§4.哀しい天才と、夢中な巨匠① | 適当な事も言ってみた。

適当な事も言ってみた。

~まあそれはそれとした話として~

 イギリスが生んだ天才数学者アイザック・ニュートンは、ケンブリッジで教鞭をとっている間も、
卵の代わりに懐中時計を茹でたり、パジャマ姿のまま出講したりと、
当時からその奇行で有名であった。
しかし、その裏側にある超人的な能力を知れば、その奇行を嗤う者の顔色も変わるはずだ。

 「近代科学を100年早めた」と言われる大論文『プリンキピア』を執筆中の五年間、
ニュートンは秘書に一度しか笑顔を見せたことがなかったという。
食事も(食べて下さいと)催促しなければ摂らなかったそうで、講義の時間以外は研究室
に閉じこもりっきりだったという。その極限まで絞りつくされた精神集中は、
限りなく狂気の沙汰に近かったはずである。

 この手の話はニュートンに限ったことではないが、所謂「天才」と呼ばれる人々は、
やはりこれに近い「度はずれた集中力」を持っているらしい。

「度はずれた集中力」が発揮する驚くべき例として、二人の天才的巨匠も、ここに紹介しておきたい。

 手塚治虫は生涯に15万枚の原稿を描き、ピカソは生涯に(同じく)15万点の作品を作ったそうだ。
前者は少年ジャンプ1本の連載だった場合、それをこなすのに165年かかる。
平均月産でざっと150ページ(つまり一日5ページ)描いていた計算になる。
後者は10歳の頃から制作をして、92歳で死ぬまでの間の82年間の間に15万点だから、
一日も休まずに毎日(やはりこちらも)5点は制作したことになる。
 これが所謂「巨匠」の成せる業である。「質より量」という言葉を軽く粉砕する、圧倒的な「量」がある。
ここでいう「量」とは、即ち「経験値」のことである、ということは言うまでもない。
しかも、極めて豊かなフィードバックをもたらすそれである。

「巨匠」と呼ばれるようになるまでに必要なのは、途方もない量をこなすだけのエネルギーだけである。
「才能」の本質的な意味が、そのエネルギーにあるのである。
こういった事例には枚挙にいとまがないが、ほぼ全員が、自分のやっていることに「夢中」になっている。
先のニュートンではないが、夢中になりすぎて、気が狂ってしまう人もある程だ。
 まるで分野は違うものの、彼らの名声と作品はほぼ不朽のものと思われる。
天才的才能を持った巨匠は、天賦の才(即ち、度はずれた集中力)を発揮して、
常人にはとても達成出来ないほどの、圧倒的仕事量をこなすのである。