確率と優先順位
ある事象を考えたとき、必ず優先順位というものが少なからず存在します。
例えば、
1 重要で、急がなければならない事象
2 重要だけど、急がなくてもいい事象
3 さほど重要ではないが、急がなければならない事象
4 さほど重要ではないが、急がなくてもいい事象
当然、この場合、優先順位は、1→3→2→4となります。
しかしながら、そもそもこの1~4の仕分けがきちっと出来るか?という根本的問題が難しかったりするのです。
例えば、4と判断したものが、実は1であった場合、数年後によりその問題が大きくなり、取り返しがつかなくなることもあるのです。
最近の政治では、国土強靭化計画など良い例でしょう。
マスメディアは明らかにその重要性を理解しておらず、言うならば4という判断をしているように思えます(口先だけでは2でしょうか)
確かに、地震や災害が起きないことにこしたことはありません。しかし、確率的にその可能性が極めて高い場合、例え起きないにせよ、起きた場合の被害の大きさを考えると、重要なことへと格上げされなければおかしいのです。
また災害は明日起きることも可能性としてはあります。そう考えると、緊急性もなければなりません。
このような観点で様々な事象を見ていくと、確率的にどこがそのボーダーラインになるか?ということが重要になってきます。
例えば、0・001%しか起きない可能性に、莫大な投資をすることは、馬鹿げています。むしろ、それによる弊害の方が大きくなるからです。これは原発などに言えていることでしょう。
もちろん、例え確率が低くとも、その被害が甚大であれば、それは多少なりとも考慮しなければなりません(例えばよりその確率を下げる努力だとか)
また、確率が50%を超えるようなことに、全く対処しないというのもまた馬鹿げた事です。
これも残りの50%は起きない!と言ってしまえばそれまでですが、少なからず50%は起きるわけですから、その被害を予測し、それ相当の対処はせざるをえません。
では何%以下なら対処しなくてもよいでしょうか?
これはその重要度によって当然変わります。重要でなければ%テージが高くとも、さほど問題にはなりませんし、起きてから対処をすればよいでしょう。
しかし災害などはそうは行きません。少なからず私の感覚では、10%以上というデータがあれば、対処するべきだと思います(もちろん、掛ける額は%テージの上昇に伴い上がる)
これは国家レベルの話ではなくとも、個人レベルでも同じことが言えています。
例えば、自分の娘や孫に対し、非協力的であったり、蔑ろな言動をすれば、その人の老後はどうでしょうか?娘はちゃんと愛をもって老後の世話をしてくれるでしょうか?
これも確率論ですが、当然、病気もせず健康のまま、誰にも迷惑も世話にもならず、ぽっくり死ぬこともあります。
しかしながら多くの場合、そういったことにはなりません。誰かしらの手助けがあって、人は死んでいくのです。
そう考えた場合、自分の娘や孫に対し、ぞんざいに対処することは、数十年後の自分が困るということにもなります。
これは、2の重要だけれど、急がなくてもいい事象に当てはまります。今すぐ、死ぬわけではないけれど、それに対する備えはしっかりしておかなければならないというわけです。
そこをはき違え、4と判断してしまえば、きっとその人は数年後、数十年後にかなりの確率で困ってしまうはずです。
これは想像力とも関係していることなのですが、優先順位を間違えると、このようにその後、対処不能な事象へと形を変えてしまう確率が高くなるということなのです。
もちろん、過度にそれらを恐れて、萎縮する必要は全くないと思います。
それでも、目先だけのその場の感情で判断するということは、非常に危険なことであることは間違いありません。
ただ同時に、社会というものは、ほとんどの場合、表面上の無責任な人間関係で構築されてるといっても過言ではありません。
ですから、本当はその人にとって1や2の事象であるにも関わらず、それを指摘することで、相手がその瞬間、嫌な思いをするだろう、自分も嫌な奴だと思われるだろう、という無責任の中で、4を選択してしまうケースが多いのです。
場合によっては、「空気の読めない奴」だとか「めんどくさい奴」というレッテルを貼られることもあるでしょう。
しかし、もし本当に相手のことを考えているのならば、その瞬間、相手にとって都合が悪かったり、辛かったり、嫌だったりしても、その後、より酷い問題へと変わる可能性が高ければ、それを指摘し、改善させるはずです。
ただ残念なことに、日本人はそういったことに双方が慣れてはいません。ですから、言われた方はただ感情的になり、言う方も萎縮して言わなくなってしまうわけです。
このように、本来ならば、将来的にそうなる確率が高くとも、優先順位をあえて低く設定してしまうということが起きてしまうわけです。
もちろん、これらを一人ディベートして正しい確率と優先順位を導きだし、それに乗っ取って行動をするにこしたことはありません。
しかしながら人間は完璧ではありませんし、その一人ディベートすら、純客観ではないわけですから、より多くの情報を得たり、分析を聞いたりすることはどんな優秀な人間でも、決してマイナスにはならないのです。
これは前回のブログで、可能性の肯定と説明しましたが、思い込みが強い人間ほど、可能性を否定する傾向にあります。
そうならずに、常に可能性を肯定し、当然、一人ディベートをしつつ、他者からの情報や分析を自分のものにすることで、その優先順位の間違いを最小限に抑える事が出来るのです。
そういう意味においては、本当に大事な事象というのは、実は1でなく2の重要だけれど急がなくてもいい事象なのかもしれませんね。