感じ方は人それぞれだから、
そういうことを伝え合えることが
大事
そういうときは
「やめてね。」「それは嫌」
そういえばいい。
嫌なものは嫌だし
言えないものは言えない。
それでも、
〇〇でいたい。
よくわからなかったんだよ。
荒砂先生だけではないよ。
多くはたぶんそうだよ。
自分の子どもがだんだん
その年代に追いついてくる
というのもあるし
子どもの有無にかかわらず
自分が親御さんたちの年代に
追いついてくるというのもある。
「僕の話はいいから、
今日はあの頃の話と、
今のみんなの話が聞きたい」
「実は、長子は亡くなっているんだ。」
俺等の中でなんとなく
その話の続きはナシだよなって思って。
「楽しそうにしているときも
少しだけ、注意をはらって
様子をみる」
子育て追憶プログを
綴りはじめて3年がたったら
子ども理解の間違いに
気づくことがたびたびある。
「ほんとはりくは一番大きなダンパが欲しかったんだよね?」
「べつに、大きいのが欲しかったのにって思ったわけではないと思うよ。」
大きいのよりも
こっちのほうがいいって
そのときに納得したんだよ。
きっと、4歳の俺は。
だから、小さいダンパ
「べつに、大きいのが欲しかったのにって思ったわけではないと思うよ。」
大きいのよりも
こっちのほうがいいって
そのときに納得したんだよ。
きっと、4歳の俺は。
だから、小さいダンパ
買ったんじゃん。
ほんとは大きいのが欲しかったのに
ほんとは大きいのが欲しかったのに
っていう記憶じゃないんだよ。
小さいダンパは、大きいダンパの
代わりなんかではない。
小さいダンパは、大きいダンパの
代わりなんかではない。
ちゃんと、4歳りくの納得のもと
選ばれたダンパだったのだ。
人の成長も
過ぎゆく時間も
とめられないまま
時はまた、流れゆく
男性だけになった席で
「実は、
長子は亡くなっているんだ。」
先生がそう言ったのは
偶然か否か
俺等の中でなんとなく
まこたちが戻ってきたら
その話の続きはナシだよなって。
同級男性たちが
そう思ったのはなぜなのか。
間違いだらけの
間違いの方が
生きてきた甲斐があった
ような
気がするのは
間違いだらけの正解の方じゃ
きっと
出会えなかったからだと思う
一つずつ
探し当てていこう
起きがけの子供みたいに
「僕の話はいいから、
今日はあの頃の話と、
今のみんなの話が聞きたい」
その夜は、先生の退職祝賀会
日中、最後の出勤の日に
学校に届いた私達からの大きな花束
「花屋さんが来たときに、
ちょっと席を外していてね。
若い先生が探しに来てくれたんだ。
今年は
僕の他にも定年退職の教員がいたから
そこで感動的に泣いたりするのも
なんだかなぁと思って、ぐっと我慢してね。
さりげなく受け取ったよ〜」
私達の記憶の中で、〇〇先生は
ずっと先生であったし、さらに
再会したときには
親としての師にもなった。
そのことを先生も自覚していて
自分の歴史の一部として、肯定的に取り込んでくれていたのではないかと思う。
あの夜、私達が先生の
父親としての歴史の途中にあった
思いも寄らない出来事を
知ってしまっていたら
私達は、きっと
自分たちの子どもの話を
先生に聞いてもらうことが
できなかったと思う。
小学校教員としての
自身の歴史と、
夫となり父親となった
自身の歴史と、
児童から妻となり母親になり
児童から夫となり父親になった
私達の歴史
「先が見えない世の中」とは言われるが、パソコンもデータ分析も発達していない時代に、過去や経験に学ぶことで、時代を切り開いてきた人がいる。
過去の経験に学ばず同じことを繰り返せば、結果はおのずと見えています。
歴史を追うことで、社会が変化するときに、それがなぜ起きたのかという要因が見えてくるはずです。
「愚者は経験から学び、
賢者は歴史に学ぶ」
という言葉があります。
歴史を学ぶことは、経験から学ぶということと根本的に違っています。
経験はある特定の出来事
によるものですが、
歴史というのは
もっと大きな流れの中から
出てきたものです。
そこには、われわれが未来を考察するための、たくさんの素材が埋まっています。
これからの社会の変化を予測する時に、実は過去の事例から学べることは数多くあります。
迷った時は、「過去に学んでいるかどうか」で大きな違いが出てくるはずです。
今の日本の議論を聞いていて気になることがあります。それは、
今の日本の議論を聞いていて気になることがあります。それは、
「先が読めない時代になった」
という表現です。
しかし、
今までに
先が読めた時代などあったのでしょうか。
高橋是清や後藤新平はじめ、今日の日本を築いてきた政策家たちが生きてきた時代は、まさに「毎日が経済危機」でした。
高橋是清や後藤新平はじめ、今日の日本を築いてきた政策家たちが生きてきた時代は、まさに「毎日が経済危機」でした。
今のように実態を把握するための統計も十分に整備されていません。
またさまざまな経済理論もありませんし、ましてや計量的に何らかの予測やシミュレーションができるなど、ありえませんでした。
そうした中で彼らは
自分自身の頭で考え、国を動かしていきました。
知識ではなく、地頭で勝負する時代だったのです。
今を懸命に生きてその結果を積み重ねていけば、つまり自信を持てるような過去の経験があれば、将来に不安があってもそれを乗り切れます。
先が見えない……というのは、
自分自身が十分努力して結果を残してこなかったことの言い訳に聞こえます。
明らかに
明らかに
問題が
あるにもかかわらず
それを避けながら
一方で
「先が見えない」という言い訳をしてきたのではないでしょうか。
チャーチルの名言が思い浮かびます。
人間は
真実を見なければならない。
真実が
人間を見ているからだ。
「知識」とは、学校や塾で学ぶ歴史の事実や数学の公式、言語の文法など、具体的な情報やデータのことを指します。
これは、過去の出来事や証明された事実を学ぶことで習得されるものです。
それに対して、「知恵」とは、
学んだ知識を実際の生活や仕事の場面でどのように活用するかの能力のこと。
「学んだ知識を活かす力」、それが知恵です。
知識は「過去」の事象や事実を学ぶもので、知恵はその知識を基に「未来」を正しく予想し、適切に行動する力と言えます。
知識が豊富であっても、それを活用する「知恵」がなければ、新しい状況に適応するのは難しいでしょう。
そして、知恵を獲得するためには、知識を単に蓄積するだけでは不十分です。
過去の体験や経験、社会性、生い立ちなどが知恵の形成に影響を与えます。
知恵は「持つ」ものではなく、状況に応じて「使う」もの。
この力は「情報編集力」とも呼ばれ、多様な問題解決に役立ちます。