さて、いよいよこのブログを貫く本質の話をしたいと思う。主観と客観という言葉はもちろん昔からあるし、大抵の人は日常の中で使ったことがある言葉であるが、私の経験では、この言葉を強く意識している人はあまり見かけない。しかし私はこのブログで、この言葉をいささか強調して使いたい、というのもそうしなければブログの意味がないからであるが。
 ちなみに、この主観と客観は哲学を学ぶ人にも大切な言葉であるが、私は特に哲学を専門にしているわけでないので、あくまでも経験で培った知識と感性でこの言葉を使いたいと思う。

 結論から先に言おう。主観とは即ち「判断」であり、客観とはこれ「観察」のことである。だから?と思われるかもしれないが、この違いについて意識をしている人は私の経験上、極めて少ない。であるが故に、この二つを混同して生活している人が実に99%以上である。英語を使う必要もないが違いを際立たせるには外国語は有用であるので使わせてもらうが、「judgement(判断)」と「observation(観察)」は天と地ほどに違うものである。ところがなぜ多くの人はこの二つを混同するのか。それは、人はまず最初に、全員観察することから入るが、その観察の直後に判断をし、その間隔が驚く程短いからである。また、判断をすることがあまりにも当たり前すぎて、自分が判断をしているという明確な意識が全くないということもある。具体的な例を挙げよう。

 ここに一人の女性がいる。多くの人は、その人を観て(観察)、ほぼ数秒のうちに判断をする。すなわち、「優しそうだな、意地悪そうだな、美しいな、ブスだな」というものが判断である。ところが観察の観点でいうと、その人はただ、そういう女性というだけである。お気付きになられたであろうか。その人が美人かブスかというのは、観る人の判断にすぎず、それは観る人によって異なるものなのである。優しいか意地悪かもしかりである。客観的には、その女性はそういう目鼻立ちで、そういう顔をしているという事実があるに過ぎないのである。さらに踏み込んで言うと、

 客観的な美人もブスも優しい人も意地悪な人も存在せず、判断する側の人に取ってその人が主観的に美人でブスで優しくて意地悪なだけなのである。

 ここをさらっと流してもらうとまずいのでさらに踏み込んでいう。その女性はあなたにとって主観的に美しいだけで、その美しさはあなた個人にだけ属する価値観なのである。他の人にとっては全く、何の意味もない価値観で、たまたま同じ価値観を共有できた時は話も合って共感できるので幸運かもしれないが、そうでない場合は、ただそうであるだけのことなのである。「世の中に芸能人で美しいと持ち上げられる人がいるじゃないか、そういう人は客観的に美しいのではないか」と言う人がいるが、それはただ単純に、「比較的多くの人がたまたま主観的な価値観を共有いしているだけ」に過ぎないのである。ぶっちゃけた言い方をすると、「そうなんだよかったね」という話でそれ以上でもそれ以下でもない。

 観察とは、全ての価値判断を抜いたものであるため、全てのものはニュートラル(中立)であるということである。もし今、あなたがコーヒーを飲んでいるならば、今あなたが飲んでいるコーヒーは、美味しくもなく、また不味くもなく、ただ、そういうコーヒーであるというだけである。客観的に美味しいコーヒーなど、かつて史上に存在したこともなければ、今後現れることもあり得ないのである。ただし、主観的に美味しいコーヒーは人の数だけある。不味いコーヒーも同じことである。

 もともと全ての事象は中立であるにも関わらず、人はなぜ判断をするのか。それは人という全ての人が、自我をもつ存在だからである。誤解しないでいただきたいのは、自我は人である以上、必ずあるものである、否、人だからこそ自我があり、自我の無い人など、お釈迦様やキリストを含めあり得ないのである。ある女性を観て美しいと判断することは尊いし、素敵なことである。ただ、それはあくまでもそれを感じた人にのみ属する価値判断であり、他の人には関係のない話であるということである。

 ところが、多くの人は、この主観的判断を客観的事実であると錯覚している。だから、ある人がおいしい料理を食べたとき、他の人がそれが不味いと言った時などは驚きをもって反応する。その人に取っては「美味しい」という判断は徹底的にリアルであるため、それが客観的にはただ「そういう味である」というニュートラルな事実を忘れてしまう訳である。

 長くなると悪いので結論を言おう。主観的判断はあくまでも個人に属するものであり、客観的事実は万人が共有せざるを得ないものである。これこそが究極の真実であり、これ以上の真実はないというのが、筆者の主観的判断であるが、かなりの確信をもって、究極的に中立的な事実を述べていると思っている。ただ、判断というのは主観なので、私のこの判断も主観であることに変わりはない。

 私が主観的に、好きであろうが嫌いであろうが、美しいと思おうが汚いと思おうが、正しいと思おうが間違っていると思おうが、素晴らしいと思おうがくだらないと思おうが、その事象はただその事象であるというのが、客観的な事実なのである。ここに一つの花があるとすれば、その花はただそういう形でそういう色をして、そういう匂いを醸し出しているだけで、それが良いか悪いかは、感じる人それぞれだけに属する価値判断にすぎないのである。

 大急ぎで少しだけ付け加えると、だからこそ主観的判断は素晴らしい(主観的)のである。男女の関係で例えるなら、その人にとってその女性(男性)は、価値がある訳であるのだから。

 しかしながら、この主観と客観の意味の違いを間違えると、とんでもない悲劇(主観的判断ではあるが)が起きてしまう。

 長くなってしまったのでここで主観と客観の違いについての説明を終えたい。次回は、日韓の慰安婦の歴史問題について、この主観と客観の違いを明確にしながら分析と解説を加えたい。上記に述べた悲劇(主観的判断)についても解説する。今回も読んでいただき、ありがとうございます。

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