、学力、出生、性別、年齢…。

自分という人間を見つめるのが怖くて、他人との差に、その基準を置いてはいなかっただろうか。
世界が自分に都合良く「変化」することをただ漫然と願うばかりで、
自らが変わることを避けてはいなかっただろうか。

 「天才」には敵わない、という理由で、芸術家になるのを諦めるなら、それは自分以外に
自らの価値基準を置く、ということにほかならない。
それでは芸術家として失格であろう。少なくとも、確実に「創造的」でない。
 「天才には敵わない」
…巨匠を目指すあなたは自らの非才を知り、「絶望の淵」に立たされたとする。
しかし、そこで全てを投げ出してしまうのであれば、本当にそれはそこでおしまいである。
それまでにいかなる苦労があったとしても、失望した地点が、その人の最終到達地となって
終わるのである。

 映画「アマデウス」に登場するサリエリは、超禁欲的とも思える努力を積み重ねて、
とうとうウィーンの宮廷音楽家にまで上り詰める。そして大天才モーツァルトと出逢い、
一見してその才能を見抜き、身を焼くような嫉妬に駆られる。
サリエリは自らの非才を憎み、モーツァルトと出会った自らの運命を憎み、
そしてモーツァルトを憎んだ。つまり、何もかもを憎んだのであった。
 この物語の悲劇は、サリエリがなによりも先ず、自らの才能を否定してしまった、
ということに端を発している。

 サリエリは同時代人の誰よりも先に、モーツァルトの天才を見抜いたのである。
それはそれで偉大な発見であったということに、ついにサリエリは気がつかない。
モーツァルトとの邂逅は、サリエリにとって、「絶望の淵」でしかなかったのだ。

確かに、それは「絶望の淵」に思える。
ただし、それは見下ろす淵ではなく、「絶壁の麓」と考えることは出来ないだろうか。
それは垂直に切り立った、無慈悲なまでに高い壁である。
堕ちて死ぬことはないにせよ、生きのびる為には、昇るしかない、ということだ。

…そしてあなたは、「昇るか、引き返すか、回り道をするか」という選択を迫られる。
あなたは、そうまでして昇らねばならないのか、と悩む。
奮い立たせるか、さっぱり諦めるか、より安全で楽な道を探すか…。

 わたしたち「普通の芸術家」の才能は、ここで試される。
天才のそれと比較して、どうしようもないと思った瞬間から、試されるのである。
自分なりに、自分の道を切り拓くしかない、という決断である。
 天才科学者の代名詞、アインシュタインは、かつてこう語っている。

「”It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.”
(私は凄く頭がいいってわけじゃない、ただ、より長く一つの問題とつき合ったというだけなのだ)」

此処で「へーそうなんだ」などと思ってはいけない。
 ここで語られている「より長く一つの問題とつき合う」ということが、ニュートンのそれと
同様のものであることは、最早疑い様がない。
しかもそれが「別にどうということないよ」といった風情で語られていることに注意したい。
 これは飽くまでも、アインシュタインという人間の感覚的尺度で語られている、ということを忘れてはならない。
要するに、凡人たる我々とは「感覚」が違うのである。我々は彼らとそれを共有することが出来ないのだ。

 そういう意味では、確かに「天才」とは、”人知を超えた能力を発揮する才”という意味の言葉かもしれない。
しかし、数々の神話に彩られた彼らもまた、血の通った「人間」であるということもまた、確かなのである。

 故に天才は哀しい。彼らは常に孤独だからである。

同じ血の通った人間同士、理解し合えるはずのことが理解し合えないという孤独は、
おそらく天才にしか解らない感覚であろう。
彼らは強い孤独感と共に、仕事に没頭する。常人には理解出来ない苦痛と引き換えに、
常人ではなし得ない偉業を成し遂げるのだ。
天才の偉業を識るということは、そのまま天才の哀しみを識る、ということなのである。
 青雲の志のなかで、非凡なる才能に憧れるのは真っ当なことだ。
しかし、非才なる身の上知った上で、それを喜ぶこともまた、宜なるかなというべきであろう。

天才がその本領を発揮したとき、「これは敵わない」と思うのが普通である。
まるで感覚が違うのだ。量も、質も、圧倒的なレベルである。降参するほかない。
 自らの才能が傑出したものであることを願うものの、誰もが天才である訳はなく、
多くの者が自らが天賦の才に恵まれていないと自覚する。そんなときは、だれもが絶望せねばならないのだろうか。
映画『アマデウス』の悲劇が脳裏に蘇るばかりである。
”非才なる凡人”な我々は、サリエリにしかなりえないのか、天才でなければ巨匠は生まれ得ぬのか、と疑わしく思えてくる。
 イギリスが生んだ天才数学者アイザック・ニュートンは、ケンブリッジで教鞭をとっている間も、
卵の代わりに懐中時計を茹でたり、パジャマ姿のまま出講したりと、
当時からその奇行で有名であった。
しかし、その裏側にある超人的な能力を知れば、その奇行を嗤う者の顔色も変わるはずだ。

 「近代科学を100年早めた」と言われる大論文『プリンキピア』を執筆中の五年間、
ニュートンは秘書に一度しか笑顔を見せたことがなかったという。
食事も(食べて下さいと)催促しなければ摂らなかったそうで、講義の時間以外は研究室
に閉じこもりっきりだったという。その極限まで絞りつくされた精神集中は、
限りなく狂気の沙汰に近かったはずである。

 この手の話はニュートンに限ったことではないが、所謂「天才」と呼ばれる人々は、
やはりこれに近い「度はずれた集中力」を持っているらしい。

「度はずれた集中力」が発揮する驚くべき例として、二人の天才的巨匠も、ここに紹介しておきたい。

 手塚治虫は生涯に15万枚の原稿を描き、ピカソは生涯に(同じく)15万点の作品を作ったそうだ。
前者は少年ジャンプ1本の連載だった場合、それをこなすのに165年かかる。
平均月産でざっと150ページ(つまり一日5ページ)描いていた計算になる。
後者は10歳の頃から制作をして、92歳で死ぬまでの間の82年間の間に15万点だから、
一日も休まずに毎日(やはりこちらも)5点は制作したことになる。
 これが所謂「巨匠」の成せる業である。「質より量」という言葉を軽く粉砕する、圧倒的な「量」がある。
ここでいう「量」とは、即ち「経験値」のことである、ということは言うまでもない。
しかも、極めて豊かなフィードバックをもたらすそれである。

「巨匠」と呼ばれるようになるまでに必要なのは、途方もない量をこなすだけのエネルギーだけである。
「才能」の本質的な意味が、そのエネルギーにあるのである。
こういった事例には枚挙にいとまがないが、ほぼ全員が、自分のやっていることに「夢中」になっている。
先のニュートンではないが、夢中になりすぎて、気が狂ってしまう人もある程だ。
 まるで分野は違うものの、彼らの名声と作品はほぼ不朽のものと思われる。
天才的才能を持った巨匠は、天賦の才(即ち、度はずれた集中力)を発揮して、
常人にはとても達成出来ないほどの、圧倒的仕事量をこなすのである。
「猛烈な夢中」
要するにこれが、ずば抜けて突出した「先天的な才能」というものの正体である。
 当然、「夢中」であることは、それが「好きだ」からである。

とはいえ、この「好き」という感覚程あてにならないものもない。
しかも、「好き」であることが無意識のなかにあるうちは、まだまだ不安定で、
捕らえ所のない感覚でしかない。
 殆どの人はそれを「どれくらい好きか」を説明出来ない。
それを比較することが実は難しい。本当にそれが好きか、と何度も自問するうちに、
段々自信が無くなってくる。
今ははっきりと断言出来ても、半年後にまだそうだという確たる証はどこにもない。
先の葛藤が永遠にくり返される理由も、そのあやふやさが原因である。

 ところが、天才の「好き」は青天井なのである。
その意識を疑うどころか、そう認識していることすら怪しい程に、
そのことだけで、身も心も”それ”一色に染めてしまうのである。
普通は、自らの「センス(感覚)」 疑うものだ。それなのに、彼らはそれを疑うことをしな
寧ろ、なぜそこに疑念の余地があるのかが解らないのだ。
好きなものなら幾らでも食べられるという人がいるが、その「いくらでも」が、完全な無尽蔵、
ということと同じである。
 そこで軽々しく「天才になりたい」とか「天才として生まれてくれば良かった」
などと嘆くのは愚かである。
何とすれば、天才とは、少なからず哀しい存在だからだ。
 自らの経験を通して、理想とするものが徐々にクリアになって行く過程。
かつてはそれほど感じなかった興味や好奇心が湧き上がり、
徐々に深い理解へと変わっていくという過程は、体験者に鋭い快感をもたらす。
それはそのまま、仕事への愛情として実感するようになる。
(下手をすれば「天職かもしれない」と思いこむ程になる)

 要するに、これが「才能」である。
「才能」とは、仕事に対する愛情と執着心のことなのである。

 仕事に対する愛情とは、深い理解を示すことであり、と同時に深い共感を感じることである。
だから、大抵の仕事に対して、最初から深い愛情をもつことは難しい。
好きで始めた仕事であろうとなかろうと関係なく、それは難しい。
だから、どのような人でも、「自分のやっていることがどれほど好きなのか」と、しばしば疑問に思うことがある。
あなたが「天才」でもない限り、この葛藤はいつまでも続く。

「天才」

この、得体の知れない人物像を示す言葉。
何故か何時も「芸術家」という言葉につきまとっているように思えてならないこの言葉。
あたかも、「天才」でなければ芸術家であることを許さない、と言わんばかりだ。

 「天才」であることの条件があるとすれば、
「自らの仕事の価値を迷わない」「自らの能力を疑わない」「途中で諦めない」
という資質があるのではないかと思う。(当然、例外はある)
 天才チョコレート職人の場合、1の段階で、多くの人々に自信作を見舞い、その圧倒的な存在感
が口コミで広まり、あっというまに有名になったりする。
とにかくチョコレートが好きで、それに携わっている間は徹底的に研究し、模索し、
何も面倒臭がらずにいられるのだ。それくらい、猛烈にチョコレートに夢中になってしまう。
5.「やってらんねえ」
 ここで辞めてしまったとしても、それはそれで構わない。
あなたの「チョコレート愛」はその程度だったのだ。あなたよりチョコレートを愛する丁稚は
山ほどいるし、しかもその中でも「売れる」職人になるのは、ほんの数パーセントに過ぎない。
所詮はハイリスク・ローリターンな世界である。
まあ、それなりに頑張ったし、良い勉強になりました。
 ところがあなたは、ここで何とかそれなりに楽しむ術を得て、下積み時代を生き残る。

6.「それなりに愉しくなってきた」
 かつての感覚は研ぎすまされ、プロフェッショナルとして認められた。
必要な状況で必要な能力を発揮出来るようになったあなたは、優れた職人として
親方から信頼され、なによりも仕事が愉しいと思えるようになった。
とはいえ、ゴディバやピエールマルコリーニのそれと比肩し得るほどのものかと言えば、
そうでもないのが現状。
 当然のように、あなたは現状に満足しようとする

7.「ここまで来たんだからそれでよしとしよう」
 そのとおり。それはそれで構わない。充分自己実現できたじゃないか。
辛い下積みを生き抜いてきてやったんだ。苦労の甲斐もあったというものだ。
やがて店を任され、好きな仕事で安定した収入を得るかもしれない。
 チョコレート以外のことにも興味が出てきたし(速い車、美味い酒、魅力的な異性…)
もう充分頑張った。
やっぱすげえやゴディバ。敵わないナァ。でも自分のもなかなか捨てたもんじゃないですよ。
 …と、何故か思えない自分に、あなたは気がついてしまう。

8.「独立して理想のチョコレートを追求しよう」
 あなたは更なるリスクを冒して、それでもなお、ゴディバやピエールマルコリーニに比肩し得る
チョコレートを作ろうと模索する。安定を勧める声が周囲から上がるが、あなたは徹底的に
追及する。幾種類もの試作を試し、いくつものコンクールに出品する…。
飽くなき探求はいつまでもいつまでも続く。
もはやあなたにとってゴディバやピエールマルコリーニはどうでもよくなっている。

 上に列挙したのは、「芸術家としてのセンス(感覚)は、才能によって磨かれる」という一連のプロセス例である。
当然、ここでの”チョコレート”というのは例であって、創造的なことであればなんでもいい。
 芸術家というのは、こういう風になってゆくのが”王道”なのではないか、と勝手に僕は思っている。
(かくいう僕自身は今時点で5.5くらいの所にいる気がするから、それ以上のことは「希望的観測」に過ぎない。)