レオン・ヴェルトへ

読者である
子どものみなさん

私はこの本を
ある一人の大人に捧げる。
そのことを、子どものみなさんに許してほしい。

これには切実な理由がある。
まず、その大人は僕にとってなにより大切な親友である。

それからもう一つ、その大人はなんでもわかって、子どものための本でさえ理解できる。

3つめの理由は、
この人は今フランスに住んでいて、おなかをすかせて、寒い思いをしている。
彼には励ましが必要なんだ。


もしこれだけの理由があっても
納得してもらえないならば
僕はこの本を

子どもだった頃の彼に捧げたいと思う。

大人は誰でも、最初は子どもだった (そのことを覚えている大人はほとんどいないけれど)。

だからこの献辞をこう書き換えたい。

小さな少年だったころの
レオン・ヴェルトへ




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あんたたちと同じに見えるかもしれない一輪のバラ🌹の花が、ぼくにはあんたたちよりもたいせつなんだ。


ぼくが水をやったのは

そのバラなんだ。


ガラスの覆いを

被せて守ってあげたのも

そのバラなんだ。


衝立(ついたて)を立てて

風を防いであげたのも

そのバラなんだ。


不平を言ったり

自慢話をしたり

ときにはむっつり

黙りこんだりしたけれど


そんな、なにもかもに

ぼくが耳を傾けたのも

そのバラなんだ。


つまり、それは

ぼくのバラだからなんだよ。




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あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思っているのはね、そのバラの花のために時間を費やしたからだよ。


人間ってのはね、その大切なことを忘れているんだ。


だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。


めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。


まもらなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね……


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何百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花が好きだったら、その人はそのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。


そして、「僕の好きな花がどこかにある」と思っているんだ。






 

ライバルがバラを10本贈ったら君は15本贈るかい? 


そう思った時点で

君の負けだ。


ライバルが何をしようと関係ない。相手が何を望んでいるのか、それを見極めることが重要だ。




 


令和5年1月の記事に

私はこう書いている。


 

冷静な他人からみれば

失敗続きだった日常を


「充実していた」と懐かしく呑気に

想うことができるのは、 


空の巣に住む能天気な

アラフィフだからこそである。


けれども

少しの寂しさと、取り返せない時間を悔やみながら懐う


かわいいりくくんにまつわる

悲しいエピソードがあった。


イベント会場の

土産売り場


次男りくが、あるものを指差し

「ほしい」と口にした。


それは、ダンパという黒と白の色配置が逆になったパンダ風のぬいぐるみだった。


その土産物やさんでは、大小さまざまなダンパが、4歳のりくを見つめていて


りくは、そのなかの一番大きなダンパを指して「ほしい。」と言った。



当時の私が購入を拒んだ

一番の理由は


「どうやって、連れて帰るのだろう?」

その答えを、見つけられなかったからである。


情がうつると、別れがつらくなると思い「抱いてごらん」とも言わなかったが、


そのダンパは、当時のりくの身長の半分ほどは、あるように見受けられた。


結局、一番小さな掌サイズのダンパをひとつ買った。



秋の連休になり


姪たちがそれぞれの子どもを連れてやって来た。

そのときに、掌サイズのダンパはいつのまにか姿をくらませていた。


海の向こうに行ってしまった持ち主のりくに、ライン中継をしながら捜索を開始して数十分後



小さなダンパが、無事にテレビの下から救助されたとき



「見つかってよかった」とりくから返信があり、ホッと胸をなでおろした様子が伝わってきた。




17年前

りくのところにやって来た、テレビの下に隠れてしまうほどの小さなダンパ


あのとき、最初にりくが

指さしたのは。。。


 

「ほんとは、りくは一番大きな

ダンパが欲しかったんだよね?」と


古傷を掘り返すように

聞いてみたら


「あー😊そのときのこと、なんとなく覚えてるよ。大きいのは買わなかったけど、でも、小さいの買ったじゃん。」と言った。


大きなダンパを

いまだに手に入れていないことは


「悲しいこと」でも

「悔しいこと」でも「困ったこと」でも

なさそうだった。



必要としていた。

「ほしい」と思った。

幼い時分



大きなダンパを抱える

小さなりくの満面の笑顔は


あとから 取り戻せるものではないのだ。



ダンパとの対面の日をまた思い出した私は、年末に帰省したりくに



こう言った。


「ダンパが見つかってよかったね。

だけど、ほんとはりくは一番大きなダンパが欲しかったんだよね?」


1年前と同じ質問に、また

りくはこう答えた。


「そのときのことは、覚えてるよ。」


そして



「べつに、大きいのが欲しかったのにって思ったわけではないと思うよ。」


と付け加え

さらに


大きいのよりも

こっちのほうがいいって

そのときに、納得したんだよ。

きっと、4歳の俺は。


だから



小さいダンパ、買ったんじゃん。


ほんとは大きいのが欲しかったのにっていう記憶じゃないんだよ。





小さいダンパは、大きいダンパの

代わりなんかではない。


ちゃんと、4歳りくの納得のもと

選ばれたダンパだったのだ。



人の成長も

過ぎゆく時間も

とめられないまま


また年を越える。




いつまでも待つつもりで

いつのまにか待たせている。



やはり


母親による男子育てとは

そういうものであったのだ。




親が気にしていることなんて、

本当にこころから

子どもにとってはどうでもいいこと。


目についたものを指さした

というだけで


「大きいのが欲しい」なんて

4歳のりくも21歳のりくもたしかに


一言も言っていないのだ。



本当は

りくが欲しがっていたのではなく

私が欲しかったのかもしれない。


私自身が、

大きなダンパを抱くりくの

満面の笑顔を見たかった。

それだけなのかもしれない。



ということなのだと思うのだ。





空の巣になりネタ切れにもなりそうなところ、皆様との交流といつのまにか私よりも大人になっていた息子たちの帰省に支えられ、今年もまた年末までなんとか続いてまいりました。


心よりの感謝を申し上げます。

良いお年をお迎えください。

令和5年12月31日