私は家族と生きる。~毒親育ちが母になった~ -2ページ目

毒父を救急車に乗せた日。

子供たちにせがまれて渋々帰省したGW初日の夜、父が救急車で運ばれた。



近所の目を気にして救急車を断固拒否して怒る父に「病院の先生に電話して確認します」と嘘をつき、救急車を呼んだ。





私は子供の頃から父の介護はしない、看とりもしないと決めていて、



もしくは、恐ろしすぎて引かれると思うんだけど、父が死ぬその瞬間、父の生涯の全てを否定する呪いの言葉を囁いてやろうと、何度も何度も妄想した。



復讐の瞬間に思いを馳せる事だけが、私の生きる原動力だった。



自分で手を下す事はできないから、勝手にいなくなってきてくれないかなと思っていた。





だけど、いざ目の前で父の様子がおかしくなった時、私は嘘をつき、ひと芝居打ってまで迷わず救急車を呼んだ。




母は気づいていなかったけど、その日父は自分の手首で何度か脈をとっていた。

表情がなんとなくおかしかった。

孫に「じじギターを弾いて」と言われたのを受け流した。



その違和感をなかった事にできなくて、その後数時間、私は父の様子を観察していた。




救急隊が到着すると、ついさっきまでパニック状態で何故か病人の父に当たり散らしていた母は、まるでお客様でもお迎えするかのような態度でニコニコと何度も頭を下げ、



父はフラフラしながらパジャマを着替えてベルトを通し、この緊急事態にも外面を取り繕うのかとうんざりした。



もし次に父の様子がおかしくなった時、高齢夫婦ふたりだけでは救急車を呼ぶかどうかの判断を下すのは難しいかもしれない。






父がいなくなる時の自分の気持ちを、子供の頃からずっと想像してきた。


憎くて憎くて世界中の誰よりも軽蔑した人間が消える時。


嬉しい?


悲しい?


私は父への全てを封印したまま、弱っていく姿を無視し続けて、最期の時に呪いの言葉を囁くの?


呪いは自分に返ってくる事を知っていても、それでも私は悲願を果たそうとする?






あのおじいさんは私が憎んだあの人か?



どうしてだろう。



私とは二度と交わらない世界線で、変わらず生きていて欲しいと願うのは。












「助けて」

1ヶ月前くらいからメンタル不調。

何が始まりか自分でもわからないけど、仕事に支障をきたすようになってしまいさらに不調が悪化する悪循環。




春ドラマ、多部未華子主演の対岸の家事。



なんか極端な設定だなと思って片手間で見てたけど、ワーママ江口のりこが「助けて」と泣いた瞬間、突然一緒に泣けてきちゃって。



子供の頃からずっと「助けて」と心の中で繰り返す人生だったと思い出した。



今までにきっと何万回も、架空の誰かに向かって唱えた「助けて」は、当たり前だけど誰にも届かなかった。



誰かに助けを求める方法もわからなかったし。

今もわからないけど。





ひとりで子供みたいにわんわん泣いて、喉も目も鼻も疲れ切ったあと、「大丈夫、まだできる、動け私」って、乱暴に毎日を生きているうちに、私は自分の心と体に鈍感になって



最後の最後に自分が弾けとんで初めて、ああ、私ってもっと休まなきゃいけなかったんだなって気づく。

大泣きする時点で気づけよって話なんだけど。笑



表面張力が最後の一滴で崩壊する時みたいに、その一瞬前までは自分でも大丈夫な気がしてるのに、端からみたら取るに足らない些細な事がとどめの一撃になっちゃうんだよなぁ。



その昔、漫画のNANAで、主人公が化粧中、ファンデーションを床に落とした瞬間に泣き出すシーンがあって、あれは精神を病んだ事がある人にしか描けない描写だなって思ったのを今も思い出すな。

(未完のまま止まってる理由は作者の体調不良だったはず)



私にはあの状況がよくわかる。




母になって10年、初めてのひとりの夜なので。

こんばんはニコニコ
わけあって一人暮らし3日目です。

シーンとしちゃってもっと寂しいかなと思ってたけど、1日で慣れた。
わりと適応力高いっぽい。笑



3人衆は相変わらず仲が良すぎて面白いです。

皆で独自の遊びを生み出してたり、テレビリモコンの権利やゲームの順番、お茶当番やおやすみ隊長などなど、子供たちが自分等で作ったルールに基づいて自治区が運営されてますダッシュ



そしてありがたい事に、登校、宿題、就寝時間など親子のプチトラブルになりそうな事が、同じようなのが3人いると自分だけ違う行動を取ろうとは思わないようで、親がどうこう言わなくても勝手にやってますキョロキョロ

厳しくしつけたわけでもなく、誰かがやり始めると他ふたりも続くので、わりと簡単に習慣化できます。
帰宅後私が着替えてる間に宿題始めてて、親の方がビビる。笑

家ではやらないけど学校だと自然とちゃんとしちゃうあの現象が、家庭内で起こってるのだと思う。



小学校入学にあたり一番心配だったお友達関係も、コミュ障の母に育てられたのに今のところとても順調。

双子の年子で産まれた宿命として、全員同レベルで少しずつ我慢したり譲り合ったり意見を合わせたりが当たり前で生きてきたので、社会性の基礎が築かれていたのでは、とうさぎ


集団の中で合わせ過ぎて個が損なわれないように、逆に浮いて自己肯定感が崩壊しないように、と、毒親育ちの私はこのバランスにわりと気を遣ってきました。
何事も極端過ぎると思わぬ弊害が出るのが常なので、いい塩梅のラインを見つけていきたいですねニコニコ



これは何年も前の写真だけど今でもこんな感じ下矢印
当時ダブルが2組あったのに寝室を覗きに行くといつも全員固まって寝てた。
シングル1組でよかったのでは。笑









あとこんなん出てきた。


次男がいつの間にか筒を装着して「ロボットになったびっくりマーク」と喜んでいたけど全然動かないから「どうしたのはてなマーク」と聞いたら「動けないのおねがい爆笑爆笑

確かに両手両足についてたら幼児じゃ立てないし歩けないよねって爆笑したのをすごい覚えてる。笑



さて、今夜は何しよう。
読んでくださってありがとうございますニコニコ



ご挨拶

前回の記事に書いたのですが


自分の中で
なんとなく一区切りついたような気がしたので

このブログは
ここで一旦締めようと思いますニコニコ



読んでくださった皆様のおかげで
毒親育ちの呪いが解けそうです卒業証書
 
40年も呪いをかけていたのは
父じゃなくて自分なんですけどね。
そんなのとっくにわかってたけど。

別に父とも母とも無理矢理向き合わなくても
自分の中だけで解決できるバージョンも
あるみたい笑



皆様のブログにお邪魔したり
コメントやメッセージで
やり取りできた事
とっても楽しかったですニコニコ

ブログなんか書いたら
怖いコメントとか来るのかなと
思ったりしてたけど

そういうのはひとつもなくて
優しい言葉や共感をくださって
嬉しかったですおねがい



必要な時に必要な人と出会えたのだと
思っています。

本当にありがとうございましたびっくりマーク






名前はいらない

毒親育ち

アダルトチルドレン

機能不全家族


などなど。


そんな肩書きは必要ないし

自分を好きとか嫌いとか

考えるだけ無駄だなって思いました。


わざわざそんなのを名乗ってたら

一生自分に洗脳されるなって。


わかってたけど。




ブログを書く事で

もう一度始めから私を生き直して


40過ぎた人間が

小さな子供みたいに

親にあんな事されたこんな事言われたと


散々ディスって気が済みました。




私に必要だったのは

本を読んで知識を入れる事でも

見知らぬカウンセラーに

取り繕った話を聞いてもらう事でもなくて


澱んで濁って真っ黒になった

40年分の毒素を吐き出しまくって


自分フィルターをまっさらにする事でした。




そうしてきれいになった目で自分を見たら

私はここまで頑張って生きてきたなって

自然とそう思う事ができました。




父にも母にも届かなくても

自分で自分の40年を讃える為に

必要な時間でした。




毒親育ちを手放せなくても

確実に自分の中にそれが存在していても


例えて言うなら

部屋の隅っこにいつからか置いてあるけど

もはや捨てる事すら忘れてるようなガラクタ。


たまに目について捨てようと思うけど

次のゴミの日までに

また忘れてしまうくらいの

ガラクタ扱いでいい。





私は、家族が欲しかったの。


あたたかな温度と、眩しい光。


欲しかったものはもう全部手に入れた。


幼い頃、泣きながら願った未来の中に

私は今生きているよ。




私、40年間お疲れ。

さよなら、過去の両親。

ひとりきりで暴れていた小さな自分は

大人になった私が連れていく。