小泉進次郎の未来
メディアがやたらと推しまくる小泉ジュニアこと小泉進次郎。
彼は一体どういった人物なのか、そこについてはあまり触れられていない気がします。
そこで私は、彼の映像、講演、発言などを出来る限り見てみることにしました。
そこでわかってきたのが、二点。
一つは政策ではなく、政局ばかりを語っている事。
しかし、その中身は、父親譲りのジョークとわかりやすさで、確かに人々を魅了しているのは事実です。
ただ、その反面、政策よりも政局重視が露骨で、例えば前回の総裁選では、総裁候補の政策を理解しているというよりも、新しい自民党を有権者に伝える目的で石破氏に投票したといった行動が目立ちます。
そしてもう一つが、父親と同じ、新自由主義者であることです。
実はこれが一番の問題点。現在、アベノミクスの根幹はケインズ主義で、新自由主義とは真逆な政策です。
いうならば、進次郎氏はアベノミクスの抵抗勢力なわけです。
それが顕著に現れているのが、規制改革、構造改革、そしてTPPを彼が推進していることにあります。
もちろん、全ての規制に改革、緩和が不必要だとは言いません。しかし、国家主体で考えたとき、市場原理を優先するこれらの改革はむしろ逆行政策とも言えます。
自民党をぶっ壊す!そう声高々に言った父親の次は、自分が自民党を潰す気でいるのでしょうか。
進次郎氏には、そういった危険をはらんでいるのも事実なわけです。
ですから、今後、彼が成長していくにあたり、国家主義とは何なのか、歴史認識なども含め、今一度勉強してほしいものです。
そして彼がそれらを理解し、新自由主義の愚かさに気がついたとき、真のリーダーへと変貌するかもしれません。
トリクルダウンは本当に起きるの?
維新の橋下氏やみんなの党の主張する競争社会(新自由主義、新古典派経済)信者達は、
一様に、「競争に勝って、所得を稼いだ者は、敗者である低所得者に再分配をすればいい」
といった話をして、新自由主義を正当化しますが、果たして本当にそのような状況においての、再分配など可能なのでしょうか。
再分配には主に、強制的再分配(税の徴収)と、自然的再分配(トリクルダウン)があります。
新自由主義による競争社会において、勝ち組は当然一部の人間に限られます。アメリカでもデモが起きたように、1%に富が集中し、99%は搾取される側に回るわけです。
このような歪な格差において、強制的再分配を行うには高所得者への増税が必至です。(累進課税強化や資産課税強化など)
しかし、当然、努力し、競争に勝ってきた高所得者がそう簡単に強制的再分配を認めるとは思えません。
高税収のフランスから低税収のロシアに高所得者が流失したように、資産や人が海外に流出することは当然考えられることです(キャピタルフライト)
このように、高所得者がキャピタルフライトした後に残るのは、99%の低中所得者のみです。
そうなった場合、強制的再分配は事実上、機能しません。
また、強制的ではなく、自然的再分配(トリクルダウン)の場合はどうでしょうか。
確かに、高所得者は、消費額が大きいのも事実です。その消費により乗数効果で、低所得者にお金が回るというのも理論上は可能です。
しかし、それはあくまで机上の論理であって、実際は、一部分の人に集中し、また貯蓄に回され、
低所得者に回るまでには、相当額、減額されるはずです(ゼロにはならないでしょうが)
もちろん、累進課税強化や、トリクルダウンを完全否定するわけではありません。
当然ながら、現状においても少なからずそういった政策に効果があるのは事実であり、その恩恵をみなさんも少なからず受けているわけです。
ですが、競争が激化し、再分配する側とされる側の比率が過剰に開けば、それらの効果は薄れます(高所得者が減り、再分配される側が増えるので)
その結果、高所得者のトリクルダウンで賄えない負担が、増税という形で中所得者へのしかかり、結果、中所得者も可処分所得で低所得者水準に落ち込み、国民総低所得国家になりかねません。
実際に、どこの国が高所得者が低所得者にスムーズに分配出来ているでしょうか?
ユーロを見てもギリシャを見捨て、アメリカも低所得者を見捨て、地方交付金のあるこの国でさえも、夕張のような市を生み出しました。
この事実こそが、橋下維新やみんなの党が掲げる、地方分権、規制緩和や競争といったいわゆる新自由主義の現実ではないかと思います。
理想論と言われればそれまでですが、私は、国民総中産階級こそが、社会保障、再分配が最もうまくいく所得構成ではないかと思うのです。
それには、政府の役割がとても大事です。
規制緩和ではなく、むしろ規制強化。
無駄削減ではなく、財政出動。
これら政府の政策により、バランスを取っていくことが必要不可欠です。
そして、現在、安倍政権は、国土強靭化計画により、大規模な財政出動を行おうとしています。
これには現状では文句の付けどころがありません。
しかしながら、三本の矢の一つ、成長戦略において、一丁目一番地は規制緩和であると安倍総理はおっしゃりました。
ここには正直、疑問があります。
もちろん、規制緩和をしなければならない分野もあり、それによって成長が望めるものがあるのも事実です。
しかし、「規制緩和=成長」というイメージが一人歩きし、それによる過度な規制緩和は、この国には不利益になります。
その見極めがしっかりできるのか、今後の政権運営を注視していきたいと思います。
幸福論の滑稽
結婚するときに、なぜかみな、「わたし、幸せになります!」
という。
占い師に見てもらうときに、なぜかみな、「わたし、幸せになれますか?」
ときく。
なぜだろうか?
それまで幸せでは無かったというのか?
もしくは、もっと幸せになる(なれるかな?)と言っているのか?
どちらにせよ、おかしな話に聞こえてならない。
そもそも幸せの定義とは何か?
そんなものは、存在しないというのがワタクシの考えでありまして。。。。
では、そう言う場合、どう表現したら良いのだろうか。
私なら迷わず、結婚するときには、「楽しみます!」と答えるだろう。
幸せと楽しむ。一見、似たような表現だが、実はまるで違う。
そもそも幸福というのは、個々の感じ方と、何かしらの事象における間接的現象でしかない。
それを無理矢理、結婚だとか、金とか、子供とか、そういったものを利用(間接的に)して、
自分は幸せだと、思い込ませているに過ぎないのだ。
それ故に、結婚がうまく行かないと、子供が言う事を聞かないと、お金が無いと、
自分は極端に不幸せだと嘆くのだ。
これほどまでに滑稽なものはないと私は思う。
それに対し、楽しむというのは、非常に単純明快ではないだろうか。
ある人が昔、こんなことを言っていた。
「人間にとって一番大事で、必要なことは、人を愛せる能力と楽しむ能力の二つだけだ」
と。
なるほど、突っ込みどころの無いほど単純明快な答えである。
ここで言う、「楽しむ」というのは、その主体が直接的かつ、能動的でなければならないというのも大事な点だ。
どれだけ金があろうとも、地位があろうとも、結婚しようとも、その主体が、それらの状況に甘え、受動していては、楽しむことはできない(または持続できない)
それ故に、主体自身が直接的に、「楽しむ」ということを感じる能力と、それに向かおうとする能動的「意志」が無ければならない。
この主体に直接的に在るものと、意志によって、楽しむという事が可能になりうるのである。
そして、そこに積み上げられたものを「幸せ」と呼ぶのならば、確かに「幸福論」は成り立つのかもしれないと私は思う(生きる苦悩は除外してだが)
まあ、どちらにせよ、「幸せになります!」「幸せになれますか?」がどれだけ滑稽かは、言うまでもないが。。。。