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適当な事も言ってみた。

~まあそれはそれとした話として~

 芸術家は、ただ消費するだけでは満足しない。
自らの価値基準をいろいろな切り口で試そうとする。
そして原則的に、芸術家の価値基準とは、”自己満足”を立脚点としている。

 ここで、チョコレートの話に戻る。

自作のチョコレートが、ゴディバやピエールマルコリーニのそれより美味いと思えるのは、
誰よりも先ず、自分自身である。
 というわけで「自分で理想のチョコレートを作ろう」と思い立ったあなたは、
なんとか自信作と呼べるものを作ったとする。そこであなたはこう思う。

1.「これを誰かに食べてもらいたい」

 そう思わなかったとしても、それはそれで構わない。ここで終了。チョコレートと言えば、
自分の作るチョコレートが一番美味いのだ。
ほぼ完全なる自給自足。大変に結構。大いに幸せである。
 チョコレートに限らず、自分で作った何がしかのものを「これを誰かに」と思った時点で、
その人は芸術家としての資質がある、と言え得る。
言い換えれば、”それを持ってして、自分の価値を知らしめよう”としているのだから。
 果たしてあなたは友人に自信作のチョコレートを喰わせるのである。そこで多分、その友人は

「美味しいね」

と言ってくれるはずだ。本当に美味しいと感じてくれたのだと思いたいが、
もしかしたら友人は、敢えてこの場であなたとの間につまらぬ禍根を残す必要はない、
と思ったのかもしれない。あなたは疑心に駆られる。

2.「自分では美味いと思ったそれが、他人から観て本当にそうなのか」

 そうに違いない、と思ったとしても、それはそれで構わない。ここで終了。
その後あなたは、執拗にその友人に向けて「自信作」を見舞いまくる。
影でそのチョコレートが闇から闇へ葬られている可能性すら疑わずにだ。
 あなたに何がしかの愛情や共感を持っている親しい人々は、きっとそれを
「美味しい」と言うに決まっている。もしそうでなければ、
①あなたのことをそんなに好きではないか、
②あなた以上にチョコレートに煩いか、
③実際、あなたの「自信作」が喰えたものではなかった、
のいずれかである。
いずれにしてもあなたは「自信作」の価値が、根底から揺さぶられているのを感じるのである。

3.「自分の感覚が狂っているのかもしれない」

 正確に言うと、
「狂っているというほどではないにしろ、かなりいい加減で曖昧なもの」
である。とはいえ、それはそれで構わない。それで終わり。
そもそもそんなにムキになることじゃない。
たかがチョコレートじゃないか。ゴディバのそれで充分。
自分がもっと美味しいものを作れると思ったのは、何かの気の迷いに決まってる。
 しかし何故かムキになってしまったあなたは、チョコレート職人になるべく、
然るべき学び舎に入門する。

4.「本格的にチョコレート作りを学ぼう」

 丁稚としてあなたは、親方や先輩からチョコレート造りの手ほどきを受ける。
厳しい修業時代の始まりである。
チョコレート作りの奥の深さを知る前に、憶えねばならぬことの多さに、あなたは音を上げる。
なかなか楽しめない。毎日が憂鬱だったりする。
何故自分はこんなところでこんな苦しいことをせねばならないのか。
あなたはもう辞めてしまおうかと悩む。
このような問いに対して
「何をややこしいことを言ってるんだ、それで良いならその人の勝手だろう」
という人は多いと思う。

確かにそれは”人それぞれ”だ。

ただし、
そういう人を多く作り出すことに、国は教育機関や企業を使って躍起になってきたのではないか、
と僕は疑わしく思う。
個人の特性を均(なら)し、自分の頭で考えることを不得手にしたのではないか。

何の為か?当然、安価なものに価値を見出させ、消費(というか浪費)させる為だ。
どう考えても、そういう風にしか捉えられない。

 芸術家という生き方のリージョンでは、その「消費する側」という立場が、極めて小さい。
勿論、素材や画材などは消費して購入するほかはないが、
「すごくいいものを自分で作ってみたい」という、確たる根本理念があるため、
そこに消費的な快楽はない。

 ともあれ、誰かが作ったもの以上に、自分の作り出す物に期待したい、という願いが、
その人を芸術家にする。他人から差し出される選択肢から自身の価値基準を選んで、
それが「自分らしさ」だと思いこむことを拒否したい連中が、芸術家なのである。

 今さら態々そんなことをする必要があるのか、と思える程世の中は
「価値あるもの」或は「そう称するものに」に満ちあふれている。
しかし、だからこそ、態々やろうとするのが「芸術家」なのである。

 芸術家はただ消費することを好まない。
美味いものを喰えば、「こういうものを作りたい」と思わないではいられないし、
良いものを観れば「こういう見方もあるのか」と考えないではいられないし
面白い話を聞けば「自分のやっていることに似ている」と感じないではいられない。
すべからく、ということではないにせよ、少なからずそういう傾向を持つ。

要するに、何に付け、ただ「よかった」「つまんなかった」では終われないのである。
例えばあなたが、ゴディバのチョコレートを嬉しそうに頬張っているとする。
すると横から、こう講釈をたれる人間が出てくる。
「ピエールマルコリーニの方がずっと美味いのに、ゴディバ如きに有り難がっちゃって馬鹿みたい」
「いやロイスでしょ」
「ジャンポール・エヴァンのが美味しいよ」
「なんだかんだで明治が一番だよね」
…これが延々と続く世界が、「消費する人」の世界である。
一方、「創造する人」の世界では、このあとこう続く。
「まあどこのチョコレートもおいしいけど、
 ”自分にとって最高のチョコレート”とは、一体どんなものだろう…」
あなたは妄想を膨らませ、やがてそれを現実のものとするべく、実行に移す…。

「消費する人」と、「創造する人」という二極。
圧倒的に多数派は前者である。消費することで自らの価値基準を決める人のことである。
好きなもの、好きな食べ物、好きな恰好、好きな異性のタイプ、好きな本…
これらの価値基準は、ほとんどが知らぬ間に提供された(意図ある他人から示された)
選択肢から選んだものである。
それは当然である。人々の営みとは、そういうものだ。
そして人は「消費するもの」には強い関心と欲望を持つが、
「消費したこと」についてはほとんど関心がない。

電力は買うものであるということにすら、ほとんど自覚がないままだったし、
それがどのように作られていて、どのような利権が絡んでいるのかということにも、
関心がなかった。(それが今もない人は、おそらく永遠になかろう)

しかし、自分自身が好んで選ぶ「趣味」となると、事は別になってくる。

面白いマンガを読む、ゲームをやる、映画やテレビ、ウェブサイトを見る、
お洒落な服や雑貨を買う、美味い飯を食い、酒を飲む…
すべからくこれらの行為と商品に代価を支払い、その価値を享受する、という立場。
これらは確かに「趣味」とは言え、どちらかと言えばそれは
「消費による自身の無為への穴埋め」に近い。
幾ら積極的に、能動的に動いたとしても、消費するだけなら、それはいつまでも消費である。

これらの行為は、もしかしたら
「自分は何の価値もない、つまらぬ人間ではない」という意思表示であるかもしれない。
「文化的レベルの高い趣味を持ってるんだぞ」という自己顕示欲の顕われであるかもしれない。
あるいは、「好きで好きでどうしようもなく求めてしまうだけ」なのかもしれない。

別にそれがいけない、それはバカバカしい、と思っているわけでは全然ない。
寧ろそれは潤いとして必要なことだと思うし、
消費することに無自覚なことを糾弾しているわけではない。

ただし、芸術家であると自認する人間は、飽くまで「創造する側」であるべきではないかと思う。
8月30日
銀座 彩鳳堂画廊「細田昌弘展 inward」

出身大学二期後輩の細田君の個展。
単純化されたフォルムで描かれた、フラットな画面。
ポップで柔らかいイメージに見えるが、エッジが鋭く、ヒリヒリした作風。
質、量共に良い仕事。

川崎 アルテリオ映像館 「ファウスト」

アレクサンドル・ソクーロフは、現代ロシア映画の巨匠。
かのタルコフスキーからも支持を得ていた人物。
つまり「アート系映像美」の映画というやつである。

この手の映画であれば、「一見さんお断り」的な雰囲気が
つきまとうのは仕方がないものの、どこか寂しく感じる。

原作がゲーテの名著であるという時点で、最初から敷居が高い雰囲気があり
しかも今回はそれをインスパイア元とした上で、内容がかなり弄られている。
「難解」だと言われても仕方ない。

でも、決してそれは「難解」なわけではないと思う。
要するに「解りやすい」映画というのは大体「理屈っぽい」のだと思う。
そして「難解」なそれは大抵「感覚的」なのだ。

ただそれだけの違いなのだが、この違いが結構大きい。

「アート」といえば、「一般的感覚の埒の外」の世界なのだ。
この辺がいかんともし難い。
どちらが歩みよればいい、というものでもない気もする。

「これは抽象ですか、具象ですか」と絵画を目の前にして言うのも
ほぼ同様の感覚が言わせる言葉かもしれない。

アートかそうでないかということは、正直どうでもいい。
アートとか芸術という言葉には価値は無い。
価値があるとしたら、それは作品と歴史にしか宿らない。
ようするに、遺ったものだけにしかないのである。

そして、アートなんぞに教訓を見出そうとするから
「解るか、解らないか」で判断してしまうのだ。
もうそこにあるのは「好ましいか、嫌いか」という事だけでしかないのだ。
「所詮は遊び」とまでは言いたくはないが
「啓蒙」とか「教訓」なんかは、はっきり言ってノーサンキューだ。

作品を観るのが好きでたまらない
作品について考えるのが愉しくてやめられない
作品を作るのが面白くてたまらない

それでいい。

身も蓋もないほどに、シンプルな世界なのだ。本当は。
8月29日
東京都美術館「マウリッツハイス展」

9月17日の敬老の日、油画科研修で行こうと思っているのが
この「マウリッツハイス」である。

フェルメールは、昨年bunkamuraで「手紙を読む女」他三枚同時に来日し
それはそれでかなり見応えのある展示ではあったし、素晴らしい作品だった。

ただし、若干ハイプ気味なもてはやされ方をしているのも事実。
我々はフェルメールの作品を「フェルメールだから凄い」として観過ぎている感がある。
謎の生涯、カメラオブスクラ、ラピスラズリ、寡作…
これらの「神話」によって、バイアスが掛かりやすいということは気をつけたい。

今回初めて観た「真珠」は、良い意味でも悪い意味でも「予想どおり」であった。
淡い色彩、少しフォーカスのボケた描写による映像的で幻影的な画面。
謎めいた少女の表情は確かに魅惑的だし、構図も凄い。
銘品であることは疑いない。

でも

僕には少し「大味」にすら思えた。このサイズにして、である。
フェルメールの作品はどれも小さいことで有名だが、
それは彼の仕事が、大作では手に余るからなのではないか?
という疑念を、図らずも裏付けている気がした。

一方、同郷の先輩筋にあたるレンブラントの作品は、予想を大きく上回った。
ほぼ晩年に描かれた自画像と、20代に描いたとされる自画像である。

後者のそれは、油彩を初めて描く学生に摸写させる作品である。
「初めて描いた油絵が、レンブラントの自画像だなんてカッコいいでしょ?」
と、毎年言うそれである。
その作品が、摸写であったという事実には、何とも苦笑いを禁じえなかったが
工房作であろうとなかろうと、良い作品であることは変わらない。

晩年に描かれた自画像は、まさに心胆寒からしめる迫力であった。
やはり存在感が違う。王たる風格に満ちた逸品であった。

レンブラントの作品は、強力な磁場のようなものを発生させている、と思うのは、
なによりも僕が彼の作品の大ファンである、ということに起因している。
これもまた一つのバイアスであるには違いない。

荒々しいタッチとは裏腹の、寂とした印象。離れ業である。
図らずも長谷川等伯の「松林図」を想起してしまった。

オランダ・バロックの巨匠として、
フェルメールとレンブラントは比較されることが多い。

僕が今回実感として感じたのは
フェルメールの「反射するバロック」と
レンブラントの「発光するバロック」という位相だった。

バロック絵画といえば、イタリアルネサンス後に登場した
カラッチ、カラバッジォを先魁として、そのまま
フランドル(ベルギー)、オランダ、スペインに伝播した
劇場的な陰影法(キアロスクーロ)を駆使した表現である。

フランドルでは泣く子も黙るルーベンス、とその弟子筋にあたるヴァン・ダイクがおり
スペインではリベーラ、スルバラン、ベラスケス、ムリーリョが代表格である。

因にフランス、ドイツではバロック期に分類される作家があまりいない。
同時期のフランスではラトゥール、プッサンが居るが、前者は古典主義とみなされ後者はロココとみなされる。
ドイツではほぼ皆無であり、そのかわりバロック音楽の泰斗バッハが登場する。

一見似たような作風ではあるが、お国柄によって微妙な違いがあり、
「冷たい(静の)バロック」「熱い(動の)バロック」という風に分類して観る。
例えばルーベンスは、螺旋状にうねる構成で描かれた「熱いバロック」
であるのに対し、スルバランのそれは瞑想的でフラットな印象、
つまり「冷たいバロック」であると言える。

その点で言うと、オランダの双璧とも言えるフェルメールとレンブラントのそれは
「冷たい」方に分類されるだろう。
ただし幻灯機のような幽玄性を持った、映像的なフェルメールに対して
強烈な物質感を持った、肉体的、実在的なレンブラントという観点からすれば
これらの見え方はまるで違って見える。

フェルメールにしても、レンブラントにしても、
光源が極端に限定されたバロック特有の表現で描かれているが
フェルメールのそれはそれが画面全体に穏やかに拡散し、レンブラントのそれは、
ものの実存を暴くかのような、鋭利なコントラストによって表現されているのだ。

いずれにしても、同時代の平均的作家の造形性とは、桁はずれで特異なものである。
8月19日午前
原美術館「安藤正子展”おへその庭”」

前から見たかった安藤正子。同い年の作家。
一見キャンディーポップな画面だが、あにはからんや、さにあらず。
幾層も薄く重ねられた、丁寧極まりない仕事に脱帽。

日本画(円山派)の様な”間”の取り方、東洋的極彩色で彩られた色面。
飽くまで「フラット」な表現。
油彩ならではの、美しい透明感とマチエール。
人物の表情はボッティチェリの優美さを想起させる。

とにかく丁寧に、時間をかけた作品。しかし職人的技巧に依る所なく
作品の声に耳を傾けて、ひたすら誠実にイメージを追いかけている印象。

「絵描きかくあるべし」と思った。

同日午後
都現代美術館「特撮博物館」

とにかくボリュームが半端ない。
壁面に描かれた明朝体キャプションが手書きだったりして
かなり偏執狂的な拘りが随所に溢れかえっている。

メイン展示の映像作品「巨神兵東京に現る」は、絶句の出来。
全くCGを使わない、特撮オンリーのショートフィルムだが
これもまた、「何もそこまで」と思わせる製作陣の拘りが凄絶。
泣き叫ぶ子供たちの姿も。

とにかくCGとは違う「実物」の凄みなのだ。
CGは「リアリティはあっても、飽くまで虚像」であるが
特撮は「多少ウソっぽくても、飽くまで実物」なのだ。
そういう「モノ感」に反応する感覚というものが存在するとしか思えない。

この二つの展示は全く意図なく選んだものだったが
改めて、「人がものをつくる」ことへの探究心
(というか、「業」と言った方がより合っている気がする)
に感激した。

「マニアック」という言葉が、最近は
「大多数の人間にとってはあまり興味ない、ニッチでディープな世界」
のように使われている気がするが、それはちょっと違う気がする。

「マニアック」という言葉を
「熱狂的な拘りでもって、徹底的に理想のイメージを追いかける」
という意味と解釈するなら、モノを作る人は、すべからくそうだと思う。
それが美術であろうとあるまいと、関係ない。
ないったらない。

まあそれはそれとして
手仕事の世界。改めてすばらしいと思いました。


Let me live / Queen

Why don't you take another little piece of my heart
Why don't you take it and break it
And tear it all apart
All I do is give
And all you do is take
Baby why don't you give me
A brand new start

So let me live (So let me live)
Let me live (Leave me alone)
Let me live, oh baby
And make a brand new start

Why don't you take another little piece of my soul
Why don't you shape it and shake it
'Til you're really in control
All you do is take
And all I do is give
All that I'm askin'
Is a chance to live

(So let me live) - So let me live
(Leave me alone) - Let me live, let me live
Why don't you let me make a brand new start

Yeah, and it's a long hard struggle, yeah yeah
But you can always depend on me
And if you're ever in trouble - hey
You know where I will be

Why don't you take another little piece of my life
Why don't you twist it and turn it

And cut it like a knife
All you do is live
All I do is die
Why can't we just be friends
Stop livin' a lie

So let me live (So let me live)
Let me live (Leave me alone)
Please let me live
(Why don't you live a little)
Oh yeah baby
(Why don't you give a little love...?)
Go for it baby

Oh yeah baby, let me live
And make a brand new start
Let me live (Let me live)

In your heart, oh baby
(Take another piece, take another piece)
(Take another piece, take another piece)
Ooh please let me live
(Take another piece, take another piece)
(Take another piece, take another piece)
Why don't you take another piece
Take another little piece of my heart
Oh yeah baby
Make a brand new start

Let me live
いきなりだが、もう、自分の言葉を、
ウェブに書いたりするのを辞めようと思う。
ミクシイも、ツイッターも、このアメブロも
今日でおしまい。

あまり意味がないし、大した価値も感じないのだ。

これからは、「リアル日記」を付けていこうかと考えている。

2004年にミクシイをはじめて、八年近く経つけど
人が読むこと前提の打ち明け話や、さしでがましい「独り言」が
なんの役にも立たないということに、ようやく気がついたのだ。

アカウントは消さないけどね。

じゃ、いつか現実世界で会いましょう。

さようなら。
今年の美大受験生は、過去最多の11人。
僕からみても、よく成長してくれたなあと思える大事な人たちだ。
僕は彼らに何をされようが、
それを裏切りだと思わないでいられる気がする。

多分、僕は彼らの全員を愛しているのだろう。

もうすぐ、あと一ヶ月で
そんな彼らともお別れだ。

毎年のことだが、彼らの受験番号の確認をするのは
本当に辛い。
戦場に行って、戦友の安否を確認しに行くかのような
そんな気分になる。

「****番の◯◯はいませんか!?」

女子美、東北芸工、造形、ムサビ、多摩美、そして、芸大。
だんだんと砦は高く険しくなり、
それにつれて「生存確立」も下がってゆく。

もうやだなあ、この商売。と思う。

彼らの本当の闘いをみれないし、
ただ待ってるだけで何も出来ずにいるのは寂しい。

みんな本当に凄く良い奴だけど
仲良くなったとたんに、お別れしなきゃならないし。

自分を消耗品として扱わなきゃならない。
いずれはいつか近い将来、
僕は彼らの多くにとって「想い出」になるのだ。

たぶん、そうでなければならない。

給料は安いけど、とてもやり甲斐のある仕事。
自由度も高くて、責任もそれなりに重い。

でもまあ正直それはもうどうだって良い。

みんな、
どうか勝利を勝ち取って
笑顔で此処を出て行ってくれよ。
振り向いちゃ駄目だ。
講師≦先生≦師匠
みたいなものがあるとしたら、僕はまだ講師だ。
講師とはある意消耗品である。

ある程度の情報供給を終えたら、速やかに忘れられる存在である。

僕はそういう存在になるのを極力拒み続けて来た。
でも、限界はある。

自分の教室に居る生徒たちとは、原則的に一年の契約だ。
それ以上一緒に居たいと思ってはいけない。
受験が終われば、彼らは直ちに出て行かねばならない。
長く留まってはいけないのだ。

”土産にもらった 賽子二つ 手の中で降れば
また振り出しに 戻る旅に 陽が沈んでゆく”

吉田拓郎の歌じゃあないが、
毎年振り出しに戻るような旅にも、
もうそろそろ飽きて来た。

誰かに金をもらって、ぶら下がって生きていくのも
もううんざりだ。

そろそろ、旅支度をしよう。
さよならの準備だ。友よ。