幸福論の滑稽 | ひより

幸福論の滑稽



結婚するときに、なぜかみな、「わたし、幸せになります!」




という。



占い師に見てもらうときに、なぜかみな、「わたし、幸せになれますか?」




ときく。







なぜだろうか?



それまで幸せでは無かったというのか?



もしくは、もっと幸せになる(なれるかな?)と言っているのか?



どちらにせよ、おかしな話に聞こえてならない。



そもそも幸せの定義とは何か?



そんなものは、存在しないというのがワタクシの考えでありまして。。。。



では、そう言う場合、どう表現したら良いのだろうか。






私なら迷わず、結婚するときには、「楽しみます!」と答えるだろう。






幸せと楽しむ。一見、似たような表現だが、実はまるで違う。



そもそも幸福というのは、個々の感じ方と、何かしらの事象における間接的現象でしかない。



それを無理矢理、結婚だとか、金とか、子供とか、そういったものを利用(間接的に)して、



自分は幸せだと、思い込ませているに過ぎないのだ。




それ故に、結婚がうまく行かないと、子供が言う事を聞かないと、お金が無いと、



自分は極端に不幸せだと嘆くのだ。




これほどまでに滑稽なものはないと私は思う。





それに対し、楽しむというのは、非常に単純明快ではないだろうか。



ある人が昔、こんなことを言っていた。



「人間にとって一番大事で、必要なことは、人を愛せる能力と楽しむ能力の二つだけだ」



と。





なるほど、突っ込みどころの無いほど単純明快な答えである。






ここで言う、「楽しむ」というのは、その主体が直接的かつ、能動的でなければならないというのも大事な点だ。



どれだけ金があろうとも、地位があろうとも、結婚しようとも、その主体が、それらの状況に甘え、受動していては、楽しむことはできない(または持続できない)




それ故に、主体自身が直接的に、「楽しむ」ということを感じる能力と、それに向かおうとする能動的「意志」が無ければならない。





この主体に直接的に在るものと、意志によって、楽しむという事が可能になりうるのである。




そして、そこに積み上げられたものを「幸せ」と呼ぶのならば、確かに「幸福論」は成り立つのかもしれないと私は思う(生きる苦悩は除外してだが)




まあ、どちらにせよ、「幸せになります!」「幸せになれますか?」がどれだけ滑稽かは、言うまでもないが。。。。