§5.”凡人巨匠”へのソリューション② | 適当な事も言ってみた。

適当な事も言ってみた。

~まあそれはそれとした話として~

ここで、もう一つ、天才との邂逅におけるエピソードを紹介したい。
 「ケンブリッジにハーディあり」とまで言われた、ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは、
数々の偉業を残した、イギリス数学を牽引する存在であった。
 そんな超大秀才であるハーディは、数学者としての生涯最大の功績は
「ラマヌジャン発見である」と述べている。
 シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、インド出身の大天才数学者である。
普通の数学者なら、一年に一つか二つの定理を発見するのに精一杯だというのに、
このラマヌジャンは、一日に半ダースもの定理を発見したという。
 当時はインドがまだイギリスの植民地であった時代で、ラマヌジャンは寒村の出身、
しかも基礎教育もろくに受けていないという身の上である。
そんな彼は欧州中の数学者たちに次々と論文を送ったが、当然のように見向きもされなかった。
 たった一人、当時最高の大秀才であったハーディを除いて。

一発でその類い稀なる天才を見抜いたハーディは、早速ラマヌジャンをケンブリッジに招聘する。
後にこの二人は、数学史上で最も名高いコンビとなる。
(最終的にラマヌジャンは悲劇的な人生を閉じることになるのだが…)
 
サリエリとハーディは境遇的に似ているとはいえないだろうか。
才能に恵まれ、努力も人並み以上にしたはずである。だが、ふと現われた「天才」に対して、
彼らが選んだ選択は対照的だ。
前者はその才能を妬み、亡きものにすることを選び、後者はその才能に貢献することを選んだのである。

 絶壁の前で煩悶しているあなたは、その悩みの中で、あることに気付く。

実は私たちは、天才を知る前から、ずっと他人と比較してばかりいたのではないだろうか。
それこそ、ありとあらゆることについてだ。
資産、容姿、学力、出生、性別、年齢…。

自分という人間を見つめるのが怖くて、他人との差に、その基準を置いてはいなかっただろうか。
世界が自分に都合良く「変化」することをただ漫然と願うばかりで、
自らが変わることを避けてはいなかっただろうか。

 「天才」には敵わない、という理由で、芸術家になるのを諦めるなら、それは自分以外に
自らの価値基準を置く、ということにほかならない。
それでは芸術家として失格であろう。少なくとも、確実に「創造的」でない。