正義(主観)ではなく公平(客観)を求めて
  • 01Sep
    • 自由な意見を持つことと、事実を歪曲して捏造することの違い

       このブログの大前提である、主観と客観の違いに関わる話である。 人間はすべからく主観的な生き物である。そのため、好き嫌いがある。食べ物にしても、異性の好みにしても、まさに、人の数だけ基準ができる。同じ人の中でも、状況によって好みが変わったりするので、もはやその基準の数は数えきれないといえる。 そばが好きな人もいれば、ピザが好きな人もいる。鮒寿司が好きな人もいれば、クサヤが好きな人もいる。太った異性(同性)が嫌いな人がいれば、痩せた異性(同性)が嫌いな人もいる。 日本が好きな人もいれば、日本が嫌いな人もいる。日本が台湾や朝鮮を併合して、インフラ、衛生、教育、経済、農業などの各方面で劇的に刷新をした客観的事実をみて、「素晴らしい」と評価する人もいれば、「許せない」と怒りを感じる人もいる。「朝鮮半島の食糧事情が劇的に改変されて、併合前と併合後では人口が二倍にまでなった」という事実をみて、日本は「素敵なことをした」と感じる人もいれば、「とんでもなくひどいことをした、人口などどんどん減らして餓死を放置するべきだった!日本帝国主義の罪である!」と怒りをあらわにする人もいる。 客観的事実を変えることはできなくても、どんな意見をもつかはその人の自由である。他者がそれを強制的に変えることはできない。 自分の周りの好き嫌いを見てもらえれば一目瞭然であるが、好き嫌いには最終的に理屈はない。ただ、好きであり、嫌いであるだけの話なのである。こってりラーメンが好きなのは、食べた瞬間にそれをうまいと感じたからで、そこに論理的な説明などありえない。職場の誰かを嫌いなのは、その人が生理的に合わないからであって、その人と相性が合う人もまたいるのであるから、それはただ、その人にとって合わないだけという事実以外はない。 もちろん、好き嫌いという主観は個人にしか属さないものの、その個人にとっては何ものにも変えがたいほど大切なものである。だからこそ、その好き嫌いから派生する意見というものも、何人にも侵されることはないのである。 しかしながら、事実を歪曲して捏造することはこれとまったく異なる。これははっきりいってルール違反であり、これを許したら、なんでもありの混沌しか残らない。嘘でもなんでもでっちあげて嫌いな人を抹殺することも簡単にできるし、大勢の人を騙して利益を得ることもできるようになる。 つまり、自由な意見をもつことは許されても、事実を歪曲して捏造することは絶対に許されてはならないのである。許してもいいというのなら、そこにはまさに、秩序なき世界が広がることを許すということにほかならない。 朝日新聞の慰安婦に関する捏造記事は、申し訳程度に英訳されているが、当然世界には拡散されていない。それどころか、検索で探し当てられないようにすら努力している状況である。 左翼だろうが右翼だろうが、意見をもつのは自由であるのでそれをとやかくいうつもりは毛頭ないが、自分の意見を正当化するためにありもしない嘘をつき、事実を歪曲して捏造する朝日新聞をはじめとする日本のマスメディアや小中高大の左翼教師たち。これが、武士道を旨として、名こそ惜しけれと鍛え上げた日本の現状かと思うと、ただただ驚くしかない。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識   

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  • 26Aug
    • 慰安婦問題の捏造記事を世界中に拡散した朝日新聞

       このブログをよまれる読者は当然ご存知の話である。 いまだに英語で世界中に訂正記事を積極的に出すそぶりも見せない。 そのおかげで、世界中のマスコミ、学究機関では、慰安婦の性奴隷は既成事実となっている。 朝日新聞は申し訳程度に日本語を英訳したものを以下のサイトに載せているが、もちろん、これは世界に拡散されていない。 https://www.asahi.com/articles/SDI201408213563.html 慰安婦の問題で世界で非難された場合は、朝日の劣悪な実態を説明した上で、この申し訳程度の英訳をみせることをオススメしたい。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

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    • 日本に二大政党制が根付かない理由

       G7など、先進国と呼ばれる国をみると、多少のばらつきはあるものの、アメリカやイギリスなどでは二大政党制がある程度確立している。もちろん、伝統的に二大政党とみなされた党以外も議席数を伸ばしたりすることはあるし、これは固定的なものではない。しかし、基本的には、二つの大きな政党により、政権交代がなされる傾向はある。 ここで注目される言葉は「憲政の常道」という言葉になるが、こちらは、憲政史研究家の倉山満氏のご著作に詳しいので興味のある方はご参考に。 さて、二大政党制。戦前の日本では、政友会と民政党などにわかれて現代のイギリスやアメリカに近い形で政権交代などが行われてきたが、戦後の日本においてそれは絶望的なまでに不可能となった。過去において社会党などがある程度の勢力を維持しつつも、政権担当能力は皆無であり、あくまでも万年野党の座を維持、また自らそれを望んでいたとさえいえる実態がある。 いざ、マスメディアによる政変ともいえる2009年の民主党政権誕生により、どのような形になったかというと、国家政策の二大柱ともいえる、経済政策と外交政策において史上最低ともいえる政権運営を進め、ついには国を滅ぼすかというほどのていをなしてしまった。 この経験をもって、日本では二大政党制は不可能であるとの印象が強く残ってしまったが、そもそも、なぜこのようなことになるのか。戦前との違いはなんなのか。 簡単にいって、これは日本の野党に、「国家意識をもった政党」が存在しないからである。国益もなく、愛国心もなく、異形ともいえる「戦後民主主義思想」をもった人たちが、国家を導く政権担当能力などあるはずがないのである。 英国にしろ米国にしろ、政策に思想、意見の違いこそあれ、国家を解体し、外国に利益を売り渡すことをよしと(少なくともおおっぴらに)する人はまずいない。保守であれ革新であれ、国家と国土と国民をまもるべく軍隊の存在を否定するものはいないし、話し合いの通じない相手をまえにして、自国のみに一方的に話し合いのみを押し付けるような狂気ももたない。 右であろうと左であろうと、最低限のリアリズムを持ち合わせているのである。国家の尊厳というものを理解しているのである。 しかるに日本の野党勢力(立憲民主党やら共産党やら)をみると、最低限のリアリズムを持ち合わせていない。最終的に、外国が攻めてきたら殺されればいいじゃないかというかのような体たらくである。 もちろん、政権担当能力があるとされる自民党とて例外ではない。現在は、経済政策と外交政策を理解できる安倍総理がトップにいるからこそなんとかなっているが、これが、石破やら岸田やら小泉やら野田聖子やらという経済、外交オンチがトップに立ったらと思うと、正直背筋が凍る。 こども保険など、幼稚園児以下の発想であるが、これを東大卒エリートの財務官僚に言われるままに推し進める小泉進次郎のようなポピュリスト政治家はまことに危険であるというしかない。戦前の陸海軍のエリートが私利私欲と立身出世のみで舵取りをし、政治家がいいなりになったことを彷彿とさせる状況である。 筆者がこうかくのは、別に個人的に安倍総理が好きだからという理由でもなんでもなく、彼がマクロ経済を理解し、また国際関係、パワーバランスを理解できるからこそ彼が政権担当であることに納得できるからというだけの話である。消費増税など、狂った政策がまだ進行中であるし、外交でも予断をゆるさない状況には変わりがない。 最低限のリアリズムの欠落した政治家がなんと多いことか。このことこそが、日本に二大政党制が根付かない最大の理由であるというのが、筆者の分析である。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

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  • 11Aug
    • カナダとサウジアラビアの仁義なき戦い

       カナダ政府の外相が、サウジアラビアの人権にかかわる問題を非難したことにより両国の緊張が高まっている。 サウジアラビア政府は、カナダに留学しているサウジアラビアの学生をすべて帰国もしくは他の国への留学へ切り替える措置をしているという。 それに対してカナダ政府も語調を弱めることなく、当初の立場を一貫している。 サウジアラビアは、イスラム教スンニ派の国である。イスラムの戒律に厳格で、宗教の聖典であるコーランに即した法体系を維持している。イスラム教では、女性は肌を見せてはならないなどの規則がある。そうした傾向から、女性の人権が男性よりも著しく制限されているのは客観的事実である。 これを「良い」とみるか、「悪い」と見るかは、個々人の社会的、文化的、家庭的違い、あるいは個性にもよるのであまり意味はない。  蛇足ながら筆者の個人的主観を述べるならば、これは当然「悪いこと」であり、女性はすべからく男性と対等であるべき(主観意見)というものになる。しかしこれは、筆者の個人的な主観意見なので、ここでは特に重要ではない。 重要なのはあいも変わらず「客観的事実」であり、これを見ていくことがこのブログの目的である。 こうした宗教的な戒律を理由に女性の人権を制限しているサウジアラビアを非難しているカナダという国は、世界でも屈指の、自称ではあるが、「人権大国」であり、カナダ人の大半を占める人々がいわゆる「リベラル」と呼ばれる人権派である。 だいぶ昔の記事でも書いたが、筆者はこういうカナダ人を、さしずめ「正義の味方カナディアン」と呼んだりしている。 この自称ではあるが、正義の味方、人権の守護神の国、カナダはどういう国なのか。客観的な実態としてどういう国かというと、北米に住む原住民、アメリカンインディアン(ネイティブアメリカンともいう)という人種に対して、隣国のアメリカや南半球のオーストラリア、中南米のラテンアメリカ諸国と同様、苛烈なまでの差別をしている。 もちろん、公式には差別はないし、社会保障手当も支給しているが、実態をこの目でみた筆者からすればとんでもないペテンである。 まず、先住民にはつける仕事がほぼない。教育レベルも極端に低い。カナダ北部には先住民居住区があるが、そこに住む女性などは、性的ハラスメントはもちろん、強姦されたり殺害されたりすることが日常茶飯事である。しかも、これは公にはされていないが、ほとんどが現地に駐在する白人警察官によってなされているので犯人が捕まる見込みがまずない。調査すらされないことがほとんどである。とある州では州議会でこのことに関する調査を州政府が拒否するほどである。やばすぎて手をつけられないというのが実態である。 一例をあげると、後ろ手に縛られて後頭部から頭を撃ち抜かれた女性が、「自殺」として処理されるなど当たり前のことである。 ここで読者に注意願いたいのは、筆者は現在、主観的に判断、つまり裁いているわけではなく、客観的事実を述べているにすぎない。ただ、カナダは実態としてこういう国であると紹介しているだけで、それを善悪の視点で判断するのは個々人に関わる話である。私がここでとやかくいうことではない。 ここで客観的に言えることは、人権問題で批判されるサウジアラビアも、批判しているカナダも、共に、人権に関しては深い深い闇を抱えた国であるということである。どちらが良くてどちらが悪いという話はここでは一切していない。 読者の方々はこれをどうご覧になるであろうか。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

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  • 29Jul
    • インパール作戦はいたるところでー消費増税を巡ってー

       インパール作戦は、無謀な計画、指揮、命令の元、大勢の兵士が餓死などで命を落とした史上稀に見る最悪な作戦として知られる。インパール作戦は、理不尽で、無意味で、無駄で、多大な犠牲を強いる作戦やら経営方針の代名詞となった。 平成30年の今日、世界はもちろん、日本中がインパール作戦で満ち溢れている。ブラック企業とよばれる悪質な企業では日々、インパール作戦が行われ、パワハラやセクハラを介しながら大勢の立場の弱い人間を苦しめている。 官公庁から民間企業、小中高大という教育機関、すべてにおいてインパール作戦だらけといっても過言ではあるまい。 企業規模ならその企業が潰れるか、従業員が四散することで終止符をうてるが、国家経営となると話は違う。 景気回復前の消費増税がいかに日本経済に打撃を与え、多くの人を苦しみの底に追い落とすことか。デフレ下での消費増税、あるいは増税などは、まさにインパール作戦そのものといえる。 本物のインパール作戦は、牟田口という無能なエリート中将が、河辺というこれまた無能な中将とのエリート同士の馴れ合いで、最後は「牟田口の気持ちを汲んでやりたい」という、到底考えられない理由によって、戦死者だけでも2万6千人を超える犠牲者を出すという大惨事を招いた。もちろん、この二人はこのことについて責任など、死んだところでとれるものではない。 財務省のプライドと信仰だけによって、あからさまに日本国が危機に陥る消費増税の推進。これが現代のインパール作戦と言わずしてなんというのか。 その、昔の陸海軍のように、権限強大で無能なエリート集団の財務省に媚びて、それを後押しする小泉進次郎や石破茂、岸田といった自民党政治家、完全にまるめこまれて操り人形になった元民主党の野田元総理。山積する課題を全て無視して、もりかけ問題で遊んでいる野党。サンデーモーニングやニュース23、報道ステーションといった反日報道番組の後押し。 インパール作戦が実行される要素はこの現代においてもごまんとあるわけである。 筆者はこの大元の原因を、儒教文化に見出している。上下関係を軸に意味不明で理不尽な階級社会を作り出す儒教文化こそ、インパール作戦の温床なのである。儒教文化については過去記事にいくつかあるのでご覧いただきたい。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 

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  • 28Jul
    • 戦後生まれの日本人メディア職員の異常な反日傾向と、戦前生まれの日本人の心意気

       先だって韓国でくらす102歳の日本人女性の話がNHKのとある番組で紹介された。 戦前に朝鮮人と結婚し、戦後、結婚相手と子供とともに韓国へ渡り様々な苦労を経て力強く生き抜く姿を写していた。時折入るNHKならではの反日、あるいは侮日的なナレーションを耳障りに思いつつも、戦後韓国人と結婚して朝鮮半島で暮らす多くの日本人女性の苦労をみた。 その番組の最後の方で、声の質から若い女性と思われるNHKの女性インタビュアーが、「日本人として生まれた後悔はありますか」と口走った。 日本人として生まれた後悔とは一体どういう後悔なのか。日本人として生まれたことが恥であると思ってなければ口から飛び出してこない言葉である。 この言葉に対して、婦人はおもわず強い反応でこういった、 「日本人として生まれた後悔って??あなたなにをいっているんですか!日本人としての凛としたものを持って生きてきたんですよ!日本人として生まれた後悔なんてあなた、、、、!どこにいても日本人として毅然としていきているんです」と絶句しながら、「そんな質問をするあなたは大丈夫ですか??」といった言葉を話された。 一言一句は筆者のうる覚えなので正確であるとはいえないが、概要においては上記の言葉を発せられた。 よくぞこのシーンがカットされなかったとおもったほどである。 「日本は悪い国だった、善良な朝鮮人の国を植民地支配した悪の帝国だった」。こんな洗脳教育を受けた若い世代のNHK職員(あるいは下請けのNHKエンタープライズ職員か)だからこそいえてしまう、情けない質問である。 これに対して、「あなた気は確かですか??」といわんばかりの態度で毅然とその質問を退けた老婦人は、まことに、大和撫子であった。 婦人は、「アメリカ人に生まれればよかったとか、韓国人にうまれればよかったなどと思ったことは一度もなく、常に日本人として誇りを持って生きてきた」という内容の言葉で締めくくられた。 ご興味ある方はなんとか探してこの番組をご覧いただきたい。 その時代を生き抜いた真実の歴史をしる人と、戦後に反日侮日の洗脳教育を受けて狂ってしまった若者との違いが、明確に浮き彫りにされたシーンであった。 ぜひ見ていただきたいシーンである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識  

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  • 26Jul
    • 安全保障に関して日本の左翼の主張をわかりやすくすると

       毎回堅苦しく書くことが不評なので、今回はフランクに書くようにしてみたい。 朝日新聞や毎日新聞、日本共産党や立憲民主党などの野党の主張はものすごく単純である。  「何があっても話し合いで解決し、絶対に武力をつかわないこと」 基本的に話し合いというのは、相手があって成立するものである。わかりやすくいうと、相手もまた話し合う意思がある場合に成立することである。  相手に話し合う意思がなく、暴力、あるいは謀略によってこちら側を襲ってきた場合、話し合うことができるかというと、当然できない。ナイフをもって襲ってくる相手に話しかけることはできるものの、ただ立っていたら当然刺されるので、身を守る行動に移らなければならない。 この時、相手の腕をつかんで捻じ曲げたり、あるいは相手のナイフを持つ手を叩いたりすることも起きうるが、これらは全て、正当防衛と言う名の「暴力」となるが、いかなる暴力も否定して話し合いを自らに強制する以上、日本の左翼の主張を受け入れるなら、当然最後には、「抵抗せずに刺されるしかない」。 軍隊とは外(国外)に対する暴力に対処するための自衛暴力であり、警察とは内(国内)に対する暴力に対処するための自衛暴力である。組織と目的は違えど、本質的な目的は同じである。 外に対する暴力にたいして暴力で防御することを完全否定するならば、内に対する暴力に対しても当然、暴力で防御することはできない。できるというならそれは二枚舌である。 つまり、暴力を使用しての国防を否定するならば、暴力を使用しての自己防衛も当然否定される。 簡単にいうと、上記にあげた「完全話し合い論者」は、暴漢に襲われようが、殺されそうになろうが、強姦されそうになろうが、警察に頼ることは絶対にできない。ましてや個人的に抵抗することもできない。抵抗することはすなわち、話し合いを捨てて暴力に頼ることであり、それは彼らの常日頃の強い主張と相容れない。 殴られながら、刺されながら、蹴られながら、あるいは強姦されながら、「話し合いましょう!」と叫び続けるのが、彼らの主張するところである。 周囲にいる人も彼らを助けることはできない。助けるには暴力により、攻撃するものを抑えなければいけないので、これは彼らの望むところではないからである。 私が個人的に、主観的に左翼を見て不愉快なのは、自分たちのみにこの怪奇な「思想」を適用せず、日本国全体に適用しようとするところである。 拉致被害者も実は、こうした極めて異様な「完全話し合い論者」の存在故に拉致されてきたし、いまだに戻ることができないのが実態なのである。話し合いの通じない相手に対してひたすら話し合いで臨むのであるから、拉致被害者がかくも長く半世紀近くに渡り拉致されたままという異常な事態になる。 敵は本能寺にあり。 話し合いの一切通じない外国よりも危険なのは、実は、そうした「相手を見ずに話し合いを強要してくる日本の左翼」にほかならないのである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

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  • 22Jul
    • 賄賂の横行する儒教文化

       支那や朝鮮といった儒教文化圏、アフリカ、中南米、中東、東ヨーロッパ、ロシア、インド、東南アジアといった、主観性の度合いの極めて高い地域においては、賄賂文化が頻繁に見られることは以前に何度か触れた。 主観的に判断すれば、賄賂の横行は支那人や朝鮮人にとっては当たり前のことであり、日本文化の倫理観においては恥ずかしいこととして捉えられる。アフリカや中南米においても至極当然のこととして日常行われることであり、日本ではもし行われていることが発覚したら、賄賂が当然とみなされる地域から見れば、「苛烈」としか言えなほどの制裁を受けることになる。 もっとも、支那においても賄賂は一応悪いことという主観的判断をされているので、おおっぴらになってしまった場合は死刑になったりするので、制裁を受けることは受けるのだが、それが歯止めにはならず、社会は常に安定して「賄賂文化」を維持し続ける。  儒教における徳目でもっとも大切されているのは「孝」であるとされているが、これはあくまでも「私的」な感情であり、公的な義憤などには繋がらない。支那や朝鮮などの儒教文化圏において家族の連帯が極めて強く、家族以外、あるいは友人以外に対しては極度に冷淡になるのもそうした文化的背景があってのことである。 何度も何度も強調するが、賄賂文化が悪いかどうか、縁故文化が良いかどうかは文化的な背景や個人の育った土壌により変化する価値観の問題なので、良いか悪いかの主観的な判断をすることにはあまり意味がない。別にしてもいいが永遠に終わらない議論になるだけの話である。 日本人としては、日本とはかなり異なる倫理観を基軸にした社会が、お隣の半島や大陸、そして世界中に根付いているということを客観的に認識した上で、「主観的に」判断して行動するだけの話である。 くどいほどいってるが繰り返すと、人間はすべからくみな「主観的な生き物」であり、好悪善悪の判断のない人間はこの世に存在しない。判断をしないのは「神」だけであり、人間はみなすべからく主観的な判断をしながら暮らしている。ただ、その主観性の度合いをひくめると、「客観的な視点」をもつことができるというだけの話である。ある事象を眺めたときに、主観的な判断がすぐに湧いてそれに流されてしまうものの、努力により発生する「客観的な観察」をすることで、極度に主観的な感情に流される可能性が低くなるという話である。 「儒教文化は賄賂文化だ、薄汚い!断交しろ!」というまえに、「そういう価値観が歴史的に培われてきた地域だから、かれらが異なる価値観を持っている人だと知った上でお付き合いしないとね」という穏やかな「主観的判断」をもつ助けになるのである。実際、お隣の半島や大陸はもちろん、世界の国々と価値観の違いを理由に交流を断つことなど、それこそ、客観的事実を観察したうえで主観的に考えて不可能であろう。 事象をただあるがままにみる「努力」をすることが、主観的生き物たる人間の限界であることは、何度も繰り返してきたし、また、いうまでもないことである。 文化によっては、主観性の度合いの高い地域と、比較的低い地域がみられるが、それらは過去の記事を参考にしていただければと思う。 今回もおよみいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 30Jun
    • コロンビア人サポーターの日本人女性侮辱からわかる中南米の文化

       久しぶりの更新である。ということで、最近話題のサッカー、ワールドカップから一つ。 コロンビア人のサポーターが、日本戦にコロンビアが敗北したあと、腹いせ(仕返しのつもりか)に日本人女性サポーターを捕まえて、わけのわからぬスペイン語で「私はすてきな売女です」というような意味の言葉を言わせ、それをツイッターにのせて拡散したことで大炎上した。 それについてのコロンビア人たちの反応がおもしろい。外務省からサッカー代表選手から、国を挙げての謝罪パフォーマンス。よくまあやるわと思うほどの必死さである。 ビデオを見た人はわかると思うが、侮辱したコロンビア人は確信犯である。ちなみに犯罪を行う人の99%は悪いことだとわからずやっているのではなく、わかった上でやっている確信犯である。発作的に殺すとか、そういう状況を抜けば、ばれなきゃいい、あるいは罰せられなければいいと思ってやるのが犯罪行為である。罰せられたりバレたりしたら慌てて謝るだけで、別に反省しているわけではない。あとあと面倒なことになることを避けようとしているだけの話である。 さて、確信犯のコロビア人による人種差別的とまでいえる日本人女性侮辱であるが、これについて多くのコロンビア人やコロンビア政府の外務省が「これはコロンビアの文化ではないし、コロンビアの文化を代表するものでもない」と言っていた。筆者に言わせれば、多くのコロンビア人と交流してきた経験からはっきりと客観的に観察できることとして、ああした行為は、間違いなく、 コロンビア、というよりも中南米の文化そのものであるといえる。別に批判しているわけではない。批判は主観である。ここでは筆者は単純に、客観的に観察される事実をいっているにすぎない。つまり、それが良いとか悪いとか、裁いているわけではない。ただ、中南米の文化はそういうものだと客観的に述べているにすぎない。それが好きな人も嫌いな人もそれぞれである。主観は個人に、客観は万人に属する。 かれらが国を挙げての謝罪パフォーマンスをしたのは、さすがに彼らも、こうした行為が卑劣きわまりない恥ずかしいことだと世界中で主観的に認識される、という認識だけはあるからである。世界中にコロンビア人はこういう人々だと思われることは今後かれらが世界で活動するに非常にマイナスになる。その不利益を避けるために謝ってるだけで、件のコロンビア人の行為がコロビア人や中南米人の行動パターンで一般的に見られるものかどうかといえば、答えは、客観的に「イエス」だということを筆者は言っているにすぎない。繰り返すがこれは主家的な批判ではなく、客観的な観察である。  基本、筆者が三兄弟と呼ぶ中南米、中東、アフリカの地域の人々は、その驚くほどの主観性の高さから、こうした日本人では驚くような行為を頻繁に行う。彼らの国の犯罪率の高さ、治安の悪さ、経済の不安定さ、発展の困難状況、政治的不安定、独裁傾向をみれば、「ああなるほどね」と言う話であるが。 しかし、上には上(下には下か)がいるもので、南朝鮮(韓国)などは、日本の東北の東日本大震災のとき、大喜びに喜んで大声で祝っていたことは有名な話である。これはシナでも同じ傾向がみられるが、この特亜とよばれるシナと朝鮮がいかに異常なまでに主観性の度合いが高い国や地域であるかは日本人の想像をはるかに絶する。日本人の感覚であれば、いかに主観的に嫌いであってもその相手に何か不幸があったときには常日頃の否定的な感情を忘れて少なからず同情するのが常であるが、はしゃぎまわって喜ぶのが、韓国(南朝鮮)で観察される文化的傾向であることは記しておきたい。 客観的に文化を観察し分析することが、国際社会で生きる上でいかに大切で必要なことか、おわかりになるであろう。これほどまでに感覚の違う人たちと共通の問題で話し合うのに、日本的な「和の精神」で立ち向かうことが、いかに「バンザイ突撃」を彷彿とさせるほど無謀なことか、実はこれを伝えたいがためにこのブログを立ち上げたようなものであるが。 筆者の経験から、コロンビア人が日本人女性を侮辱したようなことはコロンビア人の間では普通に見られることであり、それこそが彼らの文化を彷彿とさせるものであることを伝えたく、この記事を書いた。 別にそれが良いか悪いかの判断の話ではないので、お気に召さない場合は事実に目を伏せていただければと思う。論議の余地のない、客観的事実の話である。 大急ぎで付け加えるが、私自身はコロンビア人の友人が何人かおり、彼らは私にとって(主観的に)とても大切な友人たちである。今回の記事の客観的分析が私の主観的な交友関係を破壊するものでは全くないことを強調したい。 今回もお読みいただき、ありがとうございました。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 02Jun
    • 日本文化が礼儀正しい文化である由縁(3)

       だいぶ間が開いてしまったが、日本文化が礼儀正しい文化である由縁の続きについて話してみたい。 前回、前々回と、日本人がよく外国人などから指摘される「日本的丁寧さ、礼儀正しさ」というものの根源が、半島や大陸を経由して入った儒教の影響によるものではなく、日本古来の神道の精神にこそある、という話の流れをしてきた。儒教とは、長幼の序を押し付ける教えであるためにいわゆる「縦の関係」を基礎とした礼儀正しさを無理やり押し付けるものである、というのが、筆者の分析である。それゆえ、肩書きが外れた途端に、凄惨な復讐が始まるのは、歴代の南朝鮮の大統領を見ればはっきりと見て取れる話である。親孝行を美徳するとする儒教文化の南朝鮮で、親を見捨てるケースが後をたたないのも、儒教文化を基礎とした長幼の序がいかに胡散臭いものかを端的に観察させてくれる。 神道とは何か、という質問に対して正確に答えられる人はいないと思う。というのも、その原因としては、神道が、キリスト教やらイスラム教、あるいはユダヤ教といった他の宗教とは根本的性質が違うことの一つに、教義というものがないというところがある。 例えば、全国に広がる白山神社は、加賀国(石川県)の白山比咩神社を本宮とするが、そこに祀られる菊理媛神については、日本書紀の一書(第十)に少しだけ触れられているに過ぎない。つまり、その神様を崇めるための具体的な説明や理屈などはほとんどなく、「昔からこう伝えられてきた」という非常に少ない説明だけを根拠として、日本人は古来、菊理媛神をお祀りしてきた訳である。このことはもちろん、他の八百万の神々についても言えることである。 キリスト教やイスラム教、あるいは宗教ではない儒教なども、もうこれでもかというほどの具体性を持って大量に説明する。儒教では、その上で、長幼の序は大切だと「理解」して実践するが、所詮頭の中だけの話なので、儒教の長幼の序などは、いざとなれば簡単に踏みにじられる。長幼の序は、自分の利益に都合が良い時だけ、利用されるものであるという見方ができる。 一方で、日本の神道は、具体的な説明はほとんどないにも関わらず、長きに渡り人々に尊重されてきた。神社に行ってするべきことは、ただただ、感謝をすることのみというのも、他の宗教には見られない極めて稀有な特徴である。救ってくれとも、助けてくれとも、金をくれとも頼まず(もちろん、そういうことを勝手に願う人はいるが、それはそもそもの神社でのお参りの仕方とは乖離している)、ただただ、「生かされていること」に感謝をするのみである。そして、大いなる力に、深々と頭を下げる(もちろん、神社で頭を下げない日本人もいるが、それは単に無知なだけである)。 自然を畏れ、神を畏れ、自然を敬い、神を敬う。ただただ、生かされていることに感謝をする。この精神は、頭で理解するだけの一過性のものではない。ふつふつと心底から沸き起こる湧き水のようなものである。実は、日本人が互いに頭を下げるのは、この神道における大いなるものへの畏敬からきているものであるというのが、筆者の分析の根幹である。 儒教に相当侵されてはいるものの、日本では老若男女を問わず、互いに対等に頭を下げる瞬間があるが、それはまさに、八百万の神々の前においては我々皆対等であるという、深層での理解があるからに他ならない。これこそが、縦の関係と対局をなす、「横の関係」である。 もちろん、科学的に証明することのできない話なので、気に入らない方は無視していただきたい。 江戸末期、日本を旅した外国人たちが一様に書き残しているのは、この国の民の明るさである。江戸時代は身分制度で苦しんだ暗黒時代というのは、戦後民主主義左翼の学者が洗脳した嘘に過ぎない。実際は、これほどの極楽浄土があろうかと西欧人が驚いたほど、人々が明るく朗らかに笑う国だったのである。家族は、一番小さな子供を中心に周り、その子の視点をもって家族の呼び名が変わる。小さな子から見てお母さんなら、旦那も「お母さん」、そのお母さんの父親も、娘に対して「お母さん」と呼ぶ。もちろん毎回ではないにせよ、その子の視点を中心にしての会話が繰り広げられるのは、日本独自の文化である。年長者だけを異常に敬えと、若い者に奴隷的忍耐を強要する儒教文化に、こんな情景は存在しない。 年長者は年若いものを敬い、年若いものは年長者を敬う。そこに差などは無く、あくまでも平面におけるものであったし、今も実はそうである。表明的に儒教で覆われても、いざとなれば、若者が実権を握って回転をなした明治維新のようなことが起こるのも、なんの意味もない長幼の序が実は文化の根幹となっていなかったことの証である。牢固として長幼の序で固められた支那や朝鮮では、これは絶対にありえなかった話であることは以前も触れた。 天皇という絶対的な権威が伝統としてどっしりとしている日本においては、儒教のような身分制度は必要なかったという見方もできる。そしてその天皇こそが、神道を司る最たる御存在であることも見逃すことはできない。ただただ、民のために祈られるご存在、天皇陛下。 八百万の神々に畏敬を持って接する精神が、日本人が互いに礼儀正しいことの理由なのである。生かされているということへの感謝を根本精神としている民が、他者に対して傲岸になれるわけがない。無論、儒教精神に侵食されている人は、そうではないが。 今回の話はある程度筆者の主観的な見解が入っているので、納得できない方は無視していただきたい。 外来という意味では仏教も日本精神に大きく影響しているが、その話はまたいつか。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 20May
    • フランスの知の巨人、エマニュエルトッドから見える薄っぺらさ(閑話休題)

       前回の続きを書きたいところであるが、ちょっと気分(主観)が乗らないので、他の話題で。 先日、フジテレビのプライムニュースを見ていて、フランスの知の巨人(と言われている)エマニュエルトッドが出演していたので、つい見てしまった。 まあ、フランス人らしく、また学者らしく、もっともらしいことをタラタラと述べていたが、一箇所、日本と隣国(二つの半島国家)との関係に話が及んだ時、彼は、何気なくこういった。曰く、「残虐な日本による植民地支配で....」 この一言で、筆者はこのエマニュエルトッドという学者が、やっぱり上っ面の部類の人だということを再確認した。 日本がしたのは植民地支配でないことは、ほんのすこーしでも調べればすぐにわかることである。日本が半島に対して行ったのは併合統治であって植民地統治ではない。これは、猫とパソコンほどの違いがある。塩ラーメンか醤油ラーメンかの違いかではない。客観的事実の話である。 また、その併合統治の中で実際何が行われたを見れば、主観的に「残虐な」ことなど何一つないことはすぐにわかることである。知的に真摯的に調べればすぐにわかることではなく、朝鮮人のプロパガンダをそのまま受け入れて話しているところを見るだけで、この人が本物の学者か、単なる偽物学者かが一発でわかるわけである。 公平のために言っておくが、これはフランス人学者だけではなく、日本人学者にもゴマンと見られる人々である。 筆者は正直、意見(主観)の部分についてはあんまりとやかくは言わない。例えば、「安倍政権打倒!」と叫んでいる人たちを見るとぞっとするほどの嫌悪感を感じるが、それとても、主観は自由であることを考えればほっとけばいい話である。ただ、マイク片手に街角で騒がれると本当に憎悪すら感じるほど迷惑を感じるが。 しかしながら、「事実(客観)」の部分については、これは決して看過しない。好き嫌いに関わらず、嘘をつかないことが、議論をする上ので大前提となるからだ。これを無視しては、まともな議論は絶対に成り立たない。 「日本は朝鮮で食糧事情を大幅に改善することで半島では餓死という言葉が使われなくなるほど豊かになった」という事実に対して、私は、「素晴らしいね」という主観的意見を持つし、ある朝鮮人はひょっとしたら、「何人餓死しても良かったから腐敗しきっていた李氏朝鮮王朝が続いた方が全然良かった!」という主観的な意見を持つかもしれない。それはそれで、その人がそう思う以上はほっとくしかない話である。 主観と客観を分ける必要があるのは、こうした状況をはっきりさせるためでもある。 ちなみにであるが、偽物学者が跋扈するという意味では、さしずめ東京大学法学部の憲法学界などは、その最たる偽物ワンダーランドといえるであろう。もちろん、客観的に言ってである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 15May
    • 日本文化が礼儀正しい文化である由縁(2)

       昨日に引き続き上記のタイトルで書いてみたい。 儒教というと、人生における徳目を教えてくれる哲学のようなものでもあり、主観的に良い印象を持つ人が多いと思う。四書五経を諳んじているわけではないものの、筆者とて、か細いながらも、五常(仁、義、礼、智、信)や、五輪(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の教えは知っている。これらをもって儒教を誇りとする支那人や朝鮮人は非常に多い。 「君に忠、親に孝、夫婦仲良く、年長者を立てて、友達を大切に」と言われて、悪いことだと判断する人はなかなかいない。なるほど良い教えだという話になるものである。 しかし、儒教とは、こうした人生哲学の側面以上に、生活を縛るものとしての生活規範としての側面の方が、はるかにはるかに、実際の支那や朝鮮やベトナムの社会では強いということを知る日本人はあまりいない。 儒教の束縛があまりにも激しいため、そのくびきから逃れるためにキリスト教に改宗する人が後を絶たず、ソウルに行けばあちこちに教会があるのは、決して偶然ではないのである。長幼の序やら縦社会のあまりの縛り付けの強さは、学校では体罰、軍隊、刑務所では拷問、家庭では暴力、会社ではパワハラ、セクハラという形で、兎にも角にも生き地獄という社会を作り出しているのである。 これだけ上下関係で人間関係を縛りつければ、不自然なまでに年上は年下に威圧的に接することが当然となるし、年下は、ただ一歳でも年下だというだけで、まるで奴隷のような扱いを受けることも、しばしばなのである。極度に卑屈になるのも、儒教的傾向である。現に筆者は、先進国の外国にいた時、そのあまりの酷さに唖然とした記憶がある。日本では、高校大学の柔道部や空手部でならみられるかもしれない風景が、普通の語学学校などでも平然とみられたものである。 こうした儒教からくる礼儀正しさは、単なる「うわべ」にすぎず、本質的な礼とは程遠い。その証拠と言ってはなんだが、相手の肩書きが外れた瞬間に猛烈な復讐が始まるのは、歴代の南朝鮮(韓国)の大統領の悲惨な末路を見れば一目瞭然であろう。 日本社会においても、残念ながら、こうした支那朝鮮の影響である儒教からくる上下関係の縛りが、社会の隅々を蝕んでいる。筆者のさらなる分析が求められるが、それがいつの頃からといえば、驚くことに明治の後から顕著になったというのが今のところの観察である。 しかし、腐っても日本、儒教は所詮、亜流の文化に過ぎない。本流たる大和魂を構成する、名こそ惜しけれ(武士道)、もののあわれ(枕草子に見られる世界)などは健在であり、その流れから、「思いやり」という日本独自の文化も生まれた。そして、ここで外せないのが、神道と仏教の存在である。 今回は神道の話を、と思っていたが、儒教の説明を優先してみた。次回に続けたい。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 14May
    • 日本文化が礼儀正しい文化である由縁

       筆者は常日頃から、儒教文化を激しく、主観的に否定している。客観的に言えば、儒教文化は年齢や立場、性別の違いを持って人間の上下を決める教えで、ただそれだけなのであるが、筆者の主観的な感覚からして、同じ人間であるのに、年齢が上か下か、組織内での肩書きが上か下かで相手の尊厳を踏みにじるような行為が許容される儒教文化が、どうにもやりきれないのである。人間は所詮人間であり、早く生まれたかどうかなど、大した問題ではないのは、年齢が人格と比例しないことを見えれば、読者の方々もご理解いただけると思う。 年配なら人間ができていて、年若ければ人間ができていないなどというのは幻想に過ぎない。実際、中小問わず、企業の上層部の年配者の腐敗の度合いは尋常ではないことが多い。筆者は長年大手と言われる企業で勤めた経験からも、それははっきりと客観的に見て取れるのである。 翻って日本の歴史を見ると、儒教文化の影響が日本史上で飛躍的に高まったとされる江戸時代ですら、所詮は「学問」としての儒教であり、生活の規範そのものとなっていた支那や朝鮮の儒教文化と比べれば、日本の儒教文化はほとんどあってなきレベルと言える。都市部での混浴、農村部で夜這いの風習など、儒教文化では考えられない話である。江戸時代、新井白石などがいくら頑張っても、所詮は、「お勉強」のレベルであり、生活に浸透する文化とはなり得なかったのである。 またこれも多少余談になるが、筆者の分析では、明治維新こそが日本が儒教文化に侵食されなかった決定的な証拠であるとも言える。実力ある20代の若者が藩で実権を持ち、ついにはその力で日本そのものを変えてしまうなど、牢固とした儒教規範で社会が固定しきっていた支那や朝鮮では、ついに最後まで不可能だった「劇的な」日本的な活力の証左であった。年齢も門閥も乗り越えた実力ある若者が時代を変革し引っ張っていったのである。これこそが、日本が儒教文化であり得ない決定的な、客観的証拠である。 話を本題に戻す。 日本が礼儀正しいと言われる文化を持つのは、儒教の影響であるかのように言われているが、実はそうではないというのが筆者の分析である。 その最たる根拠となるが、神道の存在であるが、続きは次回にまわしたい。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 13May
    • 移民が引き起こす悲劇(マルティカルチャリズムの行き着く先)

       別に驚く人もいなくなったのではないかと思えるほど、テロは日常茶飯事と化している。そんな中、12日のパリで通行人を殺傷するテロが起きた。チェチェンの出身だと言うことだが、現地報道によると2010年にフランスに帰化している、つまり、移民である。 私は経験で多くのフランス人と接してきたし、彼らの性質や文化をよく知るものとして、彼らが世界の中でとりわけ親切でもなんでもなく、時と場合によっては人種差別を露骨に出す人が多いということも知っている。同時に、何人かの気の置けない友人もいて、個人的な感情は可もなく不可もなくである。結局のところ、付き合う相手は国籍や人種、肌の色や宗教で決まるものではなく、相手のパーソナリティ、つまりは人格がすべてである。南朝鮮人であろうが支那人であろうが、人によっては話がわかるし、そう言う話が合う南朝鮮人やら支那人と酒を酌み交わす方が、売国的な日本人と酒を飲むよりも何百倍もいい。結局のところ、最終的に大事なのは、人柄ということである。 だから、差別の問題をあまり声高に論議しても行き着くところはだいたい決まっているのであるが、移民問題となると話は別である。 フランスでもドイツでもイギリスでもアメリカでもイタリアでもカナダでもノルウェーでもスウェーデンでも、先進国で移民を率先して受け入れてしまった国々は、深刻な分裂の危機を抱えている。つまり、現地住民と、現地の文化や伝統を受け入れずに頑なに自分たちのやり方、生き方を貫こうとする移民との軋轢である。その軋轢は、就職の差別となって現れたり、露骨な日常での差別となっても現れる。それに対する移民の怒りは時に犯罪という形で現れるし、時に暴動という形でも現れる。 移民には現地の文化を尊重する精神がない。現地住民には移民を受け入れる気持ちはない。こんな両者が政治的な目的と意図のみに支えられて共に住むような状況に置かれ、先進各国がヒポクリット(偽善的)に移民を受け入れ続けた結果が、現在の世界の混乱なのである。 他者を尊ぶ、他者を尊重する文化は、残念ながら、武士道精神や、もののあわれの精神を宿す日本の大和魂の中にしかない。それは思いやりを文化的要素として唯一持つ国だからこその文化である。 そんな日本も、長い間、支那大陸や朝鮮半島から流れ込んでいる儒教によって随分と蝕まれ、学校や企業、あるいは家庭でのパワーハラスメントやセクシャルハラスメントとして闇を抱え込んではいるが。大企業などで見られるが、肩書きやら年齢、あるいは性別の差を利用して他者に対して礼儀など一切ない態度で接している年配者の姿を見ると、筆者の主観的な話で恐縮だが、吐き気を催すほどの嫌悪を感じる。また若者で、暴力的な力を背景に他者(年配者か年下かを問わず)に対して威嚇的に接する姿を見るのも、これまた、誠に醜いものである。これらは儒教文化への反発の裏返しである。日本が儒教の愚かしさに気づいてそれを排除できる日が来るかどうか。日本は、名こそ惜しけれと、もののあわれを基調とする、大和魂の国であることを思い出す日が来るかどうか。 いずれにせよ、主観性の度合いの高い文化の国民同士が異文化異教徒などの違いを持って共生したらどうなるのか。一連のテロ事件が明確にものがたっている。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 12May
    • 敵は、常に、本能寺にあり(北朝鮮問題から)

       北朝鮮が、拉致問題はすでに解決しているのに日本がいつまでもぐだぐだ言ってるかのような下記の発言をした。 北朝鮮国営の朝鮮中央通信は12日、日本人拉致問題について「解決された」と主張、日本政府の拉致問題提起を「誰かの同情を買い、過去の清算を回避しようとしている」と非難した。(時事通信) まあ、儒教文化にどっぷり漬かった朝鮮から出てくる発言らしく、こちらとしては特に驚くにも値しない。しかし、この中で、「過去の清算を回避しようとしている」という言葉を使っていることに注目したい。  これは要するに、日本による1910年の日韓併合より、1945年までの間の「併合統治」のことについて言っているのであるが、これもまた客観的事実を180度変えて嘘を平気でつく儒教文化の朝鮮らしい発言である。実際、清算とは、「金を払え、謝罪しろ」ということであるが、客観的事実を見ると、金を払うのはむしろ北朝鮮(南も同じだが)であり、謝罪するのも北朝鮮でしかないことがはっきりとわかる具体的な事実しか出てこない。 ここで繰り返すのは避けるが、百田尚樹氏の「今こそ、韓国に謝ろう」という著作で詳しく書かれているように、何もない朝鮮半島に、農業、林業、インフラ設備、教育設備及び教育、病院などの衛生インフラ、道路、橋、ダム、、、と数え上げたらキリがないほどの投資を行った日本が、払わなければいけない金など一銭もないし、統合前と統合後では人口が倍にまで膨れ上がった朝鮮半島に謝罪する客観的事実など、ただの一つもありはしないのである。統合そのものも、当時の朝鮮の政府により要請され、国際法に基づき合法的になされたものであることを、改めて記しておく。 むしろ、あれだけのことをして日本がつぎ込んだ膨大な金の一部を返してもらわなければいけない話なのである。 と、ここまではいい。相手は所詮外国であり、おまけに嘘や歪曲がお得意の、恥の概念の欠落した儒教文化の国なので、ああいうことを言うのも織り込み済みである。 問題は、日本国内、こう言う朝鮮の主張をまともに受けて、それを支援して日本を背後から売ってくる「売国日本人」の存在である。これらこそが本当の日本の敵であることを忘れては、あっという間に朝鮮の思う壺となるだけである。 NHKや朝日新聞、毎日新聞などの大手マスメディアと、立憲民主党や希望の党、社民党や共産党などの野党がこれに当たることは言うまでもない。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 07May
    • 一つの中国、一つの日本、一つのフランス、一つのイギリス、そして一つの台湾

       支那共産党政府がアメリカに対して、台湾の表記に関して注文をつけているようである。アメリカは最近、親台湾の人間が政府の要職に就いたので、こうした動きは今後活発になるであろう。 筆者は随分以前のロンドンで台湾人学生とあった時、ある話をした。彼によると、授業中などでも「One China!!」と支那人学生が騒ぎ、喧嘩になるという話であった。 筆者はここで一つの提案をした。 「One China、結構ではないか。世界には、One Japanしかないし、One Franceしかない。One Britainであり、One Americaである。だからと当然、One Taiwanとなる。One China、One Japan、One Taiwan、こう言えばいいと。」 もともと、台湾は支那ではない。蒋介石と国民党の存在によって紛らわしくなってしまっただけで、台湾は台湾である。それ以上でもそれ以下でもない。チベットはチベットであり、ウイグルはウイグルであり、日本は日本であり、フランスはフランスであり、英国は英国であり、台湾は台湾である。それぞれたった一つしかないのは当然である。 台湾は支那とは全く異なる一つの国家なのであるから、一つの中国という支那の主張にはなんら関係しない話であると、世界中の良識ある人間が話せば、終わる話である。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 28Apr
    • 言語の違いが文化の違いーはいといいえの使い方からわかる日本文化の特殊性ー

       外国へ移り住んだ日本人が経験する辛さは、言葉が通じる通じないというよりも、あまりにもものの考え方、つまりは文化が違うということからやってくる。 言語は、文化である。これは間違いない客観的事実である。良いも悪いもなく、単なる事実である。 言語を解析することで、その言語が話されてる文化が見えてくる。今日はその話を少しだけしてみたい。 いきなり余談で恐縮だが、筆者は基本、外国人と日本語で話すのが大変嫌いである。その最たる理由は、彼らが「英語やフランス語やドイツ語や支那語で」日本語を話していることが非常に多いからである。お分かりになるだろうか。外国人は、文法的に正しい日本語を話すことは努力次第であるが比較的できる。しかしながら、「文化的に」正しく日本語を話すことができる人は、ものすごく少ないのである。もちろん、文化は体感しながら体得できるものであるから、その土地に住まずにそれを体得することは難しい。しかしながらそれを考慮したとしてもなお、外国人の日本文化の体得度の低さはあまりあるというのが、筆者の観察である。 正直、日本語を正確に話せる外国人は少ないし、それができる人たちはだいたいにおいて日本在住が長い人であったりするが、こういう人たちもまた、日本語を「文化的に」正確に話すことは極めて稀である。私の知る限り、それができているのはケントギルバートさんくらいのものである。 文法的、語彙的には正しくとも、「状況」あるいは「関係性」の中で絶対に使うはずがない言葉や表現を、外国人が平気で使うのは、彼らが、単純に、英語やフランス語やドイツ語や支那語を、そのまま日本語に「置き換えている」からに過ぎない。  ここで公平性を保つために大急ぎで付け加えるが、これは全く同じことが外国語を話す日本人にも言える。彼らは英語などを「日本語基準」で話すため、単に置き換えているだけで、外国人には、文法的、語彙的には理解できても内容的(文化的)には理解できないことが多いのもまた事実なのである。そんな状況で英語を話しても、ディベートの何もあったものではあるまい。 石破や岸田などが総理になったところで、またもや「舐められる日本」に逆戻りして終わりである。 さて、余談が過ぎた。本題に戻りたい。 日本語は、はいといいえを「相手に合わせて」使い分ける。英語やフランス語やドイツ語は、はいといいえを「内容に合わせて」使い分ける。日本語でも内容には合わせるのであるが、大きな違いは、「相手の言ってる内容に合わせる」日本語と、「相手の言ってる内容に左右されず、内容そのものの質に合わせる」外国語の違いである。これは日本の受験生が英語学習でもっとも苦しむ箇所の一つでもある。 例を持って説明すると、 日本語で、「あなたは英語を話せませんよね」と言われた時の回答は、話せない場合は「はい、話せません」となる。ところが、英語では、話せない場合は「いいえ、話せません」となる。つまり、返事の基準となるのが、あくまでも事実そのものであり、相手の質問の仕方、つまり、「否定形の聞き方か肯定形の聞き方か」は基準とならない。「あなたは英語を話せませんよね」というのは、否定形の質問である。日本語では、相手の言っている内容が正しい、つまり「話せませんよね」という内容を肯定するために、「はい、話せません」となる。 一方で、英語などでは、「話せない」という内容の否定部分に焦点があてられるため、「いいえ、話せません」となるのである。  日本語が、どれほど「相手に合わせる文化」の言語であるか、一目瞭然である。 このように、言語を解析すると、文化が理解できる。日本人が外国で評価を受けず、挙句にはバカにされたり舐められたりすることが多いのは、ひとえに、こうした文化の違い、考え方の違いがあるからである。 日本は、日本と、その他の外国と分類できるほど特殊な国である。こうした文化の違いを理解せずに外国に出て行けば、精神的にやられて終わるのは、明々白々たる事実である。 今日は日本文化の特殊性のほんの一端を解説してみた。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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    • 南北朝鮮首脳会談で確認できる当然の事実

       南北の朝鮮首脳が久しぶりの会談を行ったことで、マスメディアが騒いでいる。南北の首脳は抱き合い笑顔で交歓していたが、北朝鮮の工作員との噂の高い南朝鮮(韓国)大統領にとっては、まさに北の将軍に媚び諂う事こそが、彼の政治的(主観的)目的であることが明白であることを考えれば、当然の光景であった。 そんな中で、日本の拉致被害の話が会談で話し合われたかどうかが日本においてのみ焦点となっていたが、まあ、それがあったかどうかを確認する行為は客観的事実の確認として求められるとしても、結論は最初から決まっていた。 南北朝鮮の首脳が日本の拉致問題について会談中、時間を割いて話し合う可能性などは、限りなくゼロに近かったということである。 むしろ話し合ったとしたら、それこそが大げさでも何でもなく、驚天動地の話である。突然、イスラエルとイランが軍事同盟を結んで超友好国になるとか、イギリスやフランス、アメリカ、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガルなどが旧植民地諸国に対して彼らの実際に行った残虐非道な行為を認めて公式に謝罪するようなものである。原理主義的なアラブ諸国で、突然女性が民主的な手続き(選挙)によって国家の指導者として選出されるようなものである。独裁と腐敗の蔓延するアフリカ諸国で、ブラックマネー(賄賂)が一切横行しなくなるようなものである。私利私欲の最優先を根本的な判断基準とする儒教文化の支配する支那大陸や朝鮮半島あるいはベトナムで、公共精神が社会に広く認知されるようなものである。 日本のことなど、都合のいい時に利用して、後はひたすらに侮辱する対象としか考えていない南北の朝鮮が、日本人の生命と財産に関して注意や関心を払うことなど、絶対にありえない話である。もちろん、彼らの多大なる利益がその背後にある場合は話は別だが、そうでなく、純粋に公共の精神からそうした心配をすることなどは、ほぼほぼ、絶対にない。 そんな「当たり前」のことが、いまだに日本社会できちんと常識として認識されていないことの方が、よほど問題ではないのかと、筆者が主観的に、老婆心ながら感じた次第である。 そんな他人任せな心つもりでいれば、どれだけ時間が経過しようが拉致被害者は絶対に取り戻せないであろう。 読者の皆様はどのように感じられたか。 随所に主となれ 禅でいう本質的な言葉であるが、この意味を考える必要がある。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 13Apr
    • 立場上言い返せない人間に、立場を利用して高圧的に接する儒教精神

       これは筆者の個人的な意識でもあるので、そうじゃない人にとっては「知らんがな」という話になる。 日頃からいっているように、日本精神、つまり、大和魂とは、武士道精神の「名こそ惜しけれ」、そして「もののあわれ」を基調とするものであるというのが筆者の分析である。したがって、大和魂では「卑怯」というものは名を汚すものでもっとも忌み嫌われる。 年齢、組織での肩書き、などの立場の「差」を利用して、言い返したくても言い返せない(会社を辞めれない、出世に響く、お金を稼がなければならいなどの理由で)相手をつかまえて傲慢に振る舞い、傍若無人な言葉を投げかけるパワハラを行う人間は、こうした大和魂を持たないということになる。こういう人は、年齢や立場で「下」とみなした(単にその人がみなしているだけで実際下であるわけではない)相手に対して侮辱し、恫喝し、失礼極まりない態度をとる。そしてこれは、まさしく、大陸や半島で主流となる「儒教精神文化」を基調とする行為である。 別にどちらがいいかという話ではない。良いか悪いかは主観の問題であり、個人の判断による。 ただ、筆者は客観的にこれらを観察した上で、主観的に感じるのは、「薄汚い」ということである。筆者の主観でまことに恐縮であるが、こうした、立場を利用して言い返せない相手に傲岸不遜に振る舞う日本人は、儒教精神文化にまみれてしまった、まことに「薄汚い」人間であり、こうした人たちが現に、日本社会の隅々にはびこっている状況に、ただただ情けなさを感じる次第である。  森友や加計の問題をめぐるマスメディア、立憲民主、希望、民主、日本共産などの態度は、まさに上記の大陸、半島の儒教精神文化に基づく。 読者の方々はどのように感じられるか。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 04Apr
    • 権威と権力を明確に分けてきた日本の国柄の話

       上記の記事は一年以上に前に書いたものであるが、筆者が綴って来た記事の中でもとりわけ思い入れの深い記事である。当時は文字に色をつけてきたので読みくいかもしれないが興味のある方は是非。 さて、権威と権力の話。この二つを同時に付帯しているのが現代の独裁者である。北朝鮮の委員長、韓国の大統領、シナ共産党の党主席はまさにこの例に当たる。 先進国を眺めれば、明確にこの二つは別れている。基本的に民主主義国には民衆による選挙があるので、その選挙を拠り所にする意味で、権力は民衆の手にあると言える。選挙の結果、選ばれるのが大統領であったり総理大臣であったりするのは、その国が権威と権力をどう分けているかによる。日本や英国、ベルギーやスペインなど皇室や王室を擁する国では選ばれるのは行政の長たる総理大臣であり、選ばれた総理大臣は「権威」の拠り所となる天皇陛下や国王という「権威」に任命される。権力は総理大臣(民衆)に、権威は元首である天皇や国王に、と明確に権威と権力が別れている。別れることで政治的安定が保たれているのである。 皇帝を戦争後無くされたドイツ、自らの手で国王の首を切断したフランスなどはそれぞれ少し異なるが似たような制度を持っている。民衆による選挙で選ばれた大統領(権威)が総理大臣(権力)を選んで行政を任せる(フランス型)か、選挙によって選ばれた大統領(権威)がこれまた選挙によって選ばれた多数派政党の党首を首相(権力)に推薦するか(ドイツ型)。ドイツでは大統領による推薦は形式的で、実質的には選挙で勝利した党の党首が首相に選出される。 アメリカは少し特殊で大統領(権威)が同時に行政権(権力)をもつが、その強大な権限を抑えるため、議会(上院と下院)が相当な権限を有する。つまり、権威も権力も、大統領と議会との間でそれぞれ分割されるのである。日本の総理大臣の方がアメリカの大統領よりもはるかにたくさんの行政決定権を持つことは周知の事実である。しかし何れにせよ、アメリカの大統領はアメリカの元首(権威)であり、同時に行政官(権力)である。これは少し特殊な例。大統領に対抗するためのアメリカの議会の権威の高さもその特殊性を裏打ちしている。 日本、イギリス、カナダに関しては、それぞれ、天皇陛下やイギリス国王が権威としての役割を果たし、権力は選挙で民衆に選ばれた総理大臣が担うことになる。 この権威と権力を分けるという状況が、イギリスでは先進的に他の欧州諸国に先んじて発達してきたが、その端緒は、ジョン王の権限を抑制するため、貴族たちが権威と権力を分離する動きを強めたことにある。これは1200年頃のことであり、筆者が以前のブログで指摘した鎌倉幕府の成立の頃に符合する。ただし、イギリスではこの後も王による直接統治の動きが、首相の任命やら更迭、あるいは行政の施工拒否などを通じて折々見て取れるのが事実である。 一方日本では、源頼朝の鎌倉幕府成立後、後白河上皇やら後醍醐天皇やらの動きはあったにせよ、概ね権威(皇室)と権力(武家政権)との分離はしっかりとなされており、さらにはその最初の動きは嵯峨天皇(786−842)にまで遡ることを考えれば、イギリスのジョン王の時代に先んじること実に400年ということになる。 そうした意味でも、やはり日本は実に先進的な国家であると言えるのである。客観的事実としての話である。 倉山満氏のご著作にはこうした流れにつて詳しく書かれているので、ご興味ある方には是非ともオススメしたい。氏のご著作を読んだときは、少なからず筆者が観察したことと近いことが書かれていたと感じたものである。もちろん、筆者、倉山氏の足元にも及ばないが。 西洋の方が断然進んでいて日本は遅れた国、こうした認識は根強く、また西洋人の間のみならず日本人の中にも強く根付いている。しかし物事を客観的に眺めれば、まさしく目の覚めるような事実がたくさんあるのである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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