なぜ保守と言われる安倍総理さえも新自由主義者なのか。
前回のブログでは、なぜ今やるべき正しい政策が行われないのかを書いたが、今回は、逆に、なぜ、新自由主義がこうまで、政治家、学者、メディア、国民を支配してしまうのかを述べたいと思う。
まず、新自由主義というのは、何なのかを簡単に説明すれば、政府の統治を極力弱くし、市場の原理で合理的に金を稼ぎましょうということだ。(細かい事は今更なのでいちいち書かないが)
一見、その方が良いように聞こえるかもしれないが、別の見方をすれば、どんなことが起きても、誰も統治が出来ず、誰も責任を取らないという無責任状態であるとも言えるのだ。
また、世界的自由競争の弊害は、格差と貿易摩擦、需要不足と失業者を増やすわけで、常に私が言っているように、これらは反民主主義的(反国民)であるということだ。
また、金や人や物が自由に行き来するようになると、地域であるだとか、そういった共同体が破壊され、結果、その国や地域の伝統や文化や慣習といったものが破壊されてしまうことになる。所謂、これらは反保守思想に繋がるわけだ。
にも関わらず、国民の多くがこのような新自由主義になんら懐疑的になっていないというのは、そもそも何故なのか。
また、安倍首相のように、一般的に保守と呼ばれるような政治家が自らこのような反民主主義的で、反保守的な新自由主義をなぜ採用するのだろうか。
まず上げられるのが、共産主義や社会主義との対立だろう。
本来の保守は保護主義的で、共産主義との親和性もあるのだが、この共産主義の台頭が、本来保守である者達に対抗意識(恐怖心)を芽生えさせ、結果、その真反対に位置する新自由主義と結託し始めたというわけだ。
【本来の構図】
新自由主義(左翼)VS保守主義→共産主義(左翼)
【現在の構図】
新自由主義(偽保守)=保守主義VS共産主義(左翼)
こういった構図の変化があり、共産主義を敵対視した結果、保守達が本来左翼である新自由主義政策を採用してしまったわけだ。
次に上げられるが、民主主義の過剰と、相対的に、政府のガバナンスが低下したことにあるのではないだろうか(逆もあるのかもしれないが)
民主主義=正しい、というのは、冷戦の終わり、共産主義というものの否定と共に一般的に明確になったわけだが、それによってより民主主義はより強固(民衆の要求が強くなる)となり、また過剰となり、結果、市場原理主義(市場の要求)が台頭してきたと考えられるだろう。
また、当時は政府の様々な失策によって(バブルやその崩壊など)、政府のガバナンスに対し批判が集まり、政府の信用が落ちた事、また政府もその批判を躱すために、より市場にその責任が行くような(逆に言えば自分に責任が来ないような)新自由主義へと傾倒して行ったのだ。(その方が人気が出た)
そもそも、先の構図で示したように、本来、新自由主義と保守は相性が極めて悪い。というか相見えないはずだ。
なぜならば、保守が伝統や文化の基礎となる共同体を重視するのに対し、新自由主義は個人の自由な選択を重視しており、それらが結果として共同体を崩壊させ、文化や伝統を破壊して行くからに他ならないからだ。
これは、保守が制限された不自由の中から自由を見いだすのに対し、新自由主義は、そもそもその制限自体を取っ払ってしまうユートピア的自由を重視しているという点からも明白だ。
この新自由主義的考えは、所謂、個人主義思想であり、また合理主義とも極めて相性がよく、共同体の中で不自由を感じたり、非合理性を感じたりしている者に、新自由主義と言う逃げ場(居場所とも言える)を作ったとも言い換えられ、それ故に、個人主義が台頭すれば、自動的に新自由主義が台頭するという構図となるわけだ。
まとめると、共産主義を敵対左翼と位置づけた事で、保守が新自由主義に取り込まれたということ。
さらに、政治のガバメントの低下と民主主義の過剰(言い換えれば、政治家は支持率が無ければ動けない)がそこに拍車をかけ、双方の利害が、自由と無責任という形で一致したことが、本来、反民主主義、反保守である新自由主義に傾倒していった要因ということだ。
さらに、もう一つ大きな要因が、藤井聡氏が警鐘をならしているような、全体主義化していることにもあると思う。
この全体主義は、社会的な俗情であるとし、またその中身は、貪欲、虚栄、恐怖、存在論不安から成り立っていると全体主義研究の第一人者であるハンナ・アーレントは述べているのだが、まさに、新自由主義というのは、この全体主義と、ぴたり一致する。
(以下は藤井聡氏からの引用である)
「貪欲」 過剰供給の処理=資本家の強欲
「虚栄」 一部の人々 (政治家、経済学者、エコノミスト)
「恐怖」 反グローバリズムに対する抑圧に対する恐怖
「存在論不安/ルサンチマン」 社会摩擦によってアトム化した先進国の高学歴、資本家の大衆が、自らの居場所を与える全体主義を希求
言い換えれば、共同体から疎外された1%の勝者集団(強欲資本家など)が仕掛けた全体主義こそが、新自由主義の台頭を未だ許している根幹であるというわけだ。
このように考えれば、なぜ新自由主義がここまで保守と呼ばれる安倍総理や、また一般国民の間に根強く寄生しているかということが分かるし、また、だからこそ共産主義と親和性の高いケインズのような、まともな経済理論が、採用されないかがわかると思う。
もちろん、そこに対抗するのは私たち国民であることは言うまでもなく、ましてや、安倍総理だから正しいなどと思考停止しないことこそが重要なのである。
まず、新自由主義というのは、何なのかを簡単に説明すれば、政府の統治を極力弱くし、市場の原理で合理的に金を稼ぎましょうということだ。(細かい事は今更なのでいちいち書かないが)
一見、その方が良いように聞こえるかもしれないが、別の見方をすれば、どんなことが起きても、誰も統治が出来ず、誰も責任を取らないという無責任状態であるとも言えるのだ。
また、世界的自由競争の弊害は、格差と貿易摩擦、需要不足と失業者を増やすわけで、常に私が言っているように、これらは反民主主義的(反国民)であるということだ。
また、金や人や物が自由に行き来するようになると、地域であるだとか、そういった共同体が破壊され、結果、その国や地域の伝統や文化や慣習といったものが破壊されてしまうことになる。所謂、これらは反保守思想に繋がるわけだ。
にも関わらず、国民の多くがこのような新自由主義になんら懐疑的になっていないというのは、そもそも何故なのか。
また、安倍首相のように、一般的に保守と呼ばれるような政治家が自らこのような反民主主義的で、反保守的な新自由主義をなぜ採用するのだろうか。
まず上げられるのが、共産主義や社会主義との対立だろう。
本来の保守は保護主義的で、共産主義との親和性もあるのだが、この共産主義の台頭が、本来保守である者達に対抗意識(恐怖心)を芽生えさせ、結果、その真反対に位置する新自由主義と結託し始めたというわけだ。
【本来の構図】
新自由主義(左翼)VS保守主義→共産主義(左翼)
【現在の構図】
新自由主義(偽保守)=保守主義VS共産主義(左翼)
こういった構図の変化があり、共産主義を敵対視した結果、保守達が本来左翼である新自由主義政策を採用してしまったわけだ。
次に上げられるが、民主主義の過剰と、相対的に、政府のガバナンスが低下したことにあるのではないだろうか(逆もあるのかもしれないが)
民主主義=正しい、というのは、冷戦の終わり、共産主義というものの否定と共に一般的に明確になったわけだが、それによってより民主主義はより強固(民衆の要求が強くなる)となり、また過剰となり、結果、市場原理主義(市場の要求)が台頭してきたと考えられるだろう。
また、当時は政府の様々な失策によって(バブルやその崩壊など)、政府のガバナンスに対し批判が集まり、政府の信用が落ちた事、また政府もその批判を躱すために、より市場にその責任が行くような(逆に言えば自分に責任が来ないような)新自由主義へと傾倒して行ったのだ。(その方が人気が出た)
そもそも、先の構図で示したように、本来、新自由主義と保守は相性が極めて悪い。というか相見えないはずだ。
なぜならば、保守が伝統や文化の基礎となる共同体を重視するのに対し、新自由主義は個人の自由な選択を重視しており、それらが結果として共同体を崩壊させ、文化や伝統を破壊して行くからに他ならないからだ。
これは、保守が制限された不自由の中から自由を見いだすのに対し、新自由主義は、そもそもその制限自体を取っ払ってしまうユートピア的自由を重視しているという点からも明白だ。
この新自由主義的考えは、所謂、個人主義思想であり、また合理主義とも極めて相性がよく、共同体の中で不自由を感じたり、非合理性を感じたりしている者に、新自由主義と言う逃げ場(居場所とも言える)を作ったとも言い換えられ、それ故に、個人主義が台頭すれば、自動的に新自由主義が台頭するという構図となるわけだ。
まとめると、共産主義を敵対左翼と位置づけた事で、保守が新自由主義に取り込まれたということ。
さらに、政治のガバメントの低下と民主主義の過剰(言い換えれば、政治家は支持率が無ければ動けない)がそこに拍車をかけ、双方の利害が、自由と無責任という形で一致したことが、本来、反民主主義、反保守である新自由主義に傾倒していった要因ということだ。
さらに、もう一つ大きな要因が、藤井聡氏が警鐘をならしているような、全体主義化していることにもあると思う。
この全体主義は、社会的な俗情であるとし、またその中身は、貪欲、虚栄、恐怖、存在論不安から成り立っていると全体主義研究の第一人者であるハンナ・アーレントは述べているのだが、まさに、新自由主義というのは、この全体主義と、ぴたり一致する。
(以下は藤井聡氏からの引用である)
「貪欲」 過剰供給の処理=資本家の強欲
「虚栄」 一部の人々 (政治家、経済学者、エコノミスト)
「恐怖」 反グローバリズムに対する抑圧に対する恐怖
「存在論不安/ルサンチマン」 社会摩擦によってアトム化した先進国の高学歴、資本家の大衆が、自らの居場所を与える全体主義を希求
言い換えれば、共同体から疎外された1%の勝者集団(強欲資本家など)が仕掛けた全体主義こそが、新自由主義の台頭を未だ許している根幹であるというわけだ。
このように考えれば、なぜ新自由主義がここまで保守と呼ばれる安倍総理や、また一般国民の間に根強く寄生しているかということが分かるし、また、だからこそ共産主義と親和性の高いケインズのような、まともな経済理論が、採用されないかがわかると思う。
もちろん、そこに対抗するのは私たち国民であることは言うまでもなく、ましてや、安倍総理だから正しいなどと思考停止しないことこそが重要なのである。
なぜまともな政策が実現できないのか?
私としては、デフレ脱却のためには、とにもかくにも需要不足を補う事。
そして、民間の需要がない、また世界的需要不足である現状からすれば、それは政府の財政出動しかない。
また、この状況下での、供給量を増やす政策は、まさにその需要不足を加速させ、また消費税増税のような、消費圧迫政策は、よりデフレに陥ると常々言ってきました。
しかし、そんな至極全うとも思える政策をなぜ政府がやらないのか?
むしろ、その真逆ともとれる政策をなぜ推進するのか?
正直頭が痛くなります。
と同時に、なぜそのような政策が少数意見となり、大多数は安倍政権が打ち出すようなグローバリズム政策を賞賛するのか、という問題について、考察する必要もあると思うのです。
いや、それこそが我が国を巣食う病魔の根源だとも思うのです。
まず、民間の需要不足を補うための財政出動が、なかなか行われない理由について考えて行きましょう。
1)公共事業が既得権益である。
2)国の借金(財政問題)から、将来にツケを残さない。
3)新自由主義的に、市場に任せることこそ資本主義であり、自由主義である。
4)過去のケインズ政策によってイメージづけられた「無駄やばらまき」という思い込み。
主にこれらが上げられるのではないかと思います(どれもまともなマクロ経済学を学んでいればおかしい事がわかりますが)
さて、一つづつ、それについて反証していきましょう。
まず1)の既得権益の問題ですが、確かに一般入札制度があるにせよ、土木建築に携わる会社が、完全な市場原理ではない政府のお金によって利益を出すというのは、その通りでしょう。
それを既得権益と言ってしまえばそうなのですが、そもそも既得権益というのは、どのような形にせよ、また利益の大きい小さいに関わらず、私たち日本人は誰もが得ているものです。
例えば日本人であるというだけで、様々な国に渡航もできますし、個々の免許制度に関しても、免許を取得することによる既得権益は発生します。
言い換えれば、大なり小なり、私たちは既得権を得ているわけで、それが民主主義の根幹であるのです。
またマクロ的視点で言えば、公共事業を行う土木建築は、比較的低所得、低学歴であり、セーフティーネットという要素と、底辺層の引き上げによる中間層の拡充効果もあります。
むしろ、こうした需要を無くせば、生活保護な職業支援など様々な政府による支援が必要となり(それらは仕事をしていないので生産性がありません)、結果、それこそ無駄な財政出動を行うことになります。
また、需要がそこで生まれるということは、所得を生み、また消費を生みます。これら循環が経済を良くして行くのです。
さらにマクロ的観点で言えば、供給量を10として考えた場合、デフレ下では民間需要が10以下となります。
これを10以上にさせることで、デフレを脱却させていくわけですから、例えば民間需要が9であれば、1.1の政府需要で10・1となり、供給量を上回り、賃金の上昇と物価の上昇という好循環を作る事ができます。(8であれば2・1、逆に10以上であれば限りなく0に近づければ良いのです)
このようにして、そのときのインフレ率によって、政府がコントロールする理論こそ、ケインズ理論であり、経済の安定をはかる上で極めて重要であるわけです(機動的財政などとも言う)
それを2)のように、国の借金が増え続けると恐れていると、それこそGDPは縮小し、結果、税収も減り、借金と税収の差が乖離してしまいます。
問題なのは、まさにその乖離であって、借金が増えることが問題なのではないのです。
例えば、100万円の借金をしている者が、100万円の貯金を持ち、さらに働いて毎月50万円のフローがあれば、決して問題は起きないのと同様に、1000兆円借金があろうと、それ以上の貯金とフローがあれば、なんら問題は起きないということです。
ですから今後、借金が増え続けても、それ相当の貯金が増え続ければ何の問題もありません。
にも関わらず、財政が危ないと吹聴し、増税などで国民の可処分所得を減らして行くと、消費(GDPの6割は個人消費)は縮小し、より状況は悪化してしまうわけで、本末転倒なわけです。
またそこにインフレ率というものも加味しなければなりません。
例えば1980年の政府債務は約129兆円で、今の約10分の1ですが、ここにインフレ率を入れると、約7分の1となります。
言い換えれば、インフレは実質の債務を減らすということになり、逆にデフレは実質の債務を増やすことになります。
このように考えると、財政を健全化させるには、緩やかなインフレに持って行くことこそ正しいのです。
逆に橋本政権以降に行ってきた、政府の財政出動を削ると(緊縮財政)、需要が伸びず、デフレから抜け出せなどころか、実質の債務も増えてしまうのです。
今やるべき事は、借金など気にせず、デフレ脱却のために、思いきった財政出動をするというのが正しいの道なのです。
次に3)ですが、新自由主義の台頭は、サッチャー政権、レーガン政権で行われた、行き過ぎたケインズ政策によって生まれた過度のインフレを自由競争によって退治したことで、よりその力を増しました。
また同時に、ケインズは駄目で、新自由主義が良いという、勧善懲悪のように、ケインズが悪として扱われるようなったのです(本来は、状況によって変えれば良いのであって、どちらかが悪と決めつける問題ではないのですが)
そしてそれらは経済学者を中心としてメディアや政治家に伝播し、国民に植え付けられてきたのです。
また、新自由主義の理屈は極めて分かりやすく、ミクロレベルで生活している国民の心を奪ったと言うのもあるでしょうし、マルクス主義のような、計画経済への反発もその考えを助長させたように思います。
しかし、実際の平等主義、自由主義というのは、元々の強きが勝ち、元々の弱きは負けるという明確な構図であり、純粋な競争原理による平等などではなかったのです。
その結果、格差は拡大し、さらにその格差によってその勝敗も明確になっていったのです(誰もが同じ資金を持っているのならば競争もありなのかもしれませんが、実際は違いますし、ましてそれが国境を超えるのであれば余計です)
そして最後に勝つのは当然、一部の大資本家であり、後の物は皆貧乏という結末になるわけです(ウォール街とアメリカを見れば一目瞭然)
これが競争原理の行き着く所であることが明確な以上、私たち国民は、本来そこと戦わなければならないのです。
にもかかわらず自由競争のもと、自らの首を絞め続けているのですから、笑うに笑えません。
そして最後の4)ですが、先に述べたように、1970年以降、推進されていたケインズ政策による行き過ぎたインフレによって、バブル景気が起き、またそれが弾けた負の遺産への恐怖心が未だに国民に根強く残っているのではないでしょうか。
確かに当時は、明らかに行き過ぎた財政出動があり、それによって供給不足が生じ、過度なインフレへと陥りました。しかし、私はだからといってケインズ主義を否定することには全く繋がらないと思うのです。
なぜならケインズはあくまで「市場の安定の為に財政出動をすべきだ」と言っているわけで、闇雲に財政出動をしろと言っているわけではないのです。
先に示したような民間需要の足りない分を補う程度で良いのです。また、民間の需要が加熱すれば、財政出動を抑え、また金融を引き締めたり、増税などの手段で冷やせば良いだけなのです。
このコントロールこそ大事だとケインズは言っているわけで、過去に日本がバブルを引き起こしたようなやり方を推奨しているわけではないのです。
このように考えれば、今こそがケインズ政策の一番の出番であることは明白なのです。
にも関わらず、相も変わらずグローバルやらスーパーグロバールやら、イノヴェーションやらという言葉が踊り、そこに国民が踊らされているわけですから、どうなることやらです、、、
