ひより -48ページ目

確率と優先順位


ある事象を考えたとき、必ず優先順位というものが少なからず存在します。



例えば、


1 重要で、急がなければならない事象

2 重要だけど、急がなくてもいい事象

3 さほど重要ではないが、急がなければならない事象

4 さほど重要ではないが、急がなくてもいい事象



当然、この場合、優先順位は、1→3→2→4となります。


しかしながら、そもそもこの1~4の仕分けがきちっと出来るか?という根本的問題が難しかったりするのです。



例えば、4と判断したものが、実は1であった場合、数年後によりその問題が大きくなり、取り返しがつかなくなることもあるのです。


最近の政治では、国土強靭化計画など良い例でしょう。


マスメディアは明らかにその重要性を理解しておらず、言うならば4という判断をしているように思えます(口先だけでは2でしょうか)



確かに、地震や災害が起きないことにこしたことはありません。しかし、確率的にその可能性が極めて高い場合、例え起きないにせよ、起きた場合の被害の大きさを考えると、重要なことへと格上げされなければおかしいのです。


また災害は明日起きることも可能性としてはあります。そう考えると、緊急性もなければなりません。


このような観点で様々な事象を見ていくと、確率的にどこがそのボーダーラインになるか?ということが重要になってきます。



例えば、0・001%しか起きない可能性に、莫大な投資をすることは、馬鹿げています。むしろ、それによる弊害の方が大きくなるからです。これは原発などに言えていることでしょう。


もちろん、例え確率が低くとも、その被害が甚大であれば、それは多少なりとも考慮しなければなりません(例えばよりその確率を下げる努力だとか)



また、確率が50%を超えるようなことに、全く対処しないというのもまた馬鹿げた事です。


これも残りの50%は起きない!と言ってしまえばそれまでですが、少なからず50%は起きるわけですから、その被害を予測し、それ相当の対処はせざるをえません。


では何%以下なら対処しなくてもよいでしょうか?



これはその重要度によって当然変わります。重要でなければ%テージが高くとも、さほど問題にはなりませんし、起きてから対処をすればよいでしょう。



しかし災害などはそうは行きません。少なからず私の感覚では、10%以上というデータがあれば、対処するべきだと思います(もちろん、掛ける額は%テージの上昇に伴い上がる)




これは国家レベルの話ではなくとも、個人レベルでも同じことが言えています。



例えば、自分の娘や孫に対し、非協力的であったり、蔑ろな言動をすれば、その人の老後はどうでしょうか?娘はちゃんと愛をもって老後の世話をしてくれるでしょうか?


これも確率論ですが、当然、病気もせず健康のまま、誰にも迷惑も世話にもならず、ぽっくり死ぬこともあります。


しかしながら多くの場合、そういったことにはなりません。誰かしらの手助けがあって、人は死んでいくのです。


そう考えた場合、自分の娘や孫に対し、ぞんざいに対処することは、数十年後の自分が困るということにもなります。


これは、2の重要だけれど、急がなくてもいい事象に当てはまります。今すぐ、死ぬわけではないけれど、それに対する備えはしっかりしておかなければならないというわけです。


そこをはき違え、4と判断してしまえば、きっとその人は数年後、数十年後にかなりの確率で困ってしまうはずです。



これは想像力とも関係していることなのですが、優先順位を間違えると、このようにその後、対処不能な事象へと形を変えてしまう確率が高くなるということなのです。



もちろん、過度にそれらを恐れて、萎縮する必要は全くないと思います。


それでも、目先だけのその場の感情で判断するということは、非常に危険なことであることは間違いありません。


ただ同時に、社会というものは、ほとんどの場合、表面上の無責任な人間関係で構築されてるといっても過言ではありません。


ですから、本当はその人にとって1や2の事象であるにも関わらず、それを指摘することで、相手がその瞬間、嫌な思いをするだろう、自分も嫌な奴だと思われるだろう、という無責任の中で、4を選択してしまうケースが多いのです。


場合によっては、「空気の読めない奴」だとか「めんどくさい奴」というレッテルを貼られることもあるでしょう。


しかし、もし本当に相手のことを考えているのならば、その瞬間、相手にとって都合が悪かったり、辛かったり、嫌だったりしても、その後、より酷い問題へと変わる可能性が高ければ、それを指摘し、改善させるはずです。



ただ残念なことに、日本人はそういったことに双方が慣れてはいません。ですから、言われた方はただ感情的になり、言う方も萎縮して言わなくなってしまうわけです。



このように、本来ならば、将来的にそうなる確率が高くとも、優先順位をあえて低く設定してしまうということが起きてしまうわけです。



もちろん、これらを一人ディベートして正しい確率と優先順位を導きだし、それに乗っ取って行動をするにこしたことはありません。


しかしながら人間は完璧ではありませんし、その一人ディベートすら、純客観ではないわけですから、より多くの情報を得たり、分析を聞いたりすることはどんな優秀な人間でも、決してマイナスにはならないのです。


これは前回のブログで、可能性の肯定と説明しましたが、思い込みが強い人間ほど、可能性を否定する傾向にあります。


そうならずに、常に可能性を肯定し、当然、一人ディベートをしつつ、他者からの情報や分析を自分のものにすることで、その優先順位の間違いを最小限に抑える事が出来るのです。




そういう意味においては、本当に大事な事象というのは、実は1でなく2の重要だけれど急がなくてもいい事象なのかもしれませんね。







メディアが語る平和という欺瞞


平和憲法、平和主義、世界平和・・・・平和と付くと、どうも日本人は、いや、人間は弱いように思えます。



もちろん、世の中が平和であるにこしたことはありません。しかし、それはあくまで理想論にすぎないことは、過去の歴史や現在の世界情勢をみれば、誰にでもわかることでしょう。



そこで私は、そもそも平和とは何か?について考えてみる事にしました。



その上でメディアなどが取り上げる、「近隣諸国との関係改善、仲良くしましょう」的なものがどれだけ平和というものをきちっと理解していないかということを指摘したいと思います。



まず、わかりやすくミクロで喩えると、知らない人と仲良くなった、というのは、よくあることです

次に、仲のいい人(もしくは知り合い)と仲が悪くなった、これもよくある話です。

そして最後に、知らない人と知らないままでいた、というのは、これ1億2千万人、いや世界で60億人、人間がいれば当然すぎるほど当然です。



では、なぜこんな話をしたのかと言えば、知らない人と仲良くなったのは、一つに利害の一致、もう一つは感情、感性の一致があったからに他ならないわけで、それ以外の理由というものは基本、存在しないわけです。



これを国単位(マクロ)で見た場合はどうでしょうか。


当然、利害が一致していれば仲良くもできますし、感覚(宗教観など)が合っていれば、協力しようという感情も少なからず起きるはずです。


そして次の、仲の良い人と仲が悪くなった、というのは、所謂時間軸が関係しています。

言い換えると、過去に利害は一致していても、今や未来に一致してるとは限らないですし、宗教観が教育などによって変質し、関係が壊れることもあるわけです。


これは当然、国家間(マクロ)でも起こりうる話で、戦前、戦後のアメリカやイギリスと日本の関係を顧みるだけでもわかることです。



そして最後に、知らない人と知らないままでいた、というのがあります。


ここには利害の一致というのが、現段階では無い、という事と、感覚の共鳴も、現段階ではない、ということです。


少し話がややこしく感じるかもしれませんが、これは可能性の肯定であって、ここから仲良くなる可能性もゼロではない、と言いたい訳です(逆もしかり)


さて、人間関係(親戚、家族間は抜く)というのは、主にこの3つで構成されているわけですが、ここで想像していただきたい。


あなたの周囲の人は、あなたのことが好きな人だけで構成されていますか?

あなたは誰にも嫌われていませんか?

あなたは誰のことも嫌いではないですか?


そんなことは絶対にありえませんよね。実はこれが国家間(マクロ)で起きているのが世界情勢なのです。



そこを踏まえた場合、平和というのは、全ての国々の利害か、もしくは感覚(宗教観)が一致していなければ、ありえないことになるのです。


ここまで話すと、さすがに全ての国同士で宗教観を一致させることがどれだけ徒労かということに気づきますよね。


世界の歴史(民主主義VS資本主義であったり、宗教対立)を顧みればこれも明白なわけです。



となると、唯一の可能性は、単純な利害の一致だけなのです。


そしてその利害の一致というのは、主に二つ。



一つは、双方にとって損よりも得が上回る(もしくは稀に双方とも得しかない)


もう一つは双方にとって得も損もない(もしくは相殺されている)



この関係以外で、利害というものは一致しないのです。



メディアは馬鹿の一つ覚えのように、「中韓と仲良くしましょう。それが戦争をしない平和な世界を作る手段などです!」のように語りますが、そもそも仲良くする=平和ではまったくありません。


利害の一致=仲良くなる(もしくはなったふりをする)


であり、平和は結果論にすぎません。



そこでリアルな話として、米中韓とどう利害を一致させていくか、という問題になります。


まず、アメリカですが、ざっくりいうと、日本との利害の一致は、同じ民主、資本主義というイデオロギーの一致、次に、アメリカにとって、ロシア、中国という共産主義国家との楯になる(現在は冷戦が終わり、それも弱まっていますが)という地政学上の問題。
さらには軍事支配による経済優位性(アメリカ)です(他にもありますが)


当然、これらのアメリカの利害について、日本はアメリカから安全保障などの利益還元が行われています(損もずいぶんしていますが)


次に中国はどうでしょうか。まず経済の一致は技術と生産の役割分担です。高い日本の技術と、安い中国の生産能力を合わせることで、世界経済で優位に戦えます。


しかしながら最近はどうでしょうか。中国は経済が発展し(今は崩壊の一途ですが)労働賃金が上昇し、決して安い生産性とは言えなくなってきました。


これは日本にとって利害が一致しなくなり始めているということです。


もちろん、中国にとってはそれでも自国で生産を増やしたいでしょうが、市場経済はたとえ共産主義国家の中国でも一国で決められる問題ではありません。


よって、日本は中国よりも生産性が良く、コストの安い場所へと移動していきます。


これ先ほど書いた、今までは仲良くしていたが仲が悪くなった、というのに似てませんか?


国も人も、時間軸によってその利害関係に変化が起き、例えば、同盟国同士が戦争をすることもあり得るわけです。(当たり前ですが)


また、中国は自前の資源だけで10億人を養っていけることはありません。そうなれば、さらなる資源をどこからか買うか、もしくは奪うかしかなくなるのです。


これが尖閣問題や南、東シナ海の問題なのです。


韓国は面倒なので簡潔に話しますが、中国の属国として長年その宗教観を一致させてきたものが、ここ数十年、こちら側に寄っていた事自体が不自然であり、そもそも相見えない存在であったという、根源的な問題に加え、そもそも輸出でGDPの大半を賄う韓国にとって、輸出に強い日本とは利害が一致するわけがないのです。



さて、韓国の話はこの辺りで終わらせ、結論に入りたいと思います。


平和とは、その大前提において、いかに利害を一致させるか、というのは散々言ってきましたが、この利害というのは、得だけではないのです。


逆に損ということも考えられます。


こいつと、付き合わないと損する、こいつと喧嘩したら、痛い思いをする、なら仲良くまではいかないけど、喧嘩だけはしないようにしよう、だとか、そういったことです。



これが国家間になると軍事力ということになります。



この軍事力、正直、双方で均衡する努力は可能だと私は考えています。なぜならば、軍事力を互いに高め合えば、戦争をしなくとも国民経済は破綻してしまうからです。


どこかで妥協するということを考えるのならば、均衡という手段を選ばざるを得なくなるわけです。



また、核兵器のように、双方が保持した場合、これは絶対に使えない兵器になります。使えば自分たちも死ぬのですから、こんなことはよほど馬鹿で追いつめられた独裁者でなければやりません。


その均衡を前提において、通常兵器の均衡を計ることが出来れば、私はある一定の平和というものは可能ではないか、と結論づけています。



一時的な平和というのは、得の部分の利害関係で成り立つことはあっても、時代が変わればその関係性も崩れる可能性もあるがゆえに、損という利害関係に乗っ取ることこそ、現実を考えたとき、最も重要なことになるのではないか、と私は思うのです。



当然、この考えは朝日、毎日などのメディアとは全く違った見解であり、核保有積極論者と言われるかもしれません。


しかしながら、私は核など、出来る事なら持つべきではない、と思っています。ただ、論理的に詰めていけば行くほど、現実的には、核の保有は必要不可欠になってしまうのです。



これは哀しい現実ですが、憲法条文に書いてある、「平和を愛する世界の諸国民の公正と信義に委ね」という、現実とは真逆な状況下においては、仕方の無いことだと思います。





さらに最後に付け足すのならば、ある大国が自滅し、その結果、生き残るために略奪戦争をするのか、もしくは、その大国を他の大国や小国が援助して助けるのか、


私はそれが後者でなければ絶対にならないと、思っています。


この考えはまさに全体主義へと繋がる話なのですが、話が長くなってしまったので、その辺りはいつかまた、お話したいと思います。






マクロ脳とミクロ脳について

はじめに私は、脳科学的マクロ脳、ミクロ脳とは関係なく、その人間の持ちうる視野、視点というものを基礎に、ここではそれらを分類した。


まず私の言うマクロ脳というのは一体、どういったものなのか。簡潔に言うのならば、多面的、多角的視野と論理性を持ち、それらを総合的に分析して判断する脳である。


当然、多角的、多面的な論理性は莫大な知識を要するし、何よりもそれを総合的に分析する卓越した知性を持ち合わせていなければならない。


そこを踏まえると、マクロ脳は相当なマイノリティーにならざるを得ないわけだが、少なからず、私のようにそういった本物のマクロ脳の持ち主を前に、そこに共鳴することさえできれば、その人間はミクロ脳ではない、とは言えるのだろう。



その対局にあるミクロ脳は、物事をある側面のみで判断したり、その側面の論理性のみでそれが正しいと判断する脳である。




このミクロ脳は、その一面においては正論である場合があることも否めないが、同時に、大局的観点からはそれがイコールしない、所謂、合成の誤謬であることが往々にしてあると私は常々指摘している。



実はこれがミクロ脳の一番の特徴とも言えるのだが、その前提において、例えその論理性が覆されたとしても、一切のマクロ的観点を持たないというのが根本的ミクロ脳の大きな特徴であり問題点だ。



これらのミクロ脳は主にその個人の精神が軸となり、恐怖や不安又は教育や環境に大きく左右され、その時々の個人の精神によって思い込みというものが強く作用し、より排他的思考へと自らを追いやってしまうのだ。



言い換えるとミクロ脳は内向きへの発信であり、それらを共有する仲間を求め、慰め、自己の正当化に努めるのである。


例を出せば、宗教など、自分の考えに絶対的自信(確実な論理性)が欠如しているということを意識、無意識に関わらず、自ら悟り、その不安を共通する他者との集合と共鳴によって払拭し、正当化ているわけだ。



またミクロ脳というのは生活と直結しているというのも大きい。隣のスーパーの方がサンマが安かっただとか、上司との関係がうまく行かないだとか、私たちが日々直面する問題のほとんどがミクロレベルでの出来事ばかりだ。



それだけに多くの人たちが、ミクロ脳だけに特化して発達し、マクロ脳が育たない環境にあることは間違いない。


こうしたミクロ脳の人間が多数派を占めれば占めるほど、私は国家というものが不安定化すると考えている。昨今の選挙動勢、政治情勢などを踏まえると、それは明白だろう。



そういった流れに歯止めを掛ける事は、歴史上不可能であるという思いもあるが、少しでもそういったマクロ脳的な(又はそれに付随した)人たちが今後、我が国で育っていってもらいたいと思う。