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国家と言語の構造について


最近、こんなことばっか考えてるわww








「国家と言語の構造について」


 しばしば、私たちは、「構造改革、規制改革、革命、維新」などという言葉を耳にします。その言葉を聞くたびに、私は妙な違和感を覚えてなりませんでした。
 その違和感を辿っていく過程において、私は「言葉」の変化と、国家における構造が、極めて似た性質を持っているのではないか、という仮説を立てました。
 はて、言葉と国家の構造が似た性質とは一体どういうことなのか? と思われる方が多いと思いますので、説明していきたいと思います。 
 では、国家とは一体どのようにしてその構造が造り上げられるか、そこから考察を初めてみることにしましょう。
 まず、国家が構築される方法として考えられるのは、大きく分けて二つ。
 誰かしら外部の第三者の意志によって構築される場合。このケースは主に戦争などによる侵略行為によって、そこに暮らしていた人間の意志や、それまで構築した構造を無視して強制的に構築されうる国家構造です。
 もう一つは、長年の中で必然的に変化を繰り返して(変化せざるを得なかった)出来た国家構造です。
 残念ながら、ほとんどの国が前者ですが、我が国は奇跡的に特殊な後者(一時期、GHQに統治されていたこともありましたが)の部類に入ると思われます。
 ではまず、後者の国家構造から説明していきます。
 第三者の意志が介在していない後者の国家構造において、その時代時代に合った変化というものは、ある種、必然性を持っています。それは内部の人間の心理状況に左右され、内部の人間の利得が関係し、また、それら内部の人間を生み出す社会的環境があり、それは、第三者が介在しないことで、必然的な時間的流れを持つわけです。
 それに対し、前者はどうでしょうか、第三者の意志が強制的に入り込むわけですから、必然性は当然ありませんし、そこに時間的流れなどはありません。ですから、内部の人間にとっては、受け入れがたい構造になるわけです。
 これらを言語に当てはめてみるとどうなるでしょうか。後者は、元々ある言語が時代によって、徐々に必然性を持って変化していくのに対し、前者は、突如として、その言語が別の言語へと強制的に変化していくようなものです。
 もしそのように、強制的に母国語が変わってしまったらどうでしょうか? そこに住む人間にとっては、一からコミニュケーションを取る手段を構築しなければならなくなります。先人達が積み上げて来た必然性を無視してまでです。そうなれば、元々の言語の完成度に到達するまでに、それが造り上げたられた年月と同程度(場合によってはもう少し早いでしょうが)の時間が必要になりますし、状況によっては出来ない可能性すらもあります。
 これが現実として国家レベルで起きたのが、先のイラク戦争です。アメリカのブッシュ大統領(イラクの人からすれば第三者)によって、強制的に国家構造を変えられ、10年経った今でも、その弊害によってイラクの人々は苦しんでいます。
 それも当然のことと言えば当然で、言語に当てはめれば、突然、「明日から母国語は禁止。我々の話す言葉で会話しなさい」と強制されれば、誰でも、どんな国の人々でも混乱してしまいます。
 逆に言えば、言語や国家構造は本来、内部の人間によって、長い年月をかけ、徐々にそのときどきに合った形へと自然に、必然的に変化すべきものであるということです。
 しかし、それでも構造改革やら規制改革やらという、いわゆる外部ではなく、内部の中でも、構造全体を無理矢理変えようとする勢力が現れるのも、また必然です。
 それは内部の、それも一部の人間の権力思考によっても変える事のできるという、国家構造の脆弱さによるもので、その部分においては、言語とはいささか性質が異なるのも事実でしょう。
 しかしながら、そういった勢力が実権を握ることは決して多くはありません。言語同様に、極端な変化を国民は望まないからです。
 それでも条件によっては、そこまでしても変えてしまいたい! という願望を国民に植え付けさせることも可能です。
 それは長年に渡る情報と教育によって、ミクロレベルでの不公平をあたかも、マクロレベルでの不公平とねつ造し、国民を煽り、不満を拡大させる方法と、極端な差別や、貧困などによって、その根本的原因と不満が、時の構造(権力、政権)など向けられることとそのミックスによって起きます。
 後者の方は、貧困の度合いにもよるでしょうが、やはり過去との相対的比較と、急激な貧困拡大などによって起こりえますが、戦争などが起きなければ、マクロレベルでは急激な貧困拡大は稀で、むしろ一般的には徐々に貧困化していきます。ですから、人間は少しづつそこに慣れていく事で、爆発的な不満にはなりづらいのです(ギリシャのように政府が財政悪化を隠していた場合などは別ですが)
 問題なのは前者の情報教育操作です。まさにこの国のメディアや教育が長年に渡って、この情報操作をして来たわけですが、インターネットなどにより、様々な違った情報を得る事が可能になり、情報操作が以前ほど効果を出せなくはなっています。
 それでもまだ、情報弱者と言われる方達の数は多く、それら情報弱者をターゲットに、露骨な情報操作が行われているのも事実です。
 残念ながらそういった情報操作に惑わされる思考の根本は、主体性のない受動と、プリミティブ論が理解できないことにあります。
 そこで私はあえてそれを身近な言語に置き換えることにしたのです。そうすることで、政治や経済的な難しい話が理解出来なくとも、また情報操作がなされていようとも、本質的な部分を理解する事で、それらに左右されることのない判断が出来るからです。
 よく考えてみて下さい。言語は造語や略語などが日々生まれたり、変化しても、普段使う言葉のほとんどが、変わる事無く存在します。そこに大きな改革やら維新やらというものは皆無です。むしろ、それらは生きていく上での弊害でしかありません。
 ただ、そういった中でも、変わらなければ使えない言葉もあります。女子高生同士の会話の一部などは、まさにそれを理解しなければ会話が成り立たないからです。
 ですが、それは決して彼女達が誰かしらの手によって強要されたわけではなく、むしろ必然性を持ち、自然的に変化したものなのです。
 実はこれこそが本来の改革の姿であり、決して改革は、一部の人間の権力思考や、情報操作によって齎されるべきものではないのです。




死について


 
「死について」

 死については、今までも先人達が数多く論じ、また結論づけてきました。ここでは、それらを私なりに解釈し、それぞれの先人達の論じたものに味を加えることで、さらに「死」という概念が明確になればと思います。
 まず、死というものを私なりに、三つの視点で考察していこうと思います。
 一つ目は、生が苦悩、苦痛、不安で満ちあふれているという前提に立ち、それらから逃れる最期の手段であるということ。
 二つ目は、事実として死を捉え、その事実が、「存在しない」ということ。
 三つ目は、形而上的な話として、魂の回帰。
 これら三つが重複したものは、限りなく、概念上の死に迫ると私は考えています。
 まず、一つ目の生の苦痛、苦悩から逃れる手段というのは、方法はさておき、その根本は自殺です。
 とはいえ、自殺がみなさんの想像しているものだけとは限らないのす。寿命で死ぬ事、事故で死ぬ事、戦争で死ぬ事、自ら命を絶つ事、それらは、条件が異なるだけで、生の苦痛、苦悩から逃れるという根本的意味に相違はありません。生の苦悩という絶対に逃れられない現実から、死は唯一開放する手段であり、どんな死に方でも、それを手にした事実は変わらないからです。
 これは以前、私が書いた、「地球は大きな刑務所である」という論文にて詳しく書きましたが、要約すると、生まれて来た地点で、人に最善という選択肢は消えた、ということです。それはこれから生の中で起こりうる苦悩、苦痛と対峙し、さらには、死の恐怖に怯えなければならないという使命を、生まれた瞬間に、人は背負わなければならず、それは言い換えると、まるで罪人が罪を償うかのように、人は生を全うしなければならないからです。
 このことから、私は、「地球は大きな刑務所」と表現したのですが、まさにこのことは、先人が、人間にとって、最善、最良とはなにか? の問いに対し、「それは生まれてこないことである」と表現したものと表現の差異はあっても同じことです。
 ですから、死はむしろ、生まれてこない次に、人間にとっては最善、最良であり、生の苦痛、苦悩から逃れる唯一の私たちが選べる権利であり、手段なわけです。
 次に、二つ目の「事実としての死」についてです。
 客観的事実に基づき、人間と死を考えたとき、死は単純に、「存在しない」というだけに過ぎず、それ以下でもそれ以上でもありません。もちろん、物理的には骨が残ったり、ミイラのように、皮なども残ることも在るでしょう。しかし、それは人間という殻が残ったに過ぎず、事実は「存在しない」なのです。
 それを想像するのに、最も適したものは、貴方が生まれる以前を想像すると良いでしょう。そうすれば、それに限りなく近い事実が、貴方の死後に待っていることがわかります。
 しかし、当然ながら残された人々にとっては、貴方という存在が、感情として記憶として残ります。しかし、それらを確かめる手段も無い貴方にとって、それは意味の無い想像(妄想)に過ぎません。事実は「存在しない」なのですから。
 三つ目の魂の回帰は、一見、形而上的な、いわゆるおとぎ話のようですが、物質的にも宇宙が膨潤している(ダークマター、ダークエナジーが何かしらの物質であることが近年わかったのは有名な話)という研究結果が事実であるとするならば、その話はまんざら、ただの形而上的話だと言って、切り捨てることもできません。
 生命が誕生し、そして死んでゆく、これら一環の流れの中で、魂がどこからやってきて、どこへ消えていくのか(向かっていくのか)ということを考えたとき、そして、生命体の殻と生命体の意志が別物であるこということを考えていけば、魂というもの自体の存在を誰も否定できないはずであり、宇宙に謎の物質が存在する(無ではなかった)ことがわかった今、生命体の魂が、宇宙からやって来た、と考えることはなんら不思議なことではないのです。
 そして、生まれては消えてゆくを繰り返し、また新たな魂を宇宙が生み出し、それもまた消えてゆく(宇宙に戻っていく)を繰り返すことで、宇宙は膨潤し続け、そして生命は、誰々という殻を得て、また誰々という生物の殻を得て、それらが破壊されるまでの刹那、生という苦悩を実感し続け、またそれを感じない生命体達は、生命の意志によって生き、生命の意志によって死んでゆくのです。
 そう考えれば、宇宙からやってきた魂が、死後に宇宙に回帰するという形而上的仮説は、とりあえず成り立つわけです。
 このように、死を考察するにあたり、形而下的事実と、形而上的話と、さらには、生の苦痛、苦悩から逃れる手段が絡み合い、また、それらは我々の大きな権利として、また、変えようのない事実として、さらには、それらを超越した何かしらとして、私たちに死を与えるのです。

睡眠について



久々に、真面目なネタを書いてみようと思う。


興味の無い方はここで終了で(笑)





                 「睡眠について」



 睡眠というのは、人間の生命維持において欠かせない生理現象であり、脳や身体の休息を強制するものである。
 しかしながら、それらをただの生理現象と解釈するのか、はたまたそれ以上の形而上的解釈をするのか、その辺りは全く違ってくるようである。
 ここでは前者ではなく、後者の形而上的話をしたいと思う。
 まず、睡眠を考察するに辺り、私は二つの意味が隠されていると考えた。
 一つ目は、「死の予行練習」である。そしてもう一つは「強制的な我欲の抑制による自然調和」である。
 この二つこそが、実は人間の睡眠に隠された真実の目的ではないのか、私はそう考えたのである。
 ではまず、一つ目の「死の予行練習」についてである。
 睡眠と死の関係性については、ある先人が、「睡眠は死の友人である」という言葉を残している。これは言い換えると、睡眠が限りなく死に近い疑似体験とも解釈できる。
 特に熟睡している場合において、脳はほぼ休止状態となり、自覚できる意識はない。それ故に、周りでどんな事象が起きようとも、自らの神経を刺激するもの以外であれば、意識の対象外となり、無関心となる。
 これこそが、生まれてくる以前の意志(意志がないという意志)の表れであり、生まれてくる以前は言い換えれば、死後とも言えるわけである。
 その考えに基づけば、睡眠は、生の間、死に最も近づいている瞬間であるということがわかる。(もちろん、気絶や事故などによる意識不明状態に陥るのもこれに似たものである) 
 そしてこれらをほぼ毎日、強制的に行うことにより、人間はいずれ誰しもに必ず訪れる本物の死に対し、免疫を付けていると考えられる。
 その根拠の一つに、若者は夜遅くまで起き、老人は夜早くに寝るという現象がある。これは何を意味しているかと言えば、生に対する執着と死に対する恐怖心の年齢における変化である。
 予行練習が未熟でまだ免疫の少ない若者は、睡眠を死の恐怖と感じ(無意識であるが)、その恐怖から逃れるために、なかなか寝ようとしないのに対し、老人は在る程度の免疫が備わっており、死の恐怖を無意識に克服できるのである。しかし、その一方で若者は朝遅くまで寝て、老人は朝早くに起きる。これは生に対する執着の違いでもある。
 若者は死の恐怖を無意識に感じる一方、生に対する執着が薄く、老人はその逆であるということだ。
 では、なぜ死に対して恐怖心の薄い老人が朝早く起きるのか? 言い換えれば、なぜ死に対する免疫がある老人が生に執着するのか? という疑問も生じる。
 これは残された生の時間と比例するというのが私の考えである。若者であれば死までの時間的猶予が在る一定度あるが、老人は死までの時間的猶予は少ない。もう先が無いという無意識と意識が、老人に太陽の陽を長く見続けたいという熱望を与えているのだ。
 それに対し、若者は死への恐怖心が強い一方、生に対する執着が少ない(実感もない)ゆえに、太陽が顔を覗かせる朝はさほど重要ではないのである。
 わかりやすく例えるのならば、若者なら朝起きるという行為は当たり前の事だが、老人の場合、予行練習である睡眠が、そのまま永眠になってしまう危険性を常に孕んでいるということである。これを意識下、もしくは無意識下で感じる老人は、必ず、自らの意志で目覚めなければならないのである。
 これらを考えれば、睡眠がどれほど死の予行練習として役立っているか、その反面、生に対する執着を促すものになっているかがわかると思う。
 また、補足だが、それではなぜ赤ん坊は、若者同様に、夜遅くまで起きていないのか、という疑問も生じる。それについての深い考察は、以後しようと思うが、簡単に要点だけを説明すると、赤ん坊は、生まれてくる以前の状態から、誕生後の生の苦悩、苦痛、死の恐怖へ、徐々に慣れさせていくという過程を踏んでいると考えられる。それ故に、初期では死の友人である睡眠が長く取られ(言い換えると生まれてくる以前の状態)、そのうち徐々に(慣れてくると同時に)、それが減少していくのである。
 次にもう一つ、睡眠にとって重要な意味を持つ「強制的な我欲の抑制による自然調和」についてである。
 人間は目覚めている間、否応無しに欲を欲する。たとえ自分には欲が無いという人間でも、食欲や睡眠欲は、切っては切り離せないのである。
 まして、そうではない人間にとって、生きることは、我欲そのものであると言っても過言ではない。しかし、その我欲こそが生命体としての人間の愚かさの象徴であり、人間にのみ備わった天が与えた産物とも解釈できる。
 しかしその一方で、我欲は他の生命体との調和を阻害し、自然界から人間を切り離そうとする一番の要因であり、人間のみを孤立させるものである。それ故に、仏教の世界でも、「無我の境地」があり、その代表が禅などである。
 この禅は、先に書いた「死の予行練習」と強制か自らの意志かの違いはあっても、極めて本質、性質が似ているともいえる。
 「死の予行練習」である睡眠も、ある意味、「我欲の抑制による自然調和」を無意識に、強制的にしているからである。
 ただ、その強制を自らの意志で行うかどうか、そこには大きな違いがあるのも事実である。これは無意識から意識、受動から能動をへと昇華させている分、高貴なことである。
 それでも人間は、僅かな光として、こうした睡眠という「強制的な我欲の抑制による自然調和」を行い、他との生命体との完全孤立を避けているのである。
 では、なぜそのように人間はわざわざ自然界と繋がりを持とうとするのだろうか?
 これはある意味愚問でもある。誰もが周知のように、人は一人では生きて行けないのと同じように、人は、他との生物との共存なくしては生きられないからである。
 しかし、人間の我欲はこれらを軽視し、あたかも生物界の頂点に君臨しているかのように錯覚するもので、これは極めて不幸であり、またそう思う人間こそ、実は裸の王様なのである。
 そのように、我欲を自らの意志で抑制できない人間に対し、種の意志、いや、生命の意志は人間にも他の動物同様(我欲の無い他の生命体にとっては単なる生理現象でしかないのだろうが)、睡眠を与えたのである。そう解釈すれば、「強制的」である意味にも頷けるのではないだろうか。
 そして誰もが、この「強制的な我欲の抑制による自然調和」を手にし、かろうじて人間は他の生命体と調和、共存が可能になっているのである。
 これこそが私の考える、本当の意味での睡眠の役割であり、本質であると思う。