【七生説(しちしょうせつ)】楠木正成公と吉田松陰先生
「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候ヘ」(太平記より)楠木正季公 最後の言葉ー正成公の弟
1336年,北朝の足利軍との播磨国湊川の戦いに敗れ、自害。死んでも南朝の為に忠誠を尽くすというこの「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」の言葉は、後世の人に深い感銘と影響を与えています。松陰先生は「七生滅賊」を謳い、明治以降、特に戦時中には「七生報国」の四字が盛んに使われました。
...湊川(現兵庫県神戸市)には「嗚呼忠臣楠子之墓」と記された楠木正成公の墓があり、松陰先生も湊川を訪れ、楠木公の墓前に涙し、さらに舜水先生の碑文を見てまた涙しました。
正季公が誓った「七生」は、まさに後世の人に脈々と継がれ、幕末の志士達の指針となりました。
松陰先生の「七生説」を現代語訳で紹介させて頂きます。
(現代語訳)
天の広大さには理というものがあり自然の中に存在している。子孫が続く中には気というものがあり代々連なっている。人は生まれたらこの理が備わって心となる。この気を授かって体となる。
体は私である。
心は公である。
私(体)を犠牲にして公(心)の為に死ぬ者を君子とする。
公(心)を犠牲にして私(体)の為に死ぬ者を小人とする。
だから、小人は死ねば腐敗して何も残らない。
君子は体は滅んでも心は理となって生き続ける。
私の聞く所によれば、かの楠木正成公が自決するに際し、弟の正季公をみて「死んでどうするか。」と問う。
正季公は「七たびまでも蘇り、朝敵を打ち滅ぼさなければならないとだけ思っています。」と答える。
正成公は自分と同意なのを喜んで刺し違えて自決された。ああこれは、気(体)は滅びても理(心)は生き続けるという理論に至ったのだろう。
正成公の子である正行、一族の和田正朝たちは血族なので気(体)も理(心)も同じ者たちである。
新田義貞の一族や、肥後國の菊池一族は血筋は違うので気(体)は続いていないが、南朝の忠臣という理(心)は同じ者たちである。
したがって、楠木公は七生と言わず、彼らの理(心)を通じて生き続けている。
そして、その後も忠義心ある者はみな楠公の生き様を見て奮い立たない者はいない。
だから、楠公亡き後も志を継ぐ者は数限りなく現れ、楠公が蘇るのは七回だけにとどまらない。
私はかつて東国へ行き、三度に渡り湊川に楠公の墓前を拝したが、涙が止まらなかった。
また、そこにある朱舜水が楠公へ奉じた碑文を見て再び涙した。
ああ私は楠公と血の繋がりはない。
親しい間柄であったわけでもない。
なぜ涙せずにらいられないのか自分でも分からない。
朱舜水に至っては、我が国の人ではないのに楠公の死に涙している。
そのような朱舜水に対して、私も涙してしまう。
さらに分からぬことだ。
後になって、朱子学の理氣説なるものを聞き、その訳を知ることを得た。
楠公も朱舜水も私もみな理を備えて心を持っている。
だから、氣(体)の繋がりはなくても理(心)は通じている。
これが涙の止まらぬ所以である。
私には彼らと同じ心があり、忠孝の志を立てて国威を張り、外敵を滅ぼすのを慎むことなく自分の使命としよう。
過去二度の罪を得て不忠不孝の身となった。
しかし、楠公らと心が通じている。
その心がどうして体のように腐敗していまうことがあろうか。必ずや後世の人に私の心を継がせてみせよう。それが七たびに及んだならば、それは叶ったと言える。
ああ七生の理気は、確かにいま私の中にある。
七生説を作る。
ー松本二郎氏の著書「解釈 吉田松陰の文と詩」から抜粋
私も涙してしまいました‼️
かむながら ありがとうございます!