主観と客観の回で詳しく述べたが、客観の定義について、少し補足をしたい。

 主観とはあくまでも個人による判断や評価であり、客観とは事象そのものをそうした評価や判断を抜いて観察することである。と同時に、客観には以下の定義も含まれる。それは、

 主観的な視点を離れて、他者の、それも複数の視点にたって物事を見るということである。

 この場合も、判断や評価はない。何故ならば、相手の立場に立って物事を見ようとする行為は、実質的には物理的に不可能であるが、そうする努力をすることにより、より多くの視点の可能性を取り入れようとする、極めて観察的な行為だからであり、評価や判断の行為ではないからである。

 こういうことをすれば、こうしようとしている人間にとってはこの可能性がある、ということを分析する行為なのである。前回にあげた思い遣りの例をとると、

 「ああ、この人は目が見えないんだな。横断歩道を渡ろうとしている。今の時間は車の量が多いし、この横断歩道は結構距離が長いんだよな。声をかけて手を引いてあげればより安全に渡れるかもしれないな。だけど、この人は杖をついて一生懸命自分の力で街を歩こうとしている。だとすれば、もしここで俺が声をかけたら、他人を煩わせたと思って彼にとってはある種の苦痛になるかもしれない。だったら何かあったらいつでも側にいて手を差し伸べられる距離にいて、それでいて何も声をかけず、黙って見守っているのが、この人に変な気苦労をかけない方法だな。」というような分析になる。
 これは完全に判断、評価(良い悪い、美しい醜い、正しい間違っている)という価値判断ではなく、相手の主観的な気持ちを単純に客観的に分析しているだけの、客観的観察である。

 その後もちろん、観察者は実際に目の見えない方を見守ったりするが、これは確かに主観的行為であるが、あくまでも客観的観察分析の上での、自分の主観(好みや欲求)を排した行為である。ここに、単純なる主観的行為との差がある。好きなものを食べる、好みの女性に関心を示すなどの行為とは、一線を画すのである。つまり、自我の、主観的な欲求とはことなる動機が、行動(主観)の原点になっているということである。

 他者、相手の立場にたってものを観る「思い遣り」が客観的であるのは、この為である。そこに自らの主観的(利己的)な意図はほとんどない。

 ちなみに蛇足ではあるが、日本以外の外国人にこうした思い遣りの感覚は、本当にない。悪気なく、自然にない。日本人は島国にいて外国人と交わる機会がものすごく少ない為につい、同じ人間なんだからそういう気持ちはあるはずだと思うのだが、外国に住んでぶちあたるのは、この感覚が完全に欠落した社会にいるという大きな苦痛である。ここから先は筆者の感想だが、外国で外国人の男性と結婚した日本人女性の大半が、十年もすると離婚して本当に帰りたがるという話を聞くと、

 ああ、この「優しさ(主観的)」と「思い遣り(客観的)」の違いについて理解しないまま勢いだけで結婚すると、こうなるんだなぁ、と、つくづく思うものである。

 今回は、客観という言葉について、最初の説明を補うつもりで書かせていただいた。

 今回も読んでいただき、ありがとうございます。

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