§3.天才の才能、凡才の感覚② | 適当な事も言ってみた。

適当な事も言ってみた。

~まあそれはそれとした話として~

「猛烈な夢中」
要するにこれが、ずば抜けて突出した「先天的な才能」というものの正体である。
 当然、「夢中」であることは、それが「好きだ」からである。

とはいえ、この「好き」という感覚程あてにならないものもない。
しかも、「好き」であることが無意識のなかにあるうちは、まだまだ不安定で、
捕らえ所のない感覚でしかない。
 殆どの人はそれを「どれくらい好きか」を説明出来ない。
それを比較することが実は難しい。本当にそれが好きか、と何度も自問するうちに、
段々自信が無くなってくる。
今ははっきりと断言出来ても、半年後にまだそうだという確たる証はどこにもない。
先の葛藤が永遠にくり返される理由も、そのあやふやさが原因である。

 ところが、天才の「好き」は青天井なのである。
その意識を疑うどころか、そう認識していることすら怪しい程に、
そのことだけで、身も心も”それ”一色に染めてしまうのである。
普通は、自らの「センス(感覚)」 疑うものだ。それなのに、彼らはそれを疑うことをしな
寧ろ、なぜそこに疑念の余地があるのかが解らないのだ。
好きなものなら幾らでも食べられるという人がいるが、その「いくらでも」が、完全な無尽蔵、
ということと同じである。
 そこで軽々しく「天才になりたい」とか「天才として生まれてくれば良かった」
などと嘆くのは愚かである。
何とすれば、天才とは、少なからず哀しい存在だからだ。