睡眠について | ひより

睡眠について



久々に、真面目なネタを書いてみようと思う。


興味の無い方はここで終了で(笑)





                 「睡眠について」



 睡眠というのは、人間の生命維持において欠かせない生理現象であり、脳や身体の休息を強制するものである。
 しかしながら、それらをただの生理現象と解釈するのか、はたまたそれ以上の形而上的解釈をするのか、その辺りは全く違ってくるようである。
 ここでは前者ではなく、後者の形而上的話をしたいと思う。
 まず、睡眠を考察するに辺り、私は二つの意味が隠されていると考えた。
 一つ目は、「死の予行練習」である。そしてもう一つは「強制的な我欲の抑制による自然調和」である。
 この二つこそが、実は人間の睡眠に隠された真実の目的ではないのか、私はそう考えたのである。
 ではまず、一つ目の「死の予行練習」についてである。
 睡眠と死の関係性については、ある先人が、「睡眠は死の友人である」という言葉を残している。これは言い換えると、睡眠が限りなく死に近い疑似体験とも解釈できる。
 特に熟睡している場合において、脳はほぼ休止状態となり、自覚できる意識はない。それ故に、周りでどんな事象が起きようとも、自らの神経を刺激するもの以外であれば、意識の対象外となり、無関心となる。
 これこそが、生まれてくる以前の意志(意志がないという意志)の表れであり、生まれてくる以前は言い換えれば、死後とも言えるわけである。
 その考えに基づけば、睡眠は、生の間、死に最も近づいている瞬間であるということがわかる。(もちろん、気絶や事故などによる意識不明状態に陥るのもこれに似たものである) 
 そしてこれらをほぼ毎日、強制的に行うことにより、人間はいずれ誰しもに必ず訪れる本物の死に対し、免疫を付けていると考えられる。
 その根拠の一つに、若者は夜遅くまで起き、老人は夜早くに寝るという現象がある。これは何を意味しているかと言えば、生に対する執着と死に対する恐怖心の年齢における変化である。
 予行練習が未熟でまだ免疫の少ない若者は、睡眠を死の恐怖と感じ(無意識であるが)、その恐怖から逃れるために、なかなか寝ようとしないのに対し、老人は在る程度の免疫が備わっており、死の恐怖を無意識に克服できるのである。しかし、その一方で若者は朝遅くまで寝て、老人は朝早くに起きる。これは生に対する執着の違いでもある。
 若者は死の恐怖を無意識に感じる一方、生に対する執着が薄く、老人はその逆であるということだ。
 では、なぜ死に対して恐怖心の薄い老人が朝早く起きるのか? 言い換えれば、なぜ死に対する免疫がある老人が生に執着するのか? という疑問も生じる。
 これは残された生の時間と比例するというのが私の考えである。若者であれば死までの時間的猶予が在る一定度あるが、老人は死までの時間的猶予は少ない。もう先が無いという無意識と意識が、老人に太陽の陽を長く見続けたいという熱望を与えているのだ。
 それに対し、若者は死への恐怖心が強い一方、生に対する執着が少ない(実感もない)ゆえに、太陽が顔を覗かせる朝はさほど重要ではないのである。
 わかりやすく例えるのならば、若者なら朝起きるという行為は当たり前の事だが、老人の場合、予行練習である睡眠が、そのまま永眠になってしまう危険性を常に孕んでいるということである。これを意識下、もしくは無意識下で感じる老人は、必ず、自らの意志で目覚めなければならないのである。
 これらを考えれば、睡眠がどれほど死の予行練習として役立っているか、その反面、生に対する執着を促すものになっているかがわかると思う。
 また、補足だが、それではなぜ赤ん坊は、若者同様に、夜遅くまで起きていないのか、という疑問も生じる。それについての深い考察は、以後しようと思うが、簡単に要点だけを説明すると、赤ん坊は、生まれてくる以前の状態から、誕生後の生の苦悩、苦痛、死の恐怖へ、徐々に慣れさせていくという過程を踏んでいると考えられる。それ故に、初期では死の友人である睡眠が長く取られ(言い換えると生まれてくる以前の状態)、そのうち徐々に(慣れてくると同時に)、それが減少していくのである。
 次にもう一つ、睡眠にとって重要な意味を持つ「強制的な我欲の抑制による自然調和」についてである。
 人間は目覚めている間、否応無しに欲を欲する。たとえ自分には欲が無いという人間でも、食欲や睡眠欲は、切っては切り離せないのである。
 まして、そうではない人間にとって、生きることは、我欲そのものであると言っても過言ではない。しかし、その我欲こそが生命体としての人間の愚かさの象徴であり、人間にのみ備わった天が与えた産物とも解釈できる。
 しかしその一方で、我欲は他の生命体との調和を阻害し、自然界から人間を切り離そうとする一番の要因であり、人間のみを孤立させるものである。それ故に、仏教の世界でも、「無我の境地」があり、その代表が禅などである。
 この禅は、先に書いた「死の予行練習」と強制か自らの意志かの違いはあっても、極めて本質、性質が似ているともいえる。
 「死の予行練習」である睡眠も、ある意味、「我欲の抑制による自然調和」を無意識に、強制的にしているからである。
 ただ、その強制を自らの意志で行うかどうか、そこには大きな違いがあるのも事実である。これは無意識から意識、受動から能動をへと昇華させている分、高貴なことである。
 それでも人間は、僅かな光として、こうした睡眠という「強制的な我欲の抑制による自然調和」を行い、他との生命体との完全孤立を避けているのである。
 では、なぜそのように人間はわざわざ自然界と繋がりを持とうとするのだろうか?
 これはある意味愚問でもある。誰もが周知のように、人は一人では生きて行けないのと同じように、人は、他との生物との共存なくしては生きられないからである。
 しかし、人間の我欲はこれらを軽視し、あたかも生物界の頂点に君臨しているかのように錯覚するもので、これは極めて不幸であり、またそう思う人間こそ、実は裸の王様なのである。
 そのように、我欲を自らの意志で抑制できない人間に対し、種の意志、いや、生命の意志は人間にも他の動物同様(我欲の無い他の生命体にとっては単なる生理現象でしかないのだろうが)、睡眠を与えたのである。そう解釈すれば、「強制的」である意味にも頷けるのではないだろうか。
 そして誰もが、この「強制的な我欲の抑制による自然調和」を手にし、かろうじて人間は他の生命体と調和、共存が可能になっているのである。
 これこそが私の考える、本当の意味での睡眠の役割であり、本質であると思う。