§4.哀しい天才と、夢中な巨匠② | 適当な事も言ってみた。

適当な事も言ってみた。

~まあそれはそれとした話として~

 天才科学者の代名詞、アインシュタインは、かつてこう語っている。

「”It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.”
(私は凄く頭がいいってわけじゃない、ただ、より長く一つの問題とつき合ったというだけなのだ)」

此処で「へーそうなんだ」などと思ってはいけない。
 ここで語られている「より長く一つの問題とつき合う」ということが、ニュートンのそれと
同様のものであることは、最早疑い様がない。
しかもそれが「別にどうということないよ」といった風情で語られていることに注意したい。
 これは飽くまでも、アインシュタインという人間の感覚的尺度で語られている、ということを忘れてはならない。
要するに、凡人たる我々とは「感覚」が違うのである。我々は彼らとそれを共有することが出来ないのだ。

 そういう意味では、確かに「天才」とは、”人知を超えた能力を発揮する才”という意味の言葉かもしれない。
しかし、数々の神話に彩られた彼らもまた、血の通った「人間」であるということもまた、確かなのである。

 故に天才は哀しい。彼らは常に孤独だからである。

同じ血の通った人間同士、理解し合えるはずのことが理解し合えないという孤独は、
おそらく天才にしか解らない感覚であろう。
彼らは強い孤独感と共に、仕事に没頭する。常人には理解出来ない苦痛と引き換えに、
常人ではなし得ない偉業を成し遂げるのだ。
天才の偉業を識るということは、そのまま天才の哀しみを識る、ということなのである。
 青雲の志のなかで、非凡なる才能に憧れるのは真っ当なことだ。
しかし、非才なる身の上知った上で、それを喜ぶこともまた、宜なるかなというべきであろう。

天才がその本領を発揮したとき、「これは敵わない」と思うのが普通である。
まるで感覚が違うのだ。量も、質も、圧倒的なレベルである。降参するほかない。
 自らの才能が傑出したものであることを願うものの、誰もが天才である訳はなく、
多くの者が自らが天賦の才に恵まれていないと自覚する。そんなときは、だれもが絶望せねばならないのだろうか。
映画『アマデウス』の悲劇が脳裏に蘇るばかりである。
”非才なる凡人”な我々は、サリエリにしかなりえないのか、天才でなければ巨匠は生まれ得ぬのか、と疑わしく思えてくる。