• 21 Feb
    • 韓国人スターターにみる平昌五輪の深い闇

       既に各方面から声が上がっている話である。平昌五輪で金メダルを獲得した小平奈緒選手も証言しているように、スターターが明らかに小日向選手の出場の時にタイミングをずらした。意図的かどうかは検証不可能であろうが、タイミングが大幅にずれたのは事実である。その上、変な音がしたために、思わず体が動いてしまったという。 青山繁晴氏も虎ノ門ニュースで指摘しているように、銀メダルを取った韓国人選手が絡んでいる話ではないであろう。しかし、南朝鮮の中で、明らかにドス黒い空気があったことは、憶測の域を出ないことではあるにせよ十分に考えられることである。 慰安婦の問題、歴史捏造の問題でも明らかなように、儒教を基調とする朝鮮の文化においては、「潔さ」や「名こそ惜しけれ」の「実」を重んじる文化はない。あるのは、徹底して表面を取り繕う「虚栄」の文化である。外見や表面の美しさ、体裁のみにこだわるその姿勢は、実に女性の6〜7割以上が整形をするという(一説ではさらに高い割合で)社会潮流となって現れてくる。中身はスカスカでも包みを美しく包装すればそれで良い訳である。 もちろん、日本でも最近はこうした「儒教傾向」をもつ人が増えているのも見逃せない客観的事実ではあるが。 いずれにせよ、目的を達成するためには手段を選ばず、捏造してでも、また相手を引き摺り下ろしてでも優位に立とうする文化であることを考えれば、今回の実に奇妙な女子500メートルのスターターと奇妙な音の意味が読み取れてくる。 いずれにせよ、そうした淀んだ空気の中でも金メダルをとられた小平選手には、敬意を感じるばかりである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 17 Feb
    • 法律よりも感情が優先される国(韓国・中国)

       盛り上がりを見せている平昌オリンピック。日本勢の活躍を期待したいところである。 その平昌オリンピックの会場の側に虚偽の慰安婦像が設置されていることは有名である。一人でも多くの外国人を洗脳して帰国してもらうつもりだと推測される。 ソウルにある日本大使館前、釜山にある日本総領事館前に設置された虚偽の慰安婦像は、南朝鮮(韓国)の法律に照らし合わせて道路交通法違反の設置物である。しかし、政治的な理由、つまりは主観的な感情的な理由によって撤去されずに放置されている。シナも南朝鮮も同じなのであるが、法治国家ではないので、政府の主観的な感情によって法律は次々と捻じ曲げられる。この理屈で言うと、人を殺しても感情的に許されるのであれば逮捕拘束されず、裁判にもかけられないということになる。また逆の言い方をすれば、何もしていなくても、つまり法律に違反していなくても逮捕拘束、裁判にかけられる可能性もあるということである。 つまり、なんでもありである。 こういう恐ろしい国を旅行する際は、冗談でもなんでもなく本当に気をつけなければいけない。ビジネスで進出するなどはっきり言って正気の沙汰ではない。もちろん、危険大好きで、投資したお金を全て捨てることに喜びを感じるのであれば、それは個人の自由なので側がとやかくいうことではないが。 とある欧米のスケーターが転んだことで、南朝鮮のメダル候補の選手が巻き込まれてしまい、メダル獲得に至らなかったことで、恐ろしい数の韓国人ストーカーがその選手のSNSを攻撃し、ついにその欧米の選手は恐怖のあまりSNSのアカウントを閉鎖したという報道を見た。 欧米人にとって、シナも朝鮮も日本も全部同じという関心の低さが一般的であるが、こういう事象が続くようであれば、やはりシナや朝鮮の異常性と日本との違いを意識せざるを得なくなるであろう。 スターバックス取締役でアメリカのNBCの解説者が、日本が韓国のお手本となったという歴史的事実を述べただけで、併合時代を美化したとして恐ろしいほどのストーカー攻撃を受けている。 主観性の度合いが恐ろしく高く、感情的で、客観性(事実を直視できる力)の度合いが恐ろしいほど低い儒教文化(シナ、朝鮮)の人々は、すぐにストーカーとなって身の毛もよだつ攻撃を繰り返す。 ただ、日本も気をつけなければならないのは、欧米で紹介されてしまった(Stupeur et Tremblements)ように、ブラック企業のパワーハラスメントが横行していることである。これは映画化もされているので、ご興味のある方は見られることをお勧めする。ベルギーの女性が実体験として出版したものである。 パワハラはまさしく大陸半島系の儒教文化であり、これを肩書きやら年齢差、あるいは性別の違いを利用して繰り返す人たちは、日本文化の武士道精神に照らし合わせても「恥ずべきこと」である認識をもった方がいい。これはあくまで、筆者の主観的意見ではあるが。 日本は儒教の国ではなく、武士道精神と「もののあわれ」を基調とした大和魂の国であることを、今一度客観的に認識する必要がある。 平昌オリンピックで、多くの外国人選手や日本人選手、外国からきている観戦客が不快な思いをすることなく穏やかに終了することを祈るばかりである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 13 Feb
    • 100回繰り返しても嘘は嘘(慰安婦、南京)

       冬季オリンピックで盛り上がっている南朝鮮(韓国)。無事に大会が終わることを、老婆心ながら祈るばかりである。無事にと言うのは、選手や外国からの来客が不快で危険な思いをなるべくすることなく、という意味であるが。 さて、その南朝鮮。慰安婦の問題で、完全な嘘を「歴史的真実」と銘打って世界中で日本の評価を貶めるべく、日々涙ぐましい努力をしていることは周知のとおりである。その努力の成果もあり、また日本国内の反日勢力(大手メディアや野党勢力)の協力もあり、それなりの成果を上げてきている。カリフォルニアでは、南京と慰安婦の問題で、先日謎の死を遂げた反日シナ系市長の協力のもと、市公認の慰安婦像を実現している。世界中に虚偽の慰安婦像を打ち立て続ける南朝鮮。南京の虚偽の虐殺を広めることに必死なシナ共産党と二人三脚の日々である。 南朝鮮やシナ共産党の戦略方針は実は実に単純で、「嘘も100回つけば真実になる」というコンセプトである。証拠がなかろうが、証言が全て破綻していようが、そんなことは関係なく、ものともせず、ひたすらに嘘を世界中に垂れ流して日本のイメージを貶めるべく邁進している。 しかし、南朝鮮やシナ共産党にとって残念ながら、真実は必ず明らかになるのが、これまた歴史の法則なのである。時間がかかることはあっても、真実が完全に闇に葬り去られることはない。実に不思議なのであるが、これもまた地球の法則なのかもしれない。小さな動きとしても、必ず虚偽を暴くエネルギーは耐えることがない。 目先の利益のためなら平気で他者を陥れ、嘘をつき、責任をなすりつけ、プロパガンダを垂れ流す南朝鮮とシナ共産党。嘘を100回繰り返しても、真実を闇に葬り去ることはできないということに気づくのはいつの日であることか。 嘘は、たとえ100回繰り返したところで、真実にはなり得ない。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 10 Feb
    • 外国語で話すこと、日本語で話すこと

       外国語が話せることで得られるメリットはいくつかあるし、主観的な話にはなるが、外国語で外国人と話をできるようになると世界が一気に広がって面白い。しかし、結局大事なのは「何語を話す」かではなく、「何を話すか」なので、別に外国語を話しても話す内容が空疎である場合は、その相手と話す意味はあまりないというのが、筆者のスタンスである。要するに、外国語で話すことが「素晴らしい」とか「すごい」と言っているわけではなく、何を話すかの方が筆者にとっては価値がある。 そんな筆者の主観的価値観はどうでもいいとして、今回は外国語と日本語の性質の違いを簡単に考察してみたい。 英語やフランス語、ドイツ語などをみていて思うのは、本当にこれらの言葉はコミュニケーションを円滑にするための言語なんだなぁということである。お互いにお互いの意思をしっかりと伝え、理解するために進化した言葉と言える。まさに、「はじめにロゴスありき」の世界である。 方や日本語がどうかというと、この言語は本当に、「調和を重んじる言葉」である。英語などの外国語と違い、言語の持つ性質が、お互いに理解し合うことではなく、お互いに穏やかにいるためというものである。その場の和を保つために機能する言葉である。ゆえに、お互いの主張を張り合うための要素はない。日本語が動詞の活用で主格を特定できない言葉であるにも関わらず、主語を抜いて話をする傾向を持つのは、まさに、「わたし」という主格を明確にしたがらない日本文化そのものの性質を表していると言える。 西欧語においては、常に、「わたし」を明確にし、自他の違いをしっかりと認識することが何よりも重要である。西欧語の会話においては、常に、自他の違い、優劣などを明確にし、競争を前提とした意識が求められる。 ビジネスの場を考えると、ビジネスの持つ性質が競争である以上、西欧語の方が圧倒的に効率的である。日本の企業でも英語を社内での公用語としている企業がいて賛否両論であるが、筆者の意見では、コミュニケーションの円滑化を求めるのであれば、英語で話した方が圧倒的に意義はあると思う。日本語は、そもそも、ビジネスには不向きな言語である。 こう言う言い方をすると誤解を受けるかもしれないが、日本語はまさに、神代の時代の性質を受け継ぐ調和の言葉であり、競い合いや争いと対称の言語であり、ビジネスの世界ではマイナスの効果の方が多いと言える。この部分は筆者の意見が入っているので、賛否は別れるところであろうが。 徒然なるままに書いてみた。読者の方々はどのように感じられたか。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 05 Feb
    • 名護市長に辺野古容認派 渡具知氏が当選確実

       先ほど、件名の情報が飛び込んできた。 辺野古への米軍基地移設の話は、地元の沖縄の声を無視した形で、大阪や東京、あるいは南朝鮮や支那からの活動家により、強烈に反対されてきた。 しかしながら、我那覇真子氏のいう通り、地元のほとんどの住民が辺野古への移設を支持しているという現地は、地上波のマスメディアでは徹底して無視されてきた。 しかし、今回の選挙は、まさにそうしたマスメディアの主観的な情報操作、事実歪曲報道を覆すものであると言える。 本来であれば、米軍基地が全て日本軍の基地となり、日本軍により日本国の領土が防衛されるというのが筋あり、理想の形である。しかしながら現時点における国際情勢を見れば、米国との同盟、協力関係は様々な問題や不平等な状況を受け入れながらも維持していく方向が現実的であるというのが、筆者の主観的な意見である。 日米同盟が対等ではないというのは客観的事実ではあるが、現在、世界中を見渡して、米国と対等な同盟関係を結んでいる国は一つもない。どの国もある種従属的な関係を強いられているのは事実である。そして、善悪を通り越して、それが現実であることも、客観的に認識されるべきであろう。 支那やロシアと組むか、アメリカと組むか、それ以外の選択肢は、お花畑のサヨクの空理空論の世界をのぞいて、ありえない。 永世中立国を望む人は、実際の永世中立国スイスの軍事状況を客観的に見るべきであろう。 国際関係は、現実と理想とのせめぎ合いである。現実に流されるだけでもダメであろうし、理想に取り込まれてばかりでも意味がない。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 04 Feb
    • ”フランスで痴漢被害の話を出版した日本人女性の話”

      昨日の記事の元となったニュース動画である。ご興味のある方はご参考までに。https://www.francetvinfo.fr/societe/harcelement-sexuel/les-tchikans-agresseurs-sexuels-au-japon_2589320.html

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    • フランスで痴漢被害の話を出版した日本人女性の話

       先ほど、とあるフランス現地のニュースを見ていると、日本人女性でフランス在住の方が、日本の痴漢について告発する本を出版して取材を受けていた。 この話から認識できる客観的事実は以下の通りである。1). 日本では、電車の中で女性の体を触る性犯罪者が後をたたないこと。2).慰安婦の問題で性倫理的に日本を糾弾したがる西欧人がこの問題を取り上げることで、「日本=性犯罪の国」である印象を確立できること3).この日本人女性が実際に日本人かどうかが不明であること。4).この日本人女性が被害者であるかどうかは別として、この女性がフランスで出版した理由として、「日本社会では痴漢の話はタブーで話すことができないので敢えてフランスで出版した」と語っていること。5).実際、日本では痴漢を糾弾する動きもあり、4の話は客観的事実にそぐわないこと、日本でもこうした本を出版することは完全に可能であるにも関わらず、歪曲した事実をこの日本人女性(と思われる)がフランスで流していること。6).日本では実際に、大陸から流れ込んでいる亜流文化、「儒教」によって男尊女子の風潮があり、そうした流れの中にパワハラも存在すること。 筆者、常日頃から繰り返すように、日本文化に誇りを持っている。日本人であることが何よりも誇りである。そしてその根拠となる客観的事実は、日本文化の核をなすものが、「武士道」であり、「もののあわれ」であることである。  しかし同時に、日本社会に寄生虫のように巣食っている大陸半島から入り込んでいる亜流の「儒教文化」が企業や学校という要所要所に深い深い闇を落とし込んでいることも、客観的に認識している。 日本の企業で働いていると、まず目に入るのがこのパワハラであり、セクハラである。電車に乗れば痴漢の被害が後を絶たないのも、女性を見下し、性的対象としか見ていない男尊女卑の男性が日本には一定数いることも客観的事実である。 事実、企業などでは、こうしたことを匂わせる発言を平気でする会社員が山のようにいる。 皆、儒教に冒された人々である。 この女性が祖国を憎み、嘘までついて(上記の5の部分を参照)フランスで祖国を誹謗する活動をするのは、日本社会の闇を端的に表している。 痴漢などは間違いなく卑劣極まりない行為であるが、残念ながら日本で儒教文化に取り憑かれた人々は、女性を下とみなして電車などで卑劣極まりない行為を繰り返している。これもまた客観的事実である。 筆者はこのニュースを見て、心底、この日本社会から、亜流として寄生虫として巣食っている儒教文化を、意識的に排除していくことが、パワハラやセクハラという日本の闇をなくすための根本的な解決方法だと感じた。 年齢が上というだけで、組織の中で肩書きが上というだけで、男性だというだけで自分が優越していると感じている人は、間違いなく、儒教文化に冒されている。まずはその認識を広めることが、第一歩である。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 31 Jan
    • 「なぜ今憲法改正が必要なのか」という問いに対して

       政治意見は主観的なものなので、あまり突っ込んでも意味はないものの、日本という国を大切に思い、日本が真の独立国になってほしいという思いがある人にとっては、憲法改正をなぜするかという問いほど、愚かしいものはない。 72年以上も外国に押し付けられた憲法を維持し、その憲法には自分の国を自分で守ることはならぬと書いてある。そんな状況で出てくる問いは、「なぜ今変える」ではなく、「なぜ今の今まで変えることができなかった」である。 「なぜ今憲法改正が必要なのか」という問いを投げる人と、「なぜ今の今まで変えることができなかったのか」という問いを持つ人が話し合っても、議論は永遠に平行線に終わる。その理由は、両者は全く異なる異次元に住んでいるからである。 話し合いも大事だが、いつまでも考え方の違う人に合わせるというのは、日本が国際社会であなどりを受ける要因の一つでもある。政治は結局多数決なので、このままの憲法を維持しながら滅んでいくのも、多数の国民が憲法を変える方向に動くのも、全ては天の意思にも思えてならない。 憲法改正に本気で動き始めた安倍政権。マスメディアは今後いよいよ死に物狂いで潰しにかかるであろうが、はてさてどのような結果になるのか。まさしく、神のみぞ知る、である。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 24 Jan
    • 感覚(文化)の違いを理解することが国際関係を理解する第一歩

       大相撲が昨年来様々なスキャンダルやら問題で取り沙汰されている。そこにきてエジプト出身力士の1.無免許で2.追突事故を起こして3.虚偽の報告をするという、3段重ねの不祥事が発生した。 このことについて、連日マスメディアではワイドショーなどを通して散々に該当力士を罵倒しているが、見ていて思うのは本当にこの人たちも何も理解していないのだなぁということである。 このブログでも散々取り上げているが、エジプトは中東にある国である。アフリカや中南米と並んで比類なき主観性の度合いの高さを誇る地域である。その国からきた力士が、私生活でも色々常識外れだのなんだのと、常識がないかのようにマスメディアでは批判している。また今回の自動車トラブルでも、信じられないという反応で人格を否定している。 こちらからいえば、エジプト出身者がそういう行動をとることは織り込み済みなので、何ら驚きに当たらないということである。 中東の人々と少しでも触れ合えばすぐにわかることであるが、彼らには日本人と日本文化がもつ独特の倫理観、さらには思い遣りなどは最初から全然ない。それを承知していれば、今回の出来事は起こるべくして起きたことなのである。 小さな子供がコップの水をこぼして、目くじら立てて怒る大人があまりいないのは、子供というものはそういうミスをするものだという認識があるからである。客観的に子供というものを認識理解しているから怒る事も慌てる事もない。粛々と掃除をするだけである。また、そもそも子供がコップの水をこぼさないように最初から配慮するものである。 今回のエジプト人力士の行為は、まさに彼らの文化的背景を考えれば、当然起こる事であり、それを承知せずに受け入れている日本側(相撲協会、相撲部屋、日本社会etc)にこそ問題があると言える。 移民を入れるとはこういう事なのである。 価値観も感覚もまるで異なる人々を移民で受け入れるということは、今回のエジプト人力士の起こした事象を引き受けるということなのである。 それが良いか悪いかの「主観的判断」は個々人の価値判断による。私は個人的には、あまりにも感覚(文化)の違う人々が社会に入ると、それに対する適切な対処や予測をしていないのであれば、ひたすらに混沌の世界が生まれるだけであるという認識を持っている。しかし、立憲民主党や日本共産党、社民党や公明党などは、こういう客観的事実を無視して、ひたすら移民を受け入れようとするであろうし、それは彼らの主観的判断となるので、彼らが何らかの形で政権をとれば、日本はより混沌の渦へと引き込まれることになることが予想される。もちろん、自民党にもそういう人たちはいるので、そこは客観的に見なければならない。 国際関係を理解するとは、国際社会を構成する諸外国の人々が、日本人とはまるで異なる、別の惑星の生命体かとまごうばかりの異なる感覚のなかで生きていることを理解することに他ならない。その理解なくして、国際関係を語ることは不可能である。 支那大陸や朝鮮半島も然りである。今回の安倍総理の平昌オリンピック開会式への参加表明は、いたずらにかの国の人々を増長させ、日本に対する依存度をますます引き上げ、日本への「甘え」の構造をひたすらに強化することに他ならないというのが、筆者の客観的分析から導き出される主観的な結論である。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 23 Jan
    • 区別と差別

       般若心経の有名な一節に、「色即是空 空即是色」という箇所がある。 「色」とはすなわち自他という区別のある現生であり、「空」とはすなわち自他の区別なき一つの世界という解釈が一般的であるが、私たちは当然、この「色」の世界に日々を生きている。 そうであるが故に、男と女、日本人とその他の外国人、子供と大人、出身地の違い、言語の違い...etc.と無限の違いが出てくる。そして、その違いをもとに、私たちは日々「区別」しながら生活をしている。そしてそれは往々にして社会的な必要性からなされているものである。どうでもいい例えをいうのであれば、銭湯や更衣室が男女の性別で別れていることなどがあげられる。 銭湯が男女の性別で別れていることを「差別だ!」という人はまずいない。多くの人は常識の中で銭湯は男女の性別で区分けされるものであるという認識があるからである。しかし、この「区別」、「差別」と混同して使う人も非常に多いのが現実である。 筆者がこのブログを通して日本文化は、日本文化とその他の文化と識別できるほど際立って特異なものであることを指摘すると、聞く人の中にはそれを「差別」として捉える人がまま出てくるのである。客観性がないとそういう主観的結論になるのは理解できるので、私はそういう認識の誤りと遭遇しても特に気にすることはなくなったが、こういう誤解はまさしく、「客観性の度合いの低さ」からくるものである。 先日の記事で、アフリカ諸国の文化は主観性の度合いが高いため、シナ共産党の金による買収工作は非常に効果が高く、また日本が「思い遣り」を持って援助をしたところで、その真意はアフリカ諸国の人々に正確に伝わる可能性は低いと書いた。 これらは完全に「客観的な分析」であって「主観的な裁き」ではない。つまり、良い悪いや善悪を断じたものではなく、「ただそういう客観的事実がある」と示しただけである。 しかし、これを読む人は、この客観的情報に触れた後、「これはひどい、アフリカの人々への差別だ」という主観的結論を導いたりする。世の中の争いの大半は、こうした「客観的事実」と「主観的判断」との違いについて区別ができないことから感情的になり発生するものである。 筆者に言わせれば無茶苦茶な話であり、そうした主観的判断しかできない人々によって歴史上、魔女狩りを含めどれだけたくさんの人が殺されてきたかと考えると、いまだにそういう潮流がなくならないことに恐怖すら感じざるを得ない。 アフリカの人々と付き合うのも、中南米の人々と付き合うのも、中東の人々と付き合うのも、インドの人々と付き合うのも、東南アジアの人々と付き合うのも、東ヨーロッパの人々と付き合うのも、ロシアの人々と付き合うのも、支那大陸の人々と付き合うのも、朝鮮半島の人々と付き合うのも、完全に個人の自由である。 ただ、彼らの文化を「客観的に理解」しなければ、日本人と同じ感覚を持つ人々だと思い込んでお付き合いをすると、後々驚かなければいけないことが山のように起こるであろうし、場合によっては物的にもまた精神的にも何らかの代償を払うことになるかもしれないと、客観的に指摘しているだけである。 ちなみに個人的な話で恐縮だが、実は筆者はこうした世界中の人々と話をするのが「主観的に大好き」である。ただ、彼らが日本文化の感覚を持っていないことは先刻承知しているので、同じ行動や行為をすることを絶対に期待しないし、だからこそ、何か日本的価値基準から見て驚くことがあっても、冷静に対処できる。そこをしっかりと踏まえながら話をするので別に腹も立つこともあまりない。 客観的視点を持つとは、冷静に状況を観察し、分析し、適切な対処を取れることに繋がる。 そのためにも、客観的で適切な区別は必要であり、適切な区別は、主観的で偏見にまみれた「差別」とは全く異なるものである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 21 Jan
    • アフリカへ支援をすること

       先進国として、発展途上国に、有償無償、資金技術、有形無形などの違いを問わず支援をすることは国際社会において一つの責務となっている。困っている人を助けるのが人の道という、万国共通の倫理観なのであろう。 シナ共産党は随分昔、毛沢東が権力を握っていた時代からアフリカ大陸への投資や援助をしてきた。人民が食糧不足で餓死しているような状況でもアフリカへ食料を送っていた話は有名である。自国の民が餓死している中で食料を他国に送るというのは、人道的に素晴らしいという評価にはならないであろうが、毛沢東が明らかに意図と意思を持って世界外交戦略を展開していたことの証左である。 その成果もあり、アフリカ諸国は現在、ほぼほぼシナ共産党の思うがままに動く。連合国(国際連合)などの会議では、シナ共産党のいうとおり、右へ倣えである。 このブログでも何度も紹介しているように、アフリカ諸国の文化はおしなべて主観性の度合いが非常に高い。客観性がほとんどないため、公共心は日本人の基準から見ればありえないほど低い。そういう人々であるので、シナ共産党がお金をポンっと渡せば喜んで追随していく。実際、潤っているのは腐敗した政治家や官僚だけで、庶民は一切恩恵を受けていないからシナ共産党の人気はあまりないという指摘もあるが、実際アフリカの人々と話をすると、なかなかどうしてそうでもない。筆者が話した相手のほとんどが先進国に留学できるような富裕層であったことも一つの理由であるかもしれないが、話す人々のほとんどがシナ共産党の大ファンであった。 日本もまたアフリカ諸国に支援をしている。日本人の論客がよくいうように、日本の支援はシナ共産党や欧米諸国と違って心のこもった見返りを求めない本当の支援であるかどうかは実際疑問である。ODAはだいたい紐付きで、計画も全て日本側の都合が優先されるもので、現地では「ないよりはまし」という認識しかないという話もある。また、だいたいが有償支援なので、結局はアフリカ諸国にとって負担になるという指摘もある。 しかし、それよりも重要な問題は、日本がもしアフリカに無償で見返りを求めない支援をしたとしても、アフリカ諸国の人々は、日本人が受けるような「感謝」の気持ちを持つかどうかは、極めて疑問であるという点である。 「思い遣り文化」のある日本では、どんな人でも大抵は、相手の配慮に感謝をする感覚がある。その同じ感覚をアフリカ諸国の人々に求めることは極めて危険であるというのが今回の記事の核となるポイントとなる。 日本がいくら無償で見返りを求めない支援をしても、シナ共産党がそれをはるかに上回る実弾(金銭)や利権を渡せば、あっという間に日本への恩義を忘れてシナ共産党側を利する行動にうつるのが主観性の度合いの高い文化の人々の特徴である。 「義理を感じて信義を通す」など、日本人だけの美的倫理感情であることを忘れて世界に出ると、日本はまたもやたかられるだけたかられて終わりということになるだけの話である。 もちろん、それでいいというのなら、それはそれで一つの意見である。どうすべきかというのは、あくまで主観的な意見の問題なので、人によって変わるのは当然のことである。  言わずものがのことではあるが、例外のない規則はないように、きちんと恩義を感じて義理を通す人も主観性の度合いの高い文化圏にすむ人々の中にもいる。あくまでも「傾向」としての話であることを理解していただき、読んでいただきたい。 過去記事には発展途上国の政治状況、社会状況などに関しての記事もたくさんあるので、参照していただければ幸いである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 20 Jan
    • 中南米とアフリカ大陸と中東

       スペイン語がある程度人気のある言語である理由の一つは、中南米のほとんどの国が公用語としていることである。近年ではアメリカに違法に入国するメキシコ人が後を絶たないため、カリフォルニアやフロリダ、東部のシカゴでさえ場所によってはスペイン語しか聞こえてこないほどの状況である。そうしたことからアメリカでは英語に次ぐ言語はスペイン語となっている。 日本においてもスペイン語人気がある程度保たれるわけであるが、このスペイン語話者、話してみるとわかるのが凄まじいばかりの主観性の度合いの高さである。ちなみにこの傾向はポルトガル語を話すブラジル人についても見られる。 もちろん人にもよるし、そうではない人もいるが、自己主張の権化のような人がものすごく多いのは客観的事実である。 「俺が腹減ってんだから俺は食うんだ」と場所も状況も考えず主張する姿など、日常茶飯事に見受けられる。これはアフリカ大陸の方々にも同じ傾向が見られるし、中東でも見られる傾向である。 中東は石油の関係もあり中南米やアフリカ諸国とは少し豊さの点で違うが、それでも主観度合いの高さという点ではほぼ同じである。他にも、インド、東南アジア、東欧(東ヨーロッパ)、ロシア、南欧州でもやはり主観性の度合いの高さが観測される。 筆者もなんどもこうした地域の人々と話をする機会を持ったが、あまりの主観性の度合いの高さに正直疲れることが多かった。これは筆者の主観的気持ちの話なので、これが好きという人もいるし、それはそれでいいと思う。 ただ、こうした主観性の度合いの高さが社会の極度の不安定、経済発展の困難などの状況を導いているのは客観的事実である。 個人的な話で恐縮だが、筆者はフランス語を話すが、フランス語と驚くほど近く、簡単に習得できるスペイン語を学ぶ気にならないのは、こうした状況が大きな理由である。 果たして中南米やアフリカ諸国が客観的精神を文化に持つことができるかどうか。文化が長い長い時間をかけて醸成されるものであることを考えると、その道のりは決して楽ではないとも思われる。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 18 Jan
    • 国破れて山河あり

       筆者は、自分なりにではあるが、日本国をこの上なく愛している。日本国のためであれば、できうる限りのことをしたいと、ほのかではあるが常に考え続けている。 もちろん、これは筆者の主観的感情であり、筆者のみに属する話である。読者の方々には全くもって関係ない話である。 主観は個人に属し、客観は万人に属する。筆者のつくった数少ない格言であり、このブログの背骨とも言える考えである。 さて、そんな日本国も、かの大東亜戦争で敗れ、その後ソ連や共産主義者の思うがままに荒らされてきた。日教組や自治労が大手を振って跋扈する世の中となり、挙げ句の果てには悪夢とも言える民主党政権の成立まで目の当たりせざるを得なかった。国破れるとはこのことかと、呆然とする思いであった。 そんな中でも、2012年、奇跡とも言える安倍政権の再来をみた。消費増税という売国官僚の悪夢も実現したものの、大幅な金融緩和の効果もあり、日本経済は史上最大の好景気を実現している。外交においても、安倍政権という国益重視の政権により、迷走することなく現在を迎えている。魑魅魍魎の蠢く国際社会において、日本がまさしく先進国としてイニシアティブを取れるのも、安倍総理という存在なくしてはあり得なかった。 ここで筆者が思ったのは、表題にあげた「国破れて山河あり」という言葉である。この言葉を筆者は以下のように訳した。 つまり、国は破れることあろうとも、山河はそこに残り続ける。そこに残り続けた山河には、八百万の神々が常に生き続けてる。山河が残り続ける限り、八百万の神々は生き続け、この国を導く。 2012年の安倍政権の誕生は、まさに奇跡であった。八百万の神々の存在を、筆者この時ほど感じたことはない。 目前に迫る日銀人事を前に、改めてそう思うのである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 17 Jan
    • 儒教が阻害するのはコミュニケーション

       海外と日本とを比較すると出てくる違いは数えきれないが、今日は特に、日本社会に寄生虫として入り込み、曲がりなりにも亜流の「文化的要素」ともなってしまっている「儒教」の持つ側面について見てみたい。 海外に出た日本人が感じる日本とその他の国との大きな違いは「空気の軽さ」であるが、これは「思い遣りの有る無し」とともに、「儒教的価値観」の有る無しにも大きく関係している。 儒教文化は基本的に「年齢」や「肩書き(地位)」の差を利用した階級差を築くことである。欧米には「年齢差」による上下関係はあまりない。しかし「肩書き(地位)」の違いによる上下関係は当然欧米にも存在する。しかしこの上下関係によってパワハラが横行する可能性は、日本に比べるとやはり「少ない」と言わざるを得ないのは、立場や権限が上のものが立場や権限においてより立場が低いものに対して「有無を言わせぬ態度」を取ることは、文化的にあり得ないからである。儒教が加わると、これに「年齢」の要素が加わり、若い人、あるいは地位の低い人たちには実に疲れる状況が生まれる。 片方が非敬語で一方的に「◯◯をしとけ」と命令したり、年齢が上、あるいは地位肩書きが上の側がそれらが下の人々に反論を一切許さず強圧的に話をすることは、欧米ではまずあまりない。そもそも欧米言語には「敬語がない」ので当然であるが、結果最終的に上下下達の命令になるとしても、そこには何らかの「コミュニケーション」がある。立場の弱い側も、自分たちの考えをのべる余地はあると言うことである。 一方で、大陸や半島の儒教文化に汚染された日本の企業社会の人々は、ひたすらに理不尽な態度で立場の弱い側に一方的な命令の伝達を強圧的な態度で繰り返す。のみならず、会話の端々で立場の弱い側の人権や人格を踏みにじるような言い方や表現をふんだんに用いる。それに対する立場の弱い側の反論は一切許さない。つまり、「コミュニーケーション」の欠如である。 これがいかに人間同士の関係を考えたときに「異常」なことであるか。そうした状況がどれほど立場の弱い人々に甚大なストレスを与えるか。そうした状況によってブラック企業での「自殺」が発生することは、当たり前のことである。また、追い詰められる人々は生きることになんの楽しみもてず、退廃的な空気を生み出す。 これこそが、カオスな外国をして「天国」と日本人の若い人たちに思わせてしまう最大の要因なのである。 そもそも、会社の中で、年齢差や肩書きを利用して「言い返せぬこと」を当然として相手を侮辱したり罵倒したり追い詰めたりすることは、人として最低の行為であると言う認識がないこと自体、儒教に侵されていることの証左である。 武士道の根幹精神は、「名こそ惜しけれ」である。これは、要するに、もっとも大切なものは名誉であり、その名誉を汚すようなことは決してしてはならないと言う日本的土壌が生み出した高い倫理観なのである。そうした中で、弱きを助けて強気をくじくという倫理観が育まれる。日本にはその精神文化が確実に定着しているが、儒教文化に汚染されすぎるとこの面が一気に交代し、大陸や半島の人々のように振る舞い始める。そしてコミュニケーション障害の年配者や肩書きの上級のものでオフィスは汚染され、若者は苦痛の中で理不尽な侮辱に耐えなければいけない状況が延々と生み出され続ける。 立場の弱い人を権力を利用して侮辱したり罵倒するなど、筆者の個人的感情ではあるが、人間のクズのやることである。 人間関係は縦ではなく、横である。天皇陛下のような特別なご存在は抜いて、日本はもともと一君万民の文化である。一天の君の前では人は全て平等であるという、実に特殊な文化は、戦後民主主義という魔物によってさらに後退している。最近流行っているアドラー心理学は、まさにこの「横の関係」を忘れた人々に対する警鐘に他ならないと考えるのは、筆者だけではあるまい。 また次回の主題となるが、日本にこの儒教が根付かず、本流の文化が「武士道」や「もののあわれ」であったことこそが、かの「明治維新の奇跡」を生み出した根本原因である。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 15 Jan
    • マスコミの意見と国民の意思

       昔から、マスメディアは国民の意見を反映する機関という認識があった。力のない一人一人の国民の総意をマスメディアが代弁するという構図は、マスメディア自身が自負してきたものであった。それゆえに、自分たちのことを第三の権力とも位置付けてきた。 確かに、そういう時代もあったであろう。しかし、今では完全にその構図の逆をいっている。 毎日新聞が、以前、何故若者が安倍政権を支持するのかということで疑問を提示し、ついにわからないまま、「安倍政権では株価が高いから、若者は株価が高ければ政権を支持するのだ」と、わかったようなわからないような結論を出していた。 株価が高いというのは景気がいいということである。そうなれば就職率も良くなり安倍政権を学生を中心とする若者が支持するというのは、別に完全に検討ハズレというわけではない。しかし、当然ながらこの稚拙な分析は十分ではない。 全ての若者がというわけではないが、若者の多くが安倍政権を支持しているのは、安倍政権が純粋に国家国益、つまりは国民のための政治をしているからである。経済政策も然りであるが、これは外交政策や歴史認識にも話は及ぶ。地上波のマスメディアが自分たちの主観的意見を正当化するために事実を歪曲しても、支那共産党や南朝鮮政府の異常なまでの日本に対する敵意と反日政策にうんざりしている日本人はまことに多い。そしてこうした若者が増えたのも、インターネットにより真実の情報収拾が一般的に可能となったからである。 この決定的な要素を認めなければ、わかったようなわからないような結論しか毎日新聞が導き出せないのは当然である。 支那大陸や朝鮮半島での真実を隠して日本の悪口を書き立てていればお金儲けをできたのは、すでに過去の話である。 この傾向は、世界中に見られるもので、アメリカでもやはり、トランプ大統領を叩きに叩いたマスメディアの戦略が裏目に出て、叩けば叩くほどトランプ大統領の人気が高まっていたのは周知の事実である。 フランスではルペン大統領候補に対するバッシングがトランプ叩きのレベルをさらに上回っていた。アメリカでのフォックスニュースや日本での産経新聞のような存在すらない完全なるルペン叩きの効果もあり、伸び悩んだルペン候補は落選した。しかし、その中でもあれほどの得票率(33%以上)を得たのは、やはりこれまでの常識では考えられないものであった。何しろ、ほぼ全マスコミが完全に反ルペン報道しかしない中で得票率の3分の1以上を得たのは、新しい時代の到来を予感させるに十分なものであった。 マスメディアは、日本だけではなく、アメリカでもドイツでもフランスでも、「自分たちがエリートで、考える力のない頭の悪い国民を誘導するのだ」という奢りがあった。今、その奢りが通用しない世界に突入しているのである。国民がインターネットを通して客観的事実に触れ、ものを考え、マスメディアの無茶苦茶な歪曲報道を見抜く時代に入っている。 インターネットのさらなる普及と進化により、マスメディアが国民を欺いてきた時代は完全に終わりを迎える。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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    • 左翼系知識人の狂気

       本来、主観的思想によって人間性は決定されるものではない。しかし不思議なことに、左翼系知識人に多く見られる傾向として人格が破綻している人が多いのは何故なのか。 井上ひさし氏という戦後民主主義のチャンピオンのような護憲派、親韓国、親中国の作家が、家庭で奥さんをめちゃくちゃに殴っていた話が有名になっている。人の命やら人権やらの大切さを訴える人に限って実は誰よりも人権に対する配慮がなかったりする証左である。 また、先日の「そこまで言って委員会」という番組内で、慰安婦の問題に関し、田嶋陽子氏が見せた客観的事実を頑として受け入れない姿勢は、こうした左翼的知識人が、以下の概念により活動していることを浮き彫りにした。つまり、 主観的結論(日本を断罪する)が先にあるために、それに沿った都合の良い客観的事実を作り出す。そして、その事実が正しいか間違っているかには関心がなく、自分たちの主観的結論を正当化するためには事実を歪曲することを厭わない。 朝日新聞などはその典型的な新聞である。2013年にこれ以上国内では逃げられないと観念したのか、突如慰安婦の強制連行を歪曲された事実として報道したことを認めた。しかし、肝心の海外への情報発信は2013年以来5年間、逃げたままである。これほど報道機関としての誠実さ、責任感にかけた新聞が、日本を誇る左翼系の大新聞として君臨しているのである。 井上ひさし氏、田嶋陽子氏、そして朝日新聞。何が何でも自分たちの理想や思想を正当化するためには、客観的事実を歪曲することを厭わない傾向。これこそが、戦後民主主義が生み出した左翼系知識人たちの狂気といえるであろう。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 14 Jan
    • 支那大陸でお金儲けをするということ

       先ほどこんな記事を見つけた。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180114-00000012-asahi-int シナ共産党の制裁を恐れた外資系企業が客観的事実を歪曲したシナ共産党の暴力行為に次々と屈服しているという記事である。 そもそも、儒教文化にまみれ切った国でビジネスを行うことがどれほど危険なことであるか。通常の経営学では「文化」という要素を無視して「効率」と「生産性」のみしか注目しないのでこうした問題は必然的に発生する。 日本の数多くの企業が経済産業省(旧通商産業省)の無責任極まりない支那大陸進出奨励策に乗って支那大陸に進出して行ったが、トヨタなどの大企業を除いては、中小企業の多くが身ぐるみ剥がされてほうほうの体で逃げ戻ってきた。これは、シナ共産党の支配体制という政治制度の問題というよりも、支那大陸と朝鮮半島を支配し続ける儒教文化を正確に理解していなかったことにより生じた話である。 「約束を守らない」「嘘をつく」「利益の為なら手段を選ばない」「法律も時々によって自由に変えられる」これらは全て、主観的な批判ではなく、単なる「客観的な事実」である。もちろん、こういう客観的な要素は法律の部分を除いては日本でもまま見受けられることであるが、その頻度がまるで違う。支那大陸においては日常茶飯事なのである。しかも、国家権力であるシナ共産党政府による主導によって行われる為、力の弱い外国人など吹けば飛ばされるような存在でしかない。 筆者も資本主義を主観的に認める立場なのでお金儲けを否定する気持ちはサラサラないが、客観的要素、つまり「文化的要素」を無視して外国へビジネスに出かけるのは、もし痛い目にあっても構わないというのなら別であるが、そうでないならば、それはやはり「自殺行為」である。 マリオネットグループの謝罪している姿は、まさにそのことを物語っている。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 11 Jan
    • 慰安婦問題が解決しない重要な理由

       先だって文在寅という南朝鮮(韓国)の大統領が日韓合意が慰安婦問題を解決しないという声明を公式に出した。国家間で取り決めた条約や合意を政権が変わるたびに、まるで靴でも履き替えるかのように簡単に反故にするのは未成熟で稚拙な国家であることの証左に過ぎない。 それはさておき、慰安婦問題は南朝鮮側の必死な努力により、永遠に続くかのような様相を呈している。まあそもそも、完全なる嘘話を根拠にされて問題とされたこの話、オバマ民主党のアメリカ政権の強烈な圧力により強制的に締結させられた日韓合意である。日本側としてはこの問題自体が茶番であることを世界に明示して一切の謝罪と賠償をしないことを公言することこそ、客観的事実に即した正道であるが、それを阻むいくつかの要素がある。 あまりにもたくさんの要素があるので今回はその要素の一つに焦点を当てる。 慰安婦問題に解決の糸口が見出せない理由、それは、 元慰安婦と名乗る老婆たちの証言が、完全に嘘デタラメで、客観的な証拠が何一つないこと、つまり、被害者を名乗る老婆たちが単なる詐欺師であることを指摘しないことにある。  他にも様々理由はあるが、特に重要なのはこの一点である。実は南朝鮮(韓国)側には吉田証言など、とっくの昔に崩壊してしまった証拠以外は一切の決め手がない。つまり「何も証拠がない」状況である。そんな中で唯一の拠り所は、この被害者を自称する老婆たちの証言だけである。ところがこれら老婆の証言は、既に全てが論理破綻、もしくは実証性がゼロであることが客観的に完璧に証明されている。それらの調査を全て無視して強弁に被害者の証言を垂れ流しているのが南朝鮮(韓国)の実態なのである。 つまり、全ての拠り所が「嘘証言」なのである。 そのことを理解しているとある地上波のコメンテーターは、「被害者とされる女性」が、、、という言い方をしていた。普通に聞いていたら聞き流すところであるが、これはつまり、「老婆たちが被害者と主張しているだけ」であることをしっかりと認知していることを表明しているのである。つまり、「被害者の方」と、「被害者とされる方」では意味が全然違うのである。こうしたコメンテーターが少なからず日本の地上波にもいることは、せめてもの救いである。 兎にも角にも、日本政府は現状を打破する第一歩として、元慰安婦を名乗る老婆たちの証言が嘘であることをはっきりと証拠と照らし合わせながら世界に向けて発信しなければならない。慰安婦問題がいつまでも解決しない根本的な理由はそこにある。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 08 Jan
    • ”戦後日本人の失ったもの”Part 2

       さて、前回の記事に引き続き、話を続けてみたい。 この話は他の話と同様、いくつかの角度から観察することができる。今回はそのいくつかの視点を抽出して紹介してみたい。 その前に、注目すべきことは「戦前の日本からの移民との比較」である。ご存知の方も多いと思うが、戦前の日本は、白人の欧米諸国と肩を並べる唯一の有色人種の先進国とはいえ、今よりも貧しかった。そのため、南米のペルーやブラジル、北米のアメリカやカナダへ多くの移民が出た。日本政府の国策としての後押しもあり、誠に多くの同胞が苦しい中外国で生活をしていたのである。 この時代に、筆者が前回書いたような日本人の日本人による日本人に対する陰湿で陰険な扱いはない。もちろん「ない」と言い切ることは難しいが、少なくとも「一般的な傾向」としてそれを見ることはない。その理由を筆者は、『当時の日本人は、貧しくとも日本人であることの誇りがあった』からであると分析している。また、貧しいが故に互いに助け合う必要があった。こうした側面も見逃すことはできない。 では何故、「日本人であることの誇りがないこと」が、陰湿な同胞同士の潰し合い罵り合いいがみ合いに繋がるのか。  まず、海外に出ると真っ先に感じるのは、「日本人とその他の外国人との感覚の決定的な違い」である。外国人には「思い遣り」がない。このことは既に何度も言及してきたので、よく分からない方は過去記事を参照願いたい。 日本人には思い遣りがあるが、外国人には思い遣りがない。優しい外国人は町中に溢れているが、思い遣りのある外国人は一人もいない。ちなみにこれは文化にその要素が完全に含まれていないからであって遺伝的な欠陥ではない。肌の色にかかわらず、日本で生まれて日本の土壌で育てば、思い遣りの感覚は自然と身につくからである。 日本は世界に稀な「思い遣り」の感覚を文化で誕生させてしまった。それが故に、日本社会を一歩出て生活をすると、この思い遣り感覚の欠落により様々な戸惑いやストレスを受けることになる。まず、思い遣りがない外国人には相手の立場に立った視点で物事を見ることができない。海外にいる日本人であるあるの話では、友達の現地人(外国人)にパーティーに誘われたものの、言葉も不自由なためその場にいる人たちと話をすることができない、誘ってくれた人もずっと側に居てくれる訳ではなく、自分の好きなように動き回るので、結局会場の片隅で居心地の悪い、心細い思いをして終わるというものである。 この状況をまるっきり逆に置き換えてみよう。もし日本語のあまりできない外国人が日本にいて、日本人の友達にパーティーに誘われたとする。誘った日本人は言葉の不自由な外国人を放置することはまずない。その他の日本人も様々な方法でその言葉の不自由な外国人に構い、むしろその外国人が鬱陶しいと思いかねないほどのケアをするであろう。いやむしろ、パーティーでその外国人の面倒を見きれないと思えば、むしろ誘わないことがその外国人にも不要なストレスを与えず、自分も無理をせずに終わるということで、誘うという行為には及ばない。 これほどまでの思い遣りも、外国に行くとそれがゼロであり、日本人同士だけでそれを適用するという状況になる。そしてこれが、日本人をして他の日本人を「鬱陶しい」とか「面倒くさい」と思わせることなのである。 他の全ての外国人には単純な優しさはあっても複雑な思い遣りはない。だからはっきり言って、彼らと付き合うことは「楽(らく)」なのである。一々一つ一つ言わなければ通じないという煩雑さはあるものの、嫌なことは嫌と言えばいいし、「相手の立場に立って物をみる客観性」などは絶対に求められない。要するにものすごく「シンプル」なのである。好きは好き、嫌いは嫌いで成立している社会なので、高い犯罪率などのお釣りはくるが、それでも圧倒的に軽い空気がそこには流れている。こうした空気の中で同胞である日本人に対してだけは、「ダブルスタンダード」で「思い遣り文化」を適用させなければいけないのは、仲の良い相手なら別であるが、そうでない場合は、単に「煩わしい」だけである。 これが、日本人をして日本人を敬遠させる一つの理由。 そして次に、これこそが本題であるが、現代、戦後の日本人には「日本人としての誇り」がないということである。これは読者の方もよくご存知のように、戦後の教育による。学校でもテレビでも新聞でも、「日本は戦中戦前と、極悪非道の悪い国だった」と、客観的事実と全く適合しない完全なる嘘を押し込まれてきたためである。そのため、日本国内でも、朝日新聞やら毎日新聞、NHKや各民放局、小中高大の左翼教師が跋扈している。しかし日本国内では海外におけるほどの弊害が出ないのは、構成メンバーほぼほぼ全員日本人であるためである。外国人と比較することもほぼないので、それほどのハレーションは起こらない。 しかし、外国では事情はまるで異なる。99%以上の構成メンバーが日本人以外の外国人であり、日本独自の思い遣りはない。その上、日本人にだけは自らの文化と伝統、歴史に対する誇りを禁じられている。日本は素晴らしい国かどうかは主観的な判断によるものの、ほとんどの外国人にとって自国の文化と歴史、アイデンティティーを誇ることは「当たり前の当たり前の当たり前のこと」である。そんな中、自国をボロクソにいう教育を受け、思い遣りのない外国人の社会に入ってしまった日本人の行き着く先は、「日本人は鬱陶しい、私は日本人だけど、日本は嫌いだ」というメンタリティーに行き着くしかないのも仕方のないことであろう。 そうなると話は簡単で、気の合う一部の日本人以外は、「鬱陶しい日本人」となり、排除の対象となる。おまけに、外国人としての日本人を相手にしてくれる人も、その日本人の手に入れられる職も限られることになり、交友関係も仕事も、「少ないパイ」の奪い合いということになる。その結果が、日本人同士の海外における潰し合いといがみ合いとなって現れるのである。 また、日本文化の中に入り込んだ寄生虫文化の「儒教」も状況を悪化させるのを手伝う。しょうもない年齢差の上下関係やら男尊女卑という腐りきった儒教文化も押し付けられれば、そんなものは一切存在しない欧米などの外国社会の中では、日本人はただただ鬱陶しい存在でしかなくなる。 こうした様々な要素が絡み合って、海外では戦後、日本人移民、日本人海外在住者の間でのみるも醜い潰し合いが発生するのである。 あくまでも筆者の分析なので、異論反論はあるであろうが、一つの客観的な事実からくる分析として読んでもらえれば幸いである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識    国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 04 Jan
    • 戦後日本人の失ったもの

       海外にいる日本人がなぜにかくも同胞である日本人に対して陰湿で陰険であるのか。これは長らく筆者にとっての分析のテーマであった。   日本人とその他の外国人と分けられるほど、日本の文化が特殊であるのは、「もののあわれ」や「武士道」、また、これは司馬遼太郎氏が特に指摘しているが、文化の大転換期であった明治維新で自国の文化を自ら捨てざるをえなかった「明治の悲しみ」といった日本人の心を形成する精神的土台があったからであること。また、それら一連の日本の文化の特殊性が、「思い遣り」という、これまた世界に二つと見ることのない特殊な精神風土を生み出したこと。 こうしたことを見つけ出してなお解けなかったのは、上記に書いた日本人の陰湿性であった。これもまた文化なのか。 筆者が度々強調するように、日本文化には亜流といえる大陸半島系の「儒教文化」が寄生虫のように社会の端々にはびこっている。この儒教文化は特に企業社会などで、「パワハラ」や「セクハラ」、あるいは学校などの「いじめ」という形でその姿を表す。 海外にいて顕著になるのは日本人の陰湿性である。これは日本国内にいるよりもはるかに顕著に現れている。筆者は何度も、醜すぎるほどの日本人同士の罵り合い、足の引っ張り合いを見聞きしてきた。これらは上記の「儒教文化」のみでは説明ができない。それは、儒教文化を本流、本質とするシナ人や朝鮮人の方々は、概して海外において、一般論ではあるが、同胞同士互いに「助け合う」からである。 足を引っ張り合い、潰し合い、いがみ合うのは、海外では日本人の特徴なのである。他の外国人にこの傾向は見られない。もちろん、個人的な好き嫌いでいがみ合う例はあるが、日本人が日本人を極度に嫌い、日本人が日本人を陥れるようなことは、他の外国人のコミュニティーでは一般的には見られないのである。 長く思案し、分析した結果ようやく見えてきたのは、日本人がこうした醜態を海外で特に晒すのは、「思い遣り文化」などの特殊さが外国では異質に変形することもあるが、本質的には、戦後の日本人が「日本人であることの誇り」を失ったことによることである。こうしたことに気づいたのは、海外生活を始めてしばらくしてからのことであった。 次回もこの話を続けたい。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識国際政治・外交 ブログランキングへ

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