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乙武氏を批判することはできない。
乙武氏が、5人の女性と不倫をしたと巷では騒がれ、批判されているようだが、私からすると、その批判はあまりにも稚拙に思える。
まず、その不倫が健常者と同等の扱いにおいて批判されている点だ。
しかし彼には腕も足もない。要するに彼は、自らマスターベーションすることができないのだ(もしかするとそういう方法もあるのかもしれないが、基本的には健常者と同じように気軽にできるとは想像できない)
言い換えると、乙武氏は、他者(主に女性)を介して以外に、性的処理を行うことができない。
さて、では妻とはどうであっただろうか。本人によると、「子どもが生まれ、母親のようになってしまった」と述べていることから、おそらく夫婦の性生活は無かったのだと推測できる。
また、これは彼が障害者であろうともなかろうとも、子どもを三人も育て、その中で男女の性生活を続けることの難しさは、誰もが知る所だろう。
さらに彼の場合、そういった行為に及ぶ前提において、押し倒すこともできなければ、自ら積極的にアプローチすることは肉体的にはかなり困難だ。
そう考えると、妻がある種、作業的にそういった準備を行っていたと考えられる。
もちろん、新婚のときはそれでも満足できただろう。しかし、そもそも女性は感情と性と快楽が密接に関わっている。
同じ相手に、常にその行為の前提で、作業的プロセスを踏むのは、かなり感情的にも厳しかったのではないだろうか。
また乙武氏自身も、そこに後ろめたさや惰性などの感情が芽生えてもおかしくない。
そのように考えれば、彼らの性生活が無くなってしまっても、なんら不思議なことではないように思える。
しかしそれは同時に、乙武氏は他の女性で、性処理をせざるを得ない状況を生んだとも言い換えられる。
これは妻が一番わかっていたことではないのか?
となると、乙武氏の不倫に関しても、妻は黙認していた可能性が高いだろう。
そこを踏まえた上での、妻の謝罪文であると私は思うのだ。
最後に、世間で彼らを批判している人に想像してほしい。
もしも貴方が乙武氏の身体であって、自らマスターベーションもできないのであれば。
もしもそういった夫とセックスレスになったとしたらどうか。
ただでさえ困難である良好な夫婦関係の継続に、そういった障害があるのだから、なおさら難しかったであろう。
それが想像出来れば、健常者である人間達が、彼らを安易に批判できないのではないだろうか。
まず、その不倫が健常者と同等の扱いにおいて批判されている点だ。
しかし彼には腕も足もない。要するに彼は、自らマスターベーションすることができないのだ(もしかするとそういう方法もあるのかもしれないが、基本的には健常者と同じように気軽にできるとは想像できない)
言い換えると、乙武氏は、他者(主に女性)を介して以外に、性的処理を行うことができない。
さて、では妻とはどうであっただろうか。本人によると、「子どもが生まれ、母親のようになってしまった」と述べていることから、おそらく夫婦の性生活は無かったのだと推測できる。
また、これは彼が障害者であろうともなかろうとも、子どもを三人も育て、その中で男女の性生活を続けることの難しさは、誰もが知る所だろう。
さらに彼の場合、そういった行為に及ぶ前提において、押し倒すこともできなければ、自ら積極的にアプローチすることは肉体的にはかなり困難だ。
そう考えると、妻がある種、作業的にそういった準備を行っていたと考えられる。
もちろん、新婚のときはそれでも満足できただろう。しかし、そもそも女性は感情と性と快楽が密接に関わっている。
同じ相手に、常にその行為の前提で、作業的プロセスを踏むのは、かなり感情的にも厳しかったのではないだろうか。
また乙武氏自身も、そこに後ろめたさや惰性などの感情が芽生えてもおかしくない。
そのように考えれば、彼らの性生活が無くなってしまっても、なんら不思議なことではないように思える。
しかしそれは同時に、乙武氏は他の女性で、性処理をせざるを得ない状況を生んだとも言い換えられる。
これは妻が一番わかっていたことではないのか?
となると、乙武氏の不倫に関しても、妻は黙認していた可能性が高いだろう。
そこを踏まえた上での、妻の謝罪文であると私は思うのだ。
最後に、世間で彼らを批判している人に想像してほしい。
もしも貴方が乙武氏の身体であって、自らマスターベーションもできないのであれば。
もしもそういった夫とセックスレスになったとしたらどうか。
ただでさえ困難である良好な夫婦関係の継続に、そういった障害があるのだから、なおさら難しかったであろう。
それが想像出来れば、健常者である人間達が、彼らを安易に批判できないのではないだろうか。
個人と国家と政府の関係
そもそも一般的に、国家と政府の違いというものが、どれだけ分かっているか、疑問に思えます。
むしろ、国家と政府を混同している人々(反安保、反原発に代表される方々など)も多いのではないでしょうか。
しかし、そもそも国家と政府というのは似て非なるものです。
国家とは、その字の如く、国民の家です。
また英語ではステイト、言い換えると「状態」「形態」を意味していますので、政府とは全く異なります。
では、政府とは何か?それはその国民の家たる国家の「状態」「形態」の維持、継承のために、尽力する機関なのです。
さて、民主主義国家において、その政府とはどのように決められるかと言えば、もちろん、選挙で決められるわけですが、その選挙に行くのは、当然、国民でなければなりません。
しかし、近年、過剰な権利社会、個人主義社会においては、選挙に行くのは、国の民ではなく、個人及び、個人の権利となってしまっているのが現状です。
では、そのようになってしまった場合、どうなるのでしょうか?
政府(この場合、政治家)は、その個人の意志を尊重しなければ、選挙で当選しません。
すると、政府は国家の維持、継承という大事な役目と、選挙のための個人の意志とを天秤に掛けざるを得なくなります。
個人←政府→国家
という構造になるのです。
もちろん、これは民主主義においての基本的構造であって、否定すべきものでもありません。
しかしながら、我が国の戦後思想(過度な個人主義)によって、個人の引っ張る力が増し、国家が蔑ろになりつつあります。
本来ならば、個人は、一定の公益、国益を踏まえた上で、政府を選ばなければなりません。
また、政府も、国家と個人のバランス(平衡)感覚を持つことが、民主主義が機能するためには必要なのです。
これらが機能してこそ、民主主義は健全な形として成り立つのです。
結論を申し上げますと、個人と国家は、そもそも二律背反(トレードオフ)であって、その平衡感覚をいかにして取って行けるかというのが、民主主義において、国民及び政府の一番大事なことなのです。
そのバランスを崩せば、国家(国益)を無視した政治(個人が強くなった場合)、又は、個人を無視した政治(国家が強くなった場合)という、国民国家の崩壊に繋がるのです。
西田昌二は、いつまで安倍を擁護するのか
西田昌二という政治家は、消費税などの部分で私とは違う意見もあるが、基本的思想において大きなズレはなかった。
しかしここ最近の彼はどうか?明らかに苦し紛れな発言が多いように感ずる。
それは安倍晋三、その男の影響であることは間違いないだろう。
安倍と西田は下野当時から懇意にしていた。その思想が極めて近かったからだろう。
しかし、ご存知の通り、今の安倍晋三は全くの別人と言っていいほど真逆な思想の持ち主だ。
もちろん、政治家となれば、状況に合わせ、ある程度の変化や過去の発言の変更、撤回は多いにあり得るだろう。
また、様々な意見をまとめる際に、妥協も必要だろう。
しかし、かといってその思想が真逆にまで変化するというのは、正直、理解に苦しむ。
下野当時の安倍晋三は、「瑞穂の国の資本主義」といい、アメリカ型の強欲な資本主義に警鐘を鳴らしていた。
また、家族、地域を基軸にした国家、さらには先人の誇りを守り、伝統精神を重んじるべきだと言っていた。
そして西田昌二もまた、その意見に全面的に賛同していた。
しかし現在は、
アメリカ型の強欲資本主義の象徴ともいえるべくTPPや規制緩和、イノベーションを推進し、
女性の活用で、母親を家庭から奪い取り、家庭崩壊を促進させ、
日韓合意で、ありもしない性奴隷を事実上認め、先人の誇りを傷つけ、
伝統精神を破壊する構造改革を推進させ、その権化とも言える橋下徹などという輩を持ち上げている。
そして、全てにおいて、ここまで真逆なことをしている安倍晋三に対し、本来ならば反旗を翻さなければならないにも関わらず、未だに西田昌二は金魚の糞とばかりに追従又は擁護しているというわけだ。
もちろん、西田昌二にとって、安倍は気が知れた友人なのだろう。
しかし政治は友達だから!という理由で左右されるべきではない。
たとえ友人でも、いや友人だからこそかもしれないが、「叱咤」「批判」しなければならないこともあるはずだ。
むしろ、今のまま、安倍追従を続ければ、自身の発言、思想の一貫性を完全に失うだろう。(むしろ既に失っているかもしれないが)
いい加減、西田昌二には、真正保守政治家としての誇りを取り戻して頂きたい。

