このブログの大前提である、主観と客観の違いに関わる話である。

 

 人間はすべからく主観的な生き物である。そのため、好き嫌いがある。食べ物にしても、異性の好みにしても、まさに、人の数だけ基準ができる。同じ人の中でも、状況によって好みが変わったりするので、もはやその基準の数は数えきれないといえる。

 

 そばが好きな人もいれば、ピザが好きな人もいる。鮒寿司が好きな人もいれば、クサヤが好きな人もいる。太った異性(同性)が嫌いな人がいれば、痩せた異性(同性)が嫌いな人もいる。

 

 日本が好きな人もいれば、日本が嫌いな人もいる。日本が台湾や朝鮮を併合して、インフラ、衛生、教育、経済、農業などの各方面で劇的に刷新をした客観的事実をみて、「素晴らしい」と評価する人もいれば、「許せない」と怒りを感じる人もいる。「朝鮮半島の食糧事情が劇的に改変されて、併合前と併合後では人口が二倍にまでなった」という事実をみて、日本は「素敵なことをした」と感じる人もいれば、「とんでもなくひどいことをした、人口などどんどん減らして餓死を放置するべきだった!日本帝国主義の罪である!」と怒りをあらわにする人もいる。

 

 客観的事実を変えることはできなくても、どんな意見をもつかはその人の自由である。他者がそれを強制的に変えることはできない。

 

 自分の周りの好き嫌いを見てもらえれば一目瞭然であるが、好き嫌いには最終的に理屈はない。ただ、好きであり、嫌いであるだけの話なのである。こってりラーメンが好きなのは、食べた瞬間にそれをうまいと感じたからで、そこに論理的な説明などありえない。職場の誰かを嫌いなのは、その人が生理的に合わないからであって、その人と相性が合う人もまたいるのであるから、それはただ、その人にとって合わないだけという事実以外はない。

 

 もちろん、好き嫌いという主観は個人にしか属さないものの、その個人にとっては何ものにも変えがたいほど大切なものである。だからこそ、その好き嫌いから派生する意見というものも、何人にも侵されることはないのである。

 

 しかしながら、事実を歪曲して捏造することはこれとまったく異なる。これははっきりいってルール違反であり、これを許したら、なんでもありの混沌しか残らない。嘘でもなんでもでっちあげて嫌いな人を抹殺することも簡単にできるし、大勢の人を騙して利益を得ることもできるようになる。

 

 つまり、自由な意見をもつことは許されても、事実を歪曲して捏造することは絶対に許されてはならないのである。許してもいいというのなら、そこにはまさに、秩序なき世界が広がることを許すということにほかならない。

 

 朝日新聞の慰安婦に関する捏造記事は、申し訳程度に英訳されているが、当然世界には拡散されていない。それどころか、検索で探し当てられないようにすら努力している状況である。

 

 左翼だろうが右翼だろうが、意見をもつのは自由であるのでそれをとやかくいうつもりは毛頭ないが、自分の意見を正当化するためにありもしない嘘をつき、事実を歪曲して捏造する朝日新聞をはじめとする日本のマスメディアや小中高大の左翼教師たち。これが、武士道を旨として、名こそ惜しけれと鍛え上げた日本の現状かと思うと、ただただ驚くしかない。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識