「大山寺」㊤

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【大山寺の開基】

「大山寺」は、奈良の「東大寺」を開いた
“良弁僧正”が天平勝宝七年(七五五)に
開山したのに始まります。

行基菩薩の高弟である光増和尚は
開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を
建立。
その後、徳一菩薩の招きにより、
大山寺第三世として“弘法大師”が当山に
入り、数々の霊所が開かれました。

大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に
地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、
現在は大山七不思議と称される霊地信仰を
確立しました。

また日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の
“石尊権現”を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を
保護してきました。

元慶八年には天台宗の慈覚大師の
高弟・安然が大山寺第五世として入山。
伽藍を再興し、華厳・真言・天台の八宗兼学
の道場としました。

これより大山は相模国の国御岳たる
丹沢山系の中心道場として各地に知られ、
別当八大坊をはじめとする
僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山と
して栄えました。

しかし明治初年の廃仏毀釈により、
現阿夫利神社下社のある場所から現在の
場所に移りました。
関東一円を初め日本中の強い信仰に支えられ、幸いにもご本尊を初めとする,数々の
寺宝は破壊を免れました。

明治期に数多くの信者たちの寄進によって
現在の位置に本堂をはじめ数々の伽藍が
再興され現在に至っています。
大山寺はまさに多くの信者に支えられた
一大霊地といえます。



本足跡





山道を登っていき~。。。足跡ダッシュダッシュ






おお~‼見えたぁ~。。汗↑キラキラ










そして‼…

この石段‼。。↑笑汗汗










そびえる石段‼と、
両脇に‼…たくさんの像‼


これが、なかなかの迫力で‼…↑


どう撮れば?この凄さ‼を伝えられるかなぁ~。。。とうっとりねこやん


考えた挙げ句。。もう…




↑↑
こうなった‼。。ラヴねこやん笑↑


















































大山寺







『大山寺の概要』

真言宗大覚寺派寺院の大山寺は、
雨降山と号します。

大山寺は、奈良東大寺の別当良弁僧正が
天平勝宝7年(755)創建、聖武天皇より
勅願寺の宣旨を賜ったといいます。
華厳・真言・天台宗の修験道場として
僧坊十八ヶ院、末寺三、御師三百坊を擁し、また大衆からも大山不動参りとして
数多の崇敬を集めたといいますが、
明治維新の神仏分離により、現在
大山阿夫利神社下社のある地より、当地に
移転して再建したといいます。

関東三大不動の一つに数えられるほか、
関東三十六不動霊場初番霊場、
関東八十八ヶ所霊場60番、真言宗大覚寺派
の準大本山となっています。





大山寺の概要

【山号】雨降山

【寺号】大山寺
【本尊】鉄造不動明王像
【住所】伊勢原市大山724
【宗派】真言宗大覚寺派

【備考】真言宗大覚寺派の準大本山



本足跡













































『大山寺所蔵の文化財』

鉄造不動明王及二童子像
(国指定重要文化財)

木造不動明王座像
(県指定重要文化財)

鉄造不動明王及二童子像


大山寺の本尊で、不動明王像を中心に、
向かってに矜羯羅童子像、
左に制吒迦童子像を両脇侍像とする三尊像
である。

不動明王像は、髪を総髪にして左肩に弁髪
を垂らし、右手に宝剣、左手に羂索を持って座り、顔は両眼を見開き、上の歯で下唇
を噛んで、忿怒の相をしている。
像高、九七・七センチメートル。


両脇侍の童子は、
矜羯羅童子像が左手に蓮の華、右手に独鈷
を持ち、
制吒迦童子像が左手で肩布を握り、右手に
宝棒を持って立っている。
像高、
矜羯羅童子像九六・〇センチメートル、
制吒迦童子像九五・四センチメートル。

三尊像とも、強く張った頬や量感溢れて
力強い体躯を持つ、鎌倉時代中期の作である。
鉄で鋳られている「鉄仏」は、主として
東国で鎌倉時代以降に造立されるようになるが、この三尊像は、日本の「鉄仏」の中でも最も大きく、最もすぐれた作例である。
現在、本堂奥の奉安殿に安置されている。(伊勢原市教育委員会掲示より)



木造不動明王座像】

本堂向かって左の護摩壇の本尊として安置
されている。五大明王像の中尊像である。
寄木造り、彫眼、本来は彩色されていたと思われる。
髪や持物、顔の表情などの姿は、大山寺の
本尊、鉄造不動明王像と同様である。
丸みのある頬は忿怒の相にしては穏やかであり、柔らかな衣の襞の表現とともに、この像が平安時代後期の作であることを示している。
県内では数少ない平安時代の不動明王像である。像高、四九・六センチメートル。
(伊勢原市教育委員会掲示より)
  














大山不動明王























大山不動像の大きさ

【像   高】  
97.9cm

【総   高】  
287cm(8尺7寸)

【重   量】  
重量130貫( 約480Kg )

実際に拝んだ感覚は、その眼光と、威圧感
によりはるかに巨大に見えます。





文永11年(1264 年)に
願行上人が鋳造。
本堂に鎮座するそのお姿の迫力ある威圧感
と重量感には眼を見張るものがあり、
願行上人の強烈な念力に圧倒されます。

鎌倉時代より多くの武将、庶民が
その御利益を賜ろうと参拝したのもうなずけます。
不動明王は心をこめて参拝する人々に、
わけ隔てなく現世の悩み,苦難を助けてくださる仏様なので、本堂にて一心に願い事
を祈ってください。
毎月8・18・28日がご開帳日となっています。


大山不動明王及び二童子像は
鎌倉時代に鎌倉大楽寺の願行上人によって造られた。
その霊力の強さと 御利益の大きさに
時の将軍家はもとより、関東一円の武士や
庶民に広く信仰された。

江戸時代には春日野局が家光が将軍になることを大山不動に祈願してその願いがかなったことから、 徳川家光によって強く信仰
されることとなり大山寺にも数々の寄進や、造営がおこなわれた。

明治初期の廃仏による災難にも
奇跡的に破壊を免れたのは、其の御利益を受けた多くの人々がまさに 死に物狂いで
像をお守りしたからだといわれている。

また里さとに伝わる伝承によると、
権田直助にひきいられた暴徒たちが
このお不動様を破壊しようと 本堂におしかけたところ、お不動様の形相がまさに血も凍るような恐ろしい形相に一変していたため、 余りの恐ろしさにだれひとり手を触れることができなかったため、破壊をまぬがれたとのことである。

また周辺の主だった寺院が数十年以上にわたって活動できなかったのに比べ、
大山寺のみ異例に早く 再建が許されたのは、このお不動様に救われた多くの信者たちの要望が強かったのみならず、
大山寺の破壊に加担した者たちがそのときの恐怖心の強さから、一刻も早くお不動様
の怒りを静めてほしいため
まったく妨害活動をしなかったからだともいわれています。

現在大山寺が存続し、多くの信者がお参りしたり、護摩祈祷をお願いできるのは
まさにこのお不動様のおかげといえるでしょう。





本足跡