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地方創世の愚


そもそも拙者は、地方創世なる言葉が気に食わないのだが、それはさておき、現在、政府が目指す、地方経済の活性化とは、本当に地方のため、日本のためになるのだろうか?という疑義から始めたい。



まず一点目は、今行われている政府の地方への振興金補助だ。例えば「ふるさと割」であったりとか、「クーポン」であったりとかがその代表例だろう。




しかし、これらはあくまで短期的な対処療法でしかない。仮にふるさと割で気に入ったものがあっても、そうそう毎月、毎年買う人はいないはずで、この政策の欠点は、長期的なビジョンが欠落していることにある。



また、クーポンなども期限内は、ある程度の効果が見込まれても、その期限が過ぎればそれで終わりだ。さらにクーポンを対象にしない人々(店舗)には何も恩恵がないので、かなりの不平等も生む。



これらを考慮すれば、正直、かなり不毛な政策であると言える。



さて、二点目は石破大臣や橋下徹が口にする「競争」である。



そもそも、現在は需要不足(とくに地方は供給不足も同時に起きている)が深刻な状況だ。




その需要が無い状態で地方同士を競争させれば、パイの奪い合いが起き、勝ち組、負け組が明確にでてしまう。


結果、勝った自治体の住む人間は、サービスをきちっと受けられ(また税徴収も減り)、その逆に負けた地方自治体に住む人間は、サービスが低下し、税徴収もあがる。



このように、同じ日本に住んでいながら、そのような格差を政府が生みだし、煽ることは、健全だろうか?



むしろ、その格差を容認するとなれば、首都圏<地方になるような、地方優位な格差でなければならないだろう。



にもかかわらず政府は、TPPだ、農協解体だ!と同時進行させているわけで、これは「自己責任だ」とか、「経済合理性上、しかたない」だとか言って、地方を切り捨てるのと同義である。






さて、ここからは地域をどのようにして再生させていくべきかを論じたい。



第一に、市場原理に基づく経済合理性において、地方を優位にさせる政策を政府が行うことだ。


具体的には、地方に高速道路などのインフラを造り、無料化(もしくは低価格)する。


また、地方の消費と投資を促すために、消費税、法人税、所得税を組み合わせた減税を行い、同時に首都圏は増税させる。



これによって、海外に拠点を移していた企業や首都圏に拠点をおいている企業が、地方に経済合理性を求めて移動しやすくする。


さらに、地方議員を増やし、(一票の格差を拡大させ)地方の優位性を政治面でもサポートさせる。



さらに、原油など、輸送コストによって不利が生じる地方への補助。また、農林水産業を営む人たちへの、安定的な所得保障を行う。



財源は、ひとまず首都圏の増税と、国債の発行で賄う。



そして、地方が再生されていくにつれ、それらの優遇を徐々に減らしていく、という流れだ。




そもそもデフレ脱却には、需要の促進が必至だ。とくに地方の需要促進こそ、マクロとしてデフレ脱却するには欠かせない。


そのためには、多少無理を承知で減税、国債発行(財政出動)を行う必要があるのだ。



このような観点を持ってこそ、本当の意味での地方創世ならびに、デフレ脱却になるのではないだろうか。


我が国にイスラム国のテロを糾弾する資格はあるのか?


イスラム国の出現は、アメリカの横暴の結果、というのは周知の事実である。


にも関わらず、その根本を作ったアメリカが、イスラム国のテロリズムを糾弾するというのは、なんとも幼稚的に思えてならない。



しかしもっと幼稚で滑稽なのは、そのアメリカに追従し、「イスラム国は、テロは悪だ!」とろくずっぽ考えもせずに、糾弾している我が国のマスメディア(国民も含め)だ。




また、野党第一党である民主党は、「民主主義を守れ!」などと小児的病に冒されているようで、もはや救いようがない状態に陥っている。



そもそも、民主主義というのは、全体主義と表裏一体である。



ナチズムやファシズムも、元はと言えば過剰な民主主義によって生まれたものでもあるし、経済においても、過剰な資本主義の台頭によって計画経済(共産主義)が生まれたともいえる。




要するに、アメリカの民主主義の押し付けは、裏を返せば、アメリカの国益(過剰な資本主義)そのものであり、その反発(裏面)の結果が、イスラム原理主義という全体主義とナショナリズムであると考えれば、昨今起きている現状は、至極自然な現象といえるのだ。




にも関わらず、多くの国民やメディアは、民主化を礼賛し、一方でイスラム国のテロを悪であると決めつけているわけだから、その考えこそ全体主義そのものではないか、と笑い出したくなる。





きっとイスラム国の人間からしてみれば、アメリカ(及び追従する国家)こそがテロリストであり、アメリカこそが現状破壊者(左翼)であると思っているに違いない。



もちろん、拙者はテロリズムを肯定しているわけではない。



しかし、それらが表裏一体となっている以上、過剰な資本主義(グローバリズム)や過剰な民主主義を抑制しない限り、根本的解決にはならない、と言っているのである。




民主主義とはなにか、資本主義とはなにか、今一度、我が国民は考えるべきではないだろうか。

保守の弱点

キャピタリズム(資本主義)というのは、シュンペンターの言う革新によって、新たな需要と利権を生んで経済を発展させていく、というものが基本だ。


そう考えたとき、伝統の継承と維持を基軸に置く保守は、否応無しに資本主義と対立せざるをえなくなる。



しかし、その基本構造を変えてしまったのが、冷戦体制だ。本来、保守より左側だった資本主義よりも、さらに左側に社会主義という軸ができてしまい、それによって、社会主義から資本主義を守るのが保守である、という誤認が生じたのである。



そして保守は、本来の伝統の継承や現状の維持という目的を喪失し、革新という資本主義に飲み込まれてしまったのである。



しかし、なぜ保守は、こうも簡単に、本来の目的を喪失してしまったのだろうか。



そこには保守の弱点というべきものがある。



それは、福田恆存が述べたように、「保守とは態度」であり、イデオロギーからは一線を置くものであるという謬見が根底にあり、革新とのイデオロギー論争が出来なかったからではないだろうか。



確かに、福田恆存の言うように、保守とは態度であることに違いはないが、そういう態度を示すには、根底に思想がなければならない。



言い換えれば、保守とは、本来、その根底に主義(イデオロギー)が介在せざるをえなかったのだ。



しかし、保守は態度という抽象的なものにとどまり、明確な思想ないしは主義を主張することはなかった。



それに対し、ハイエクの自由主義やフリードマンの新自由主義は、明確な主義がある。



それは理性主義と言うべき、合理主義である。



ハイエクの言う、「市場の自動調整機能」というべきものこそ、人間の理性に基づくものであり、合理主義そのものの肯定である。(ハイエク自身は合理主義を否定していたらしいが)




そして、その理性主義は、大衆には、極めて説得力があった。「理屈」に合う、それこそが正しいのだと、大衆は思い込んだわけだ。




それに対し、保守は明確な理論武装をすることはできない。何と言っても、保守は態度なのだ。



しかし、そこに甘んじ、それ以上の論理性を追求してこなかったからこそ、保守は革新に飲み込まれたのだと、拙者は感じてならない。



では、真性保守の復活がもし叶うのならば、何が必要なのだろうか。



一つに、伝統文化の継承がなぜ必要なのか、を論理的に説明すること。



もう一つに、実践的(プラグマティック)な政治経済の利点を明確に説明すること。



最後に、革新的な経済への疑念と危険性を打ち出すこと。




この三つは最低でも論理的に説明する必要性があるだろう。



実際、これらを漠然と、いや、情緒的にしか説明してこなかったことこそに、保守の敗北があると拙者は思うのである。



と、同時に、もしもそれらを明確かつ論理的に説明することが可能であるのならば、保守は十分、復活する可能性があると思う。