正義(主観)ではなく公平(客観)を求めて
  • 02Jun
    • 日本文化が礼儀正しい文化である由縁(3)

       だいぶ間が開いてしまったが、日本文化が礼儀正しい文化である由縁の続きについて話してみたい。 前回、前々回と、日本人がよく外国人などから指摘される「日本的丁寧さ、礼儀正しさ」というものの根源が、半島や大陸を経由して入った儒教の影響によるものではなく、日本古来の神道の精神にこそある、という話の流れをしてきた。儒教とは、長幼の序を押し付ける教えであるためにいわゆる「縦の関係」を基礎とした礼儀正しさを無理やり押し付けるものである、というのが、筆者の分析である。それゆえ、肩書きが外れた途端に、凄惨な復讐が始まるのは、歴代の南朝鮮の大統領を見ればはっきりと見て取れる話である。親孝行を美徳するとする儒教文化の南朝鮮で、親を見捨てるケースが後をたたないのも、儒教文化を基礎とした長幼の序がいかに胡散臭いものかを端的に観察させてくれる。 神道とは何か、という質問に対して正確に答えられる人はいないと思う。というのも、その原因としては、神道が、キリスト教やらイスラム教、あるいはユダヤ教といった他の宗教とは根本的性質が違うことの一つに、教義というものがないというところがある。 例えば、全国に広がる白山神社は、加賀国(石川県)の白山比咩神社を本宮とするが、そこに祀られる菊理媛神については、日本書紀の一書(第十)に少しだけ触れられているに過ぎない。つまり、その神様を崇めるための具体的な説明や理屈などはほとんどなく、「昔からこう伝えられてきた」という非常に少ない説明だけを根拠として、日本人は古来、菊理媛神をお祀りしてきた訳である。このことはもちろん、他の八百万の神々についても言えることである。 キリスト教やイスラム教、あるいは宗教ではない儒教なども、もうこれでもかというほどの具体性を持って大量に説明する。儒教では、その上で、長幼の序は大切だと「理解」して実践するが、所詮頭の中だけの話なので、儒教の長幼の序などは、いざとなれば簡単に踏みにじられる。長幼の序は、自分の利益に都合が良い時だけ、利用されるものであるという見方ができる。 一方で、日本の神道は、具体的な説明はほとんどないにも関わらず、長きに渡り人々に尊重されてきた。神社に行ってするべきことは、ただただ、感謝をすることのみというのも、他の宗教には見られない極めて稀有な特徴である。救ってくれとも、助けてくれとも、金をくれとも頼まず(もちろん、そういうことを勝手に願う人はいるが、それはそもそもの神社でのお参りの仕方とは乖離している)、ただただ、「生かされていること」に感謝をするのみである。そして、大いなる力に、深々と頭を下げる(もちろん、神社で頭を下げない日本人もいるが、それは単に無知なだけである)。 自然を畏れ、神を畏れ、自然を敬い、神を敬う。ただただ、生かされていることに感謝をする。この精神は、頭で理解するだけの一過性のものではない。ふつふつと心底から沸き起こる湧き水のようなものである。実は、日本人が互いに頭を下げるのは、この神道における大いなるものへの畏敬からきているものであるというのが、筆者の分析の根幹である。 儒教に相当侵されてはいるものの、日本では老若男女を問わず、互いに対等に頭を下げる瞬間があるが、それはまさに、八百万の神々の前においては我々皆対等であるという、深層での理解があるからに他ならない。これこそが、縦の関係と対局をなす、「横の関係」である。 もちろん、科学的に証明することのできない話なので、気に入らない方は無視していただきたい。 江戸末期、日本を旅した外国人たちが一様に書き残しているのは、この国の民の明るさである。江戸時代は身分制度で苦しんだ暗黒時代というのは、戦後民主主義左翼の学者が洗脳した嘘に過ぎない。実際は、これほどの極楽浄土があろうかと西欧人が驚いたほど、人々が明るく朗らかに笑う国だったのである。家族は、一番小さな子供を中心に周り、その子の視点をもって家族の呼び名が変わる。小さな子から見てお母さんなら、旦那も「お母さん」、そのお母さんの父親も、娘に対して「お母さん」と呼ぶ。もちろん毎回ではないにせよ、その子の視点を中心にしての会話が繰り広げられるのは、日本独自の文化である。年長者だけを異常に敬えと、若い者に奴隷的忍耐を強要する儒教文化に、こんな情景は存在しない。 年長者は年若いものを敬い、年若いものは年長者を敬う。そこに差などは無く、あくまでも平面におけるものであったし、今も実はそうである。表明的に儒教で覆われても、いざとなれば、若者が実権を握って回転をなした明治維新のようなことが起こるのも、なんの意味もない長幼の序が実は文化の根幹となっていなかったことの証である。牢固として長幼の序で固められた支那や朝鮮では、これは絶対にありえなかった話であることは以前も触れた。 天皇という絶対的な権威が伝統としてどっしりとしている日本においては、儒教のような身分制度は必要なかったという見方もできる。そしてその天皇こそが、神道を司る最たる御存在であることも見逃すことはできない。ただただ、民のために祈られるご存在、天皇陛下。 八百万の神々に畏敬を持って接する精神が、日本人が互いに礼儀正しいことの理由なのである。生かされているということへの感謝を根本精神としている民が、他者に対して傲岸になれるわけがない。無論、儒教精神に侵食されている人は、そうではないが。 今回の話はある程度筆者の主観的な見解が入っているので、納得できない方は無視していただきたい。 外来という意味では仏教も日本精神に大きく影響しているが、その話はまたいつか。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 20May
    • フランスの知の巨人、エマニュエルトッドから見える薄っぺらさ(閑話休題)

       前回の続きを書きたいところであるが、ちょっと気分(主観)が乗らないので、他の話題で。 先日、フジテレビのプライムニュースを見ていて、フランスの知の巨人(と言われている)エマニュエルトッドが出演していたので、つい見てしまった。 まあ、フランス人らしく、また学者らしく、もっともらしいことをタラタラと述べていたが、一箇所、日本と隣国(二つの半島国家)との関係に話が及んだ時、彼は、何気なくこういった。曰く、「残虐な日本による植民地支配で....」 この一言で、筆者はこのエマニュエルトッドという学者が、やっぱり上っ面の部類の人だということを再確認した。 日本がしたのは植民地支配でないことは、ほんのすこーしでも調べればすぐにわかることである。日本が半島に対して行ったのは併合統治であって植民地統治ではない。これは、猫とパソコンほどの違いがある。塩ラーメンか醤油ラーメンかの違いかではない。客観的事実の話である。 また、その併合統治の中で実際何が行われたを見れば、主観的に「残虐な」ことなど何一つないことはすぐにわかることである。知的に真摯的に調べればすぐにわかることではなく、朝鮮人のプロパガンダをそのまま受け入れて話しているところを見るだけで、この人が本物の学者か、単なる偽物学者かが一発でわかるわけである。 公平のために言っておくが、これはフランス人学者だけではなく、日本人学者にもゴマンと見られる人々である。 筆者は正直、意見(主観)の部分についてはあんまりとやかくは言わない。例えば、「安倍政権打倒!」と叫んでいる人たちを見るとぞっとするほどの嫌悪感を感じるが、それとても、主観は自由であることを考えればほっとけばいい話である。ただ、マイク片手に街角で騒がれると本当に憎悪すら感じるほど迷惑を感じるが。 しかしながら、「事実(客観)」の部分については、これは決して看過しない。好き嫌いに関わらず、嘘をつかないことが、議論をする上ので大前提となるからだ。これを無視しては、まともな議論は絶対に成り立たない。 「日本は朝鮮で食糧事情を大幅に改善することで半島では餓死という言葉が使われなくなるほど豊かになった」という事実に対して、私は、「素晴らしいね」という主観的意見を持つし、ある朝鮮人はひょっとしたら、「何人餓死しても良かったから腐敗しきっていた李氏朝鮮王朝が続いた方が全然良かった!」という主観的な意見を持つかもしれない。それはそれで、その人がそう思う以上はほっとくしかない話である。 主観と客観を分ける必要があるのは、こうした状況をはっきりさせるためでもある。 ちなみにであるが、偽物学者が跋扈するという意味では、さしずめ東京大学法学部の憲法学界などは、その最たる偽物ワンダーランドといえるであろう。もちろん、客観的に言ってである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 15May
    • 日本文化が礼儀正しい文化である由縁(2)

       昨日に引き続き上記のタイトルで書いてみたい。 儒教というと、人生における徳目を教えてくれる哲学のようなものでもあり、主観的に良い印象を持つ人が多いと思う。四書五経を諳んじているわけではないものの、筆者とて、か細いながらも、五常(仁、義、礼、智、信)や、五輪(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の教えは知っている。これらをもって儒教を誇りとする支那人や朝鮮人は非常に多い。 「君に忠、親に孝、夫婦仲良く、年長者を立てて、友達を大切に」と言われて、悪いことだと判断する人はなかなかいない。なるほど良い教えだという話になるものである。 しかし、儒教とは、こうした人生哲学の側面以上に、生活を縛るものとしての生活規範としての側面の方が、はるかにはるかに、実際の支那や朝鮮やベトナムの社会では強いということを知る日本人はあまりいない。 儒教の束縛があまりにも激しいため、そのくびきから逃れるためにキリスト教に改宗する人が後を絶たず、ソウルに行けばあちこちに教会があるのは、決して偶然ではないのである。長幼の序やら縦社会のあまりの縛り付けの強さは、学校では体罰、軍隊、刑務所では拷問、家庭では暴力、会社ではパワハラ、セクハラという形で、兎にも角にも生き地獄という社会を作り出しているのである。 これだけ上下関係で人間関係を縛りつければ、不自然なまでに年上は年下に威圧的に接することが当然となるし、年下は、ただ一歳でも年下だというだけで、まるで奴隷のような扱いを受けることも、しばしばなのである。極度に卑屈になるのも、儒教的傾向である。現に筆者は、先進国の外国にいた時、そのあまりの酷さに唖然とした記憶がある。日本では、高校大学の柔道部や空手部でならみられるかもしれない風景が、普通の語学学校などでも平然とみられたものである。 こうした儒教からくる礼儀正しさは、単なる「うわべ」にすぎず、本質的な礼とは程遠い。その証拠と言ってはなんだが、相手の肩書きが外れた瞬間に猛烈な復讐が始まるのは、歴代の南朝鮮(韓国)の大統領の悲惨な末路を見れば一目瞭然であろう。 日本社会においても、残念ながら、こうした支那朝鮮の影響である儒教からくる上下関係の縛りが、社会の隅々を蝕んでいる。筆者のさらなる分析が求められるが、それがいつの頃からといえば、驚くことに明治の後から顕著になったというのが今のところの観察である。 しかし、腐っても日本、儒教は所詮、亜流の文化に過ぎない。本流たる大和魂を構成する、名こそ惜しけれ(武士道)、もののあわれ(枕草子に見られる世界)などは健在であり、その流れから、「思いやり」という日本独自の文化も生まれた。そして、ここで外せないのが、神道と仏教の存在である。 今回は神道の話を、と思っていたが、儒教の説明を優先してみた。次回に続けたい。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 14May
    • 日本文化が礼儀正しい文化である由縁

       筆者は常日頃から、儒教文化を激しく、主観的に否定している。客観的に言えば、儒教文化は年齢や立場、性別の違いを持って人間の上下を決める教えで、ただそれだけなのであるが、筆者の主観的な感覚からして、同じ人間であるのに、年齢が上か下か、組織内での肩書きが上か下かで相手の尊厳を踏みにじるような行為が許容される儒教文化が、どうにもやりきれないのである。人間は所詮人間であり、早く生まれたかどうかなど、大した問題ではないのは、年齢が人格と比例しないことを見えれば、読者の方々もご理解いただけると思う。 年配なら人間ができていて、年若ければ人間ができていないなどというのは幻想に過ぎない。実際、中小問わず、企業の上層部の年配者の腐敗の度合いは尋常ではないことが多い。筆者は長年大手と言われる企業で勤めた経験からも、それははっきりと客観的に見て取れるのである。 翻って日本の歴史を見ると、儒教文化の影響が日本史上で飛躍的に高まったとされる江戸時代ですら、所詮は「学問」としての儒教であり、生活の規範そのものとなっていた支那や朝鮮の儒教文化と比べれば、日本の儒教文化はほとんどあってなきレベルと言える。都市部での混浴、農村部で夜這いの風習など、儒教文化では考えられない話である。江戸時代、新井白石などがいくら頑張っても、所詮は、「お勉強」のレベルであり、生活に浸透する文化とはなり得なかったのである。 またこれも多少余談になるが、筆者の分析では、明治維新こそが日本が儒教文化に侵食されなかった決定的な証拠であるとも言える。実力ある20代の若者が藩で実権を持ち、ついにはその力で日本そのものを変えてしまうなど、牢固とした儒教規範で社会が固定しきっていた支那や朝鮮では、ついに最後まで不可能だった「劇的な」日本的な活力の証左であった。年齢も門閥も乗り越えた実力ある若者が時代を変革し引っ張っていったのである。これこそが、日本が儒教文化であり得ない決定的な、客観的証拠である。 話を本題に戻す。 日本が礼儀正しいと言われる文化を持つのは、儒教の影響であるかのように言われているが、実はそうではないというのが筆者の分析である。 その最たる根拠となるが、神道の存在であるが、続きは次回にまわしたい。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 13May
    • 移民が引き起こす悲劇(マルティカルチャリズムの行き着く先)

       別に驚く人もいなくなったのではないかと思えるほど、テロは日常茶飯事と化している。そんな中、12日のパリで通行人を殺傷するテロが起きた。チェチェンの出身だと言うことだが、現地報道によると2010年にフランスに帰化している、つまり、移民である。 私は経験で多くのフランス人と接してきたし、彼らの性質や文化をよく知るものとして、彼らが世界の中でとりわけ親切でもなんでもなく、時と場合によっては人種差別を露骨に出す人が多いということも知っている。同時に、何人かの気の置けない友人もいて、個人的な感情は可もなく不可もなくである。結局のところ、付き合う相手は国籍や人種、肌の色や宗教で決まるものではなく、相手のパーソナリティ、つまりは人格がすべてである。南朝鮮人であろうが支那人であろうが、人によっては話がわかるし、そう言う話が合う南朝鮮人やら支那人と酒を酌み交わす方が、売国的な日本人と酒を飲むよりも何百倍もいい。結局のところ、最終的に大事なのは、人柄ということである。 だから、差別の問題をあまり声高に論議しても行き着くところはだいたい決まっているのであるが、移民問題となると話は別である。 フランスでもドイツでもイギリスでもアメリカでもイタリアでもカナダでもノルウェーでもスウェーデンでも、先進国で移民を率先して受け入れてしまった国々は、深刻な分裂の危機を抱えている。つまり、現地住民と、現地の文化や伝統を受け入れずに頑なに自分たちのやり方、生き方を貫こうとする移民との軋轢である。その軋轢は、就職の差別となって現れたり、露骨な日常での差別となっても現れる。それに対する移民の怒りは時に犯罪という形で現れるし、時に暴動という形でも現れる。 移民には現地の文化を尊重する精神がない。現地住民には移民を受け入れる気持ちはない。こんな両者が政治的な目的と意図のみに支えられて共に住むような状況に置かれ、先進各国がヒポクリット(偽善的)に移民を受け入れ続けた結果が、現在の世界の混乱なのである。 他者を尊ぶ、他者を尊重する文化は、残念ながら、武士道精神や、もののあわれの精神を宿す日本の大和魂の中にしかない。それは思いやりを文化的要素として唯一持つ国だからこその文化である。 そんな日本も、長い間、支那大陸や朝鮮半島から流れ込んでいる儒教によって随分と蝕まれ、学校や企業、あるいは家庭でのパワーハラスメントやセクシャルハラスメントとして闇を抱え込んではいるが。大企業などで見られるが、肩書きやら年齢、あるいは性別の差を利用して他者に対して礼儀など一切ない態度で接している年配者の姿を見ると、筆者の主観的な話で恐縮だが、吐き気を催すほどの嫌悪を感じる。また若者で、暴力的な力を背景に他者(年配者か年下かを問わず)に対して威嚇的に接する姿を見るのも、これまた、誠に醜いものである。これらは儒教文化への反発の裏返しである。日本が儒教の愚かしさに気づいてそれを排除できる日が来るかどうか。日本は、名こそ惜しけれと、もののあわれを基調とする、大和魂の国であることを思い出す日が来るかどうか。 いずれにせよ、主観性の度合いの高い文化の国民同士が異文化異教徒などの違いを持って共生したらどうなるのか。一連のテロ事件が明確にものがたっている。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 12May
    • 敵は、常に、本能寺にあり(北朝鮮問題から)

       北朝鮮が、拉致問題はすでに解決しているのに日本がいつまでもぐだぐだ言ってるかのような下記の発言をした。 北朝鮮国営の朝鮮中央通信は12日、日本人拉致問題について「解決された」と主張、日本政府の拉致問題提起を「誰かの同情を買い、過去の清算を回避しようとしている」と非難した。(時事通信) まあ、儒教文化にどっぷり漬かった朝鮮から出てくる発言らしく、こちらとしては特に驚くにも値しない。しかし、この中で、「過去の清算を回避しようとしている」という言葉を使っていることに注目したい。  これは要するに、日本による1910年の日韓併合より、1945年までの間の「併合統治」のことについて言っているのであるが、これもまた客観的事実を180度変えて嘘を平気でつく儒教文化の朝鮮らしい発言である。実際、清算とは、「金を払え、謝罪しろ」ということであるが、客観的事実を見ると、金を払うのはむしろ北朝鮮(南も同じだが)であり、謝罪するのも北朝鮮でしかないことがはっきりとわかる具体的な事実しか出てこない。 ここで繰り返すのは避けるが、百田尚樹氏の「今こそ、韓国に謝ろう」という著作で詳しく書かれているように、何もない朝鮮半島に、農業、林業、インフラ設備、教育設備及び教育、病院などの衛生インフラ、道路、橋、ダム、、、と数え上げたらキリがないほどの投資を行った日本が、払わなければいけない金など一銭もないし、統合前と統合後では人口が倍にまで膨れ上がった朝鮮半島に謝罪する客観的事実など、ただの一つもありはしないのである。統合そのものも、当時の朝鮮の政府により要請され、国際法に基づき合法的になされたものであることを、改めて記しておく。 むしろ、あれだけのことをして日本がつぎ込んだ膨大な金の一部を返してもらわなければいけない話なのである。 と、ここまではいい。相手は所詮外国であり、おまけに嘘や歪曲がお得意の、恥の概念の欠落した儒教文化の国なので、ああいうことを言うのも織り込み済みである。 問題は、日本国内、こう言う朝鮮の主張をまともに受けて、それを支援して日本を背後から売ってくる「売国日本人」の存在である。これらこそが本当の日本の敵であることを忘れては、あっという間に朝鮮の思う壺となるだけである。 NHKや朝日新聞、毎日新聞などの大手マスメディアと、立憲民主党や希望の党、社民党や共産党などの野党がこれに当たることは言うまでもない。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 07May
    • 一つの中国、一つの日本、一つのフランス、一つのイギリス、そして一つの台湾

       支那共産党政府がアメリカに対して、台湾の表記に関して注文をつけているようである。アメリカは最近、親台湾の人間が政府の要職に就いたので、こうした動きは今後活発になるであろう。 筆者は随分以前のロンドンで台湾人学生とあった時、ある話をした。彼によると、授業中などでも「One China!!」と支那人学生が騒ぎ、喧嘩になるという話であった。 筆者はここで一つの提案をした。 「One China、結構ではないか。世界には、One Japanしかないし、One Franceしかない。One Britainであり、One Americaである。だからと当然、One Taiwanとなる。One China、One Japan、One Taiwan、こう言えばいいと。」 もともと、台湾は支那ではない。蒋介石と国民党の存在によって紛らわしくなってしまっただけで、台湾は台湾である。それ以上でもそれ以下でもない。チベットはチベットであり、ウイグルはウイグルであり、日本は日本であり、フランスはフランスであり、英国は英国であり、台湾は台湾である。それぞれたった一つしかないのは当然である。 台湾は支那とは全く異なる一つの国家なのであるから、一つの中国という支那の主張にはなんら関係しない話であると、世界中の良識ある人間が話せば、終わる話である。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 28Apr
    • 言語の違いが文化の違いーはいといいえの使い方からわかる日本文化の特殊性ー

       外国へ移り住んだ日本人が経験する辛さは、言葉が通じる通じないというよりも、あまりにもものの考え方、つまりは文化が違うということからやってくる。 言語は、文化である。これは間違いない客観的事実である。良いも悪いもなく、単なる事実である。 言語を解析することで、その言語が話されてる文化が見えてくる。今日はその話を少しだけしてみたい。 いきなり余談で恐縮だが、筆者は基本、外国人と日本語で話すのが大変嫌いである。その最たる理由は、彼らが「英語やフランス語やドイツ語や支那語で」日本語を話していることが非常に多いからである。お分かりになるだろうか。外国人は、文法的に正しい日本語を話すことは努力次第であるが比較的できる。しかしながら、「文化的に」正しく日本語を話すことができる人は、ものすごく少ないのである。もちろん、文化は体感しながら体得できるものであるから、その土地に住まずにそれを体得することは難しい。しかしながらそれを考慮したとしてもなお、外国人の日本文化の体得度の低さはあまりあるというのが、筆者の観察である。 正直、日本語を正確に話せる外国人は少ないし、それができる人たちはだいたいにおいて日本在住が長い人であったりするが、こういう人たちもまた、日本語を「文化的に」正確に話すことは極めて稀である。私の知る限り、それができているのはケントギルバートさんくらいのものである。 文法的、語彙的には正しくとも、「状況」あるいは「関係性」の中で絶対に使うはずがない言葉や表現を、外国人が平気で使うのは、彼らが、単純に、英語やフランス語やドイツ語や支那語を、そのまま日本語に「置き換えている」からに過ぎない。  ここで公平性を保つために大急ぎで付け加えるが、これは全く同じことが外国語を話す日本人にも言える。彼らは英語などを「日本語基準」で話すため、単に置き換えているだけで、外国人には、文法的、語彙的には理解できても内容的(文化的)には理解できないことが多いのもまた事実なのである。そんな状況で英語を話しても、ディベートの何もあったものではあるまい。 石破や岸田などが総理になったところで、またもや「舐められる日本」に逆戻りして終わりである。 さて、余談が過ぎた。本題に戻りたい。 日本語は、はいといいえを「相手に合わせて」使い分ける。英語やフランス語やドイツ語は、はいといいえを「内容に合わせて」使い分ける。日本語でも内容には合わせるのであるが、大きな違いは、「相手の言ってる内容に合わせる」日本語と、「相手の言ってる内容に左右されず、内容そのものの質に合わせる」外国語の違いである。これは日本の受験生が英語学習でもっとも苦しむ箇所の一つでもある。 例を持って説明すると、 日本語で、「あなたは英語を話せませんよね」と言われた時の回答は、話せない場合は「はい、話せません」となる。ところが、英語では、話せない場合は「いいえ、話せません」となる。つまり、返事の基準となるのが、あくまでも事実そのものであり、相手の質問の仕方、つまり、「否定形の聞き方か肯定形の聞き方か」は基準とならない。「あなたは英語を話せませんよね」というのは、否定形の質問である。日本語では、相手の言っている内容が正しい、つまり「話せませんよね」という内容を肯定するために、「はい、話せません」となる。 一方で、英語などでは、「話せない」という内容の否定部分に焦点があてられるため、「いいえ、話せません」となるのである。  日本語が、どれほど「相手に合わせる文化」の言語であるか、一目瞭然である。 このように、言語を解析すると、文化が理解できる。日本人が外国で評価を受けず、挙句にはバカにされたり舐められたりすることが多いのは、ひとえに、こうした文化の違い、考え方の違いがあるからである。 日本は、日本と、その他の外国と分類できるほど特殊な国である。こうした文化の違いを理解せずに外国に出て行けば、精神的にやられて終わるのは、明々白々たる事実である。 今日は日本文化の特殊性のほんの一端を解説してみた。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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    • 南北朝鮮首脳会談で確認できる当然の事実

       南北の朝鮮首脳が久しぶりの会談を行ったことで、マスメディアが騒いでいる。南北の首脳は抱き合い笑顔で交歓していたが、北朝鮮の工作員との噂の高い南朝鮮(韓国)大統領にとっては、まさに北の将軍に媚び諂う事こそが、彼の政治的(主観的)目的であることが明白であることを考えれば、当然の光景であった。 そんな中で、日本の拉致被害の話が会談で話し合われたかどうかが日本においてのみ焦点となっていたが、まあ、それがあったかどうかを確認する行為は客観的事実の確認として求められるとしても、結論は最初から決まっていた。 南北朝鮮の首脳が日本の拉致問題について会談中、時間を割いて話し合う可能性などは、限りなくゼロに近かったということである。 むしろ話し合ったとしたら、それこそが大げさでも何でもなく、驚天動地の話である。突然、イスラエルとイランが軍事同盟を結んで超友好国になるとか、イギリスやフランス、アメリカ、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガルなどが旧植民地諸国に対して彼らの実際に行った残虐非道な行為を認めて公式に謝罪するようなものである。原理主義的なアラブ諸国で、突然女性が民主的な手続き(選挙)によって国家の指導者として選出されるようなものである。独裁と腐敗の蔓延するアフリカ諸国で、ブラックマネー(賄賂)が一切横行しなくなるようなものである。私利私欲の最優先を根本的な判断基準とする儒教文化の支配する支那大陸や朝鮮半島あるいはベトナムで、公共精神が社会に広く認知されるようなものである。 日本のことなど、都合のいい時に利用して、後はひたすらに侮辱する対象としか考えていない南北の朝鮮が、日本人の生命と財産に関して注意や関心を払うことなど、絶対にありえない話である。もちろん、彼らの多大なる利益がその背後にある場合は話は別だが、そうでなく、純粋に公共の精神からそうした心配をすることなどは、ほぼほぼ、絶対にない。 そんな「当たり前」のことが、いまだに日本社会できちんと常識として認識されていないことの方が、よほど問題ではないのかと、筆者が主観的に、老婆心ながら感じた次第である。 そんな他人任せな心つもりでいれば、どれだけ時間が経過しようが拉致被害者は絶対に取り戻せないであろう。 読者の皆様はどのように感じられたか。 随所に主となれ 禅でいう本質的な言葉であるが、この意味を考える必要がある。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 13Apr
    • 立場上言い返せない人間に、立場を利用して高圧的に接する儒教精神

       これは筆者の個人的な意識でもあるので、そうじゃない人にとっては「知らんがな」という話になる。 日頃からいっているように、日本精神、つまり、大和魂とは、武士道精神の「名こそ惜しけれ」、そして「もののあわれ」を基調とするものであるというのが筆者の分析である。したがって、大和魂では「卑怯」というものは名を汚すものでもっとも忌み嫌われる。 年齢、組織での肩書き、などの立場の「差」を利用して、言い返したくても言い返せない(会社を辞めれない、出世に響く、お金を稼がなければならいなどの理由で)相手をつかまえて傲慢に振る舞い、傍若無人な言葉を投げかけるパワハラを行う人間は、こうした大和魂を持たないということになる。こういう人は、年齢や立場で「下」とみなした(単にその人がみなしているだけで実際下であるわけではない)相手に対して侮辱し、恫喝し、失礼極まりない態度をとる。そしてこれは、まさしく、大陸や半島で主流となる「儒教精神文化」を基調とする行為である。 別にどちらがいいかという話ではない。良いか悪いかは主観の問題であり、個人の判断による。 ただ、筆者は客観的にこれらを観察した上で、主観的に感じるのは、「薄汚い」ということである。筆者の主観でまことに恐縮であるが、こうした、立場を利用して言い返せない相手に傲岸不遜に振る舞う日本人は、儒教精神文化にまみれてしまった、まことに「薄汚い」人間であり、こうした人たちが現に、日本社会の隅々にはびこっている状況に、ただただ情けなさを感じる次第である。  森友や加計の問題をめぐるマスメディア、立憲民主、希望、民主、日本共産などの態度は、まさに上記の大陸、半島の儒教精神文化に基づく。 読者の方々はどのように感じられるか。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

      14
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  • 04Apr
    • 権威と権力を明確に分けてきた日本の国柄の話

       上記の記事は一年以上に前に書いたものであるが、筆者が綴って来た記事の中でもとりわけ思い入れの深い記事である。当時は文字に色をつけてきたので読みくいかもしれないが興味のある方は是非。 さて、権威と権力の話。この二つを同時に付帯しているのが現代の独裁者である。北朝鮮の委員長、韓国の大統領、シナ共産党の党主席はまさにこの例に当たる。 先進国を眺めれば、明確にこの二つは別れている。基本的に民主主義国には民衆による選挙があるので、その選挙を拠り所にする意味で、権力は民衆の手にあると言える。選挙の結果、選ばれるのが大統領であったり総理大臣であったりするのは、その国が権威と権力をどう分けているかによる。日本や英国、ベルギーやスペインなど皇室や王室を擁する国では選ばれるのは行政の長たる総理大臣であり、選ばれた総理大臣は「権威」の拠り所となる天皇陛下や国王という「権威」に任命される。権力は総理大臣(民衆)に、権威は元首である天皇や国王に、と明確に権威と権力が別れている。別れることで政治的安定が保たれているのである。 皇帝を戦争後無くされたドイツ、自らの手で国王の首を切断したフランスなどはそれぞれ少し異なるが似たような制度を持っている。民衆による選挙で選ばれた大統領(権威)が総理大臣(権力)を選んで行政を任せる(フランス型)か、選挙によって選ばれた大統領(権威)がこれまた選挙によって選ばれた多数派政党の党首を首相(権力)に推薦するか(ドイツ型)。ドイツでは大統領による推薦は形式的で、実質的には選挙で勝利した党の党首が首相に選出される。 アメリカは少し特殊で大統領(権威)が同時に行政権(権力)をもつが、その強大な権限を抑えるため、議会(上院と下院)が相当な権限を有する。つまり、権威も権力も、大統領と議会との間でそれぞれ分割されるのである。日本の総理大臣の方がアメリカの大統領よりもはるかにたくさんの行政決定権を持つことは周知の事実である。しかし何れにせよ、アメリカの大統領はアメリカの元首(権威)であり、同時に行政官(権力)である。これは少し特殊な例。大統領に対抗するためのアメリカの議会の権威の高さもその特殊性を裏打ちしている。 日本、イギリス、カナダに関しては、それぞれ、天皇陛下やイギリス国王が権威としての役割を果たし、権力は選挙で民衆に選ばれた総理大臣が担うことになる。 この権威と権力を分けるという状況が、イギリスでは先進的に他の欧州諸国に先んじて発達してきたが、その端緒は、ジョン王の権限を抑制するため、貴族たちが権威と権力を分離する動きを強めたことにある。これは1200年頃のことであり、筆者が以前のブログで指摘した鎌倉幕府の成立の頃に符合する。ただし、イギリスではこの後も王による直接統治の動きが、首相の任命やら更迭、あるいは行政の施工拒否などを通じて折々見て取れるのが事実である。 一方日本では、源頼朝の鎌倉幕府成立後、後白河上皇やら後醍醐天皇やらの動きはあったにせよ、概ね権威(皇室)と権力(武家政権)との分離はしっかりとなされており、さらにはその最初の動きは嵯峨天皇(786−842)にまで遡ることを考えれば、イギリスのジョン王の時代に先んじること実に400年ということになる。 そうした意味でも、やはり日本は実に先進的な国家であると言えるのである。客観的事実としての話である。 倉山満氏のご著作にはこうした流れにつて詳しく書かれているので、ご興味ある方には是非ともオススメしたい。氏のご著作を読んだときは、少なからず筆者が観察したことと近いことが書かれていたと感じたものである。もちろん、筆者、倉山氏の足元にも及ばないが。 西洋の方が断然進んでいて日本は遅れた国、こうした認識は根強く、また西洋人の間のみならず日本人の中にも強く根付いている。しかし物事を客観的に眺めれば、まさしく目の覚めるような事実がたくさんあるのである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 28Mar
    • 天網恢恢疎にして漏らさず

       安倍政権が憲法改正に本格的に着手し、その動きが実現の芽を見せはじめた頃から、森友学園問題、加計学園問題と、野党やマスメディア、小中高大の学校教師、自治労など労働組合系の勢力が、なりふりを構わず安倍政権を潰しにかかってきた。嘘や歪曲、誇張はゆうに及ばず、もはや叩いても埃も出ないことを百も承知した上で安倍政権の支持率を下げる為のみを目的に、繰り返し繰り返しデタラメを流している。財務省や日銀の一部の勢力はこの動きを利用して安倍政権を潰すように動いているようにも見える(確たる証拠はないものの、先日の和田政宗議員の質問は本質をついていた)。 毎日新聞は何を血迷ったか、新宿に集まったプロ市民(サヨク活動家)の反安倍政権デモの集会をユーチューブに「市民の声」としてアップしていた。その内容たるや完全に主観的で、なんの証拠もない思い込みの話を客観的事実として大々的に宣伝する単なるプロパガンダ集会であった。当然、嵐のような批判に晒されるのだが、それを恐れてか、コメントは全て禁止、あたかも北朝鮮や中華人民虐殺共和国、大韓民国並みの言論統制を行なっていた。自由を標榜する左派系の彼らが愛してやまないこれらの三カ国は、身の毛もよだつような人権弾圧と言論封殺の国々ばかりであるのも、日本のサヨク諸君の本質を端的に表している。 彼らは、マスメディアや教育現場を抑えている為、嘘や歪曲、誇張などをやりたい放題にやっているが、どうせ日本は自由の国だから罰せられないとたかをくくっているのであろう。バイキングの司会者などは、そうした腐敗し切ったメディアのコメンテーターの驕り高ぶりを見事に象徴している存在である。 しかし、彼らにとって残念ながら、もはや時代はインターネットをはじめとする情報化社会であり、以前のようなごまかしは時間とともに必ず浮き彫りになってくるようになってしまった。 まさに、老子の言う所の、 天網恢恢疎にして漏らさず である。 勢いと高慢、憎しみと傲慢さだけで民衆を騙してきた共産主義の亡霊たちの本当の姿が、今こうして明らかになっている。 天網恢恢疎にして漏らさず  一連の動きを眺めていると、この言葉がふと、筆者の頭に浮かんできたものである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 24Mar
    • 偏向報道が露骨な日本のメジャー新聞/テレビ

       偏向報道やら歪曲報道が噂れることはこれまでもいくらでもあったが、これほどまでに「はっきり」と「明らかに」偏向報道が視聴者によって現在進行形で認識されることが「当たり前」となる時代が来たのは、明らかにインターネットの普及のお陰でであろう。 現在、日本の報道番組ではあからさまに偏向報道が行われており、それをマスメディア御用知識人が援護している。 先ほど見ていたTBS系の報道番組でも、和田政宗議員の参議院の委員会での質問を切りはりして報道していた。「増税派だからアベノミクスを潰すために」という部分をしっかりと「削除」して報道していた。 この国は、北朝鮮か、中華人民虐殺共和国かぞれとも大韓民国か。私益を追求するためなら嘘も歪曲もまかり通るというのか。 安倍政権を潰すためなら、事実を歪めてでも報道し、視聴者を洗脳することを厭わない日本のメジャーなテレビや新聞。 法律違反の天下りを斡旋してクビになり、暴力団の資金源となっていた売春斡旋の出会い系バーに入り浸っていた前川喜平を名古屋市立の中学校に講師として招いたことに問い合わせをした自民党議員を悪魔化して報道するこの狂った報道機関の姿勢。まさに和田議員の指摘した通り、増税を目論み安倍政権を潰したい財務省とサヨクマスメディアが一体となっているこの森友問題。 日本が真に「まとも」な、客観的な国になる日はいつのことなのか。 地上波のメディアに接する時には細心の注意が求められる。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 18Mar
    • 森友問題で1年以上も紛糾できる程度の低い国

       2017年の年初め以来、なんと一年以上経っても森友学園の問題で紛糾している。この日本という国の状況をみたとき、主観的な感想ながら驚くほどのレベルの低さを感じざるを得ない。しかし、最近筆者は、こうした程度の低いマスメディアや野党や財務省などのエリートたちの傾向が、戦後の日本のそのものの姿だったのではないかと感じ始めている。 おそらくは、戦後一貫してこの程度の低い状態が続いてきたのが日本という国の実態であろう。岸首相や池田勇人首相、あるいは民間の中に時折隠れている客観的に物事を見ることができる人材の下支えによって、さらにはそうした基調を支える大きな時代の流れにのって戦後の経済成長が継続されてきたのであろう。高橋洋一氏が著作の中で紹介しているように、戦後の固定相場制、そこからの絶妙のタイミングでの変動相場制への移行なども経済成長につながった要因であるし、かなり重要な要因であるが、それと合わせて、官民合わせての数少ない舵取りの達人によって、日本という国は戦後の成長を歩んできたというのが筆者の分析である。 しかし、その一方で、マスメディアの大半、野党(社民、共産、立憲民主、希望)、小中高大の教職員、大企業の上層部、官公庁の幹部などの程度の低い層が、大陸や半島の儒教精神を基調とした「極めて主観性の度合いの高い」行動指針を基に政治、経済、教育活動を続けてきた。インターネットが発達していなかった時代には、多くの国民が彼らによる情報操作に制御されてきた。そうした状況が長く長く続いてきたことが、この森友学園のから騒ぎ騒動、加計学園の歪曲報道、財務省の文書書き換えの問題、文部科学省官僚トップの法律違反の天下り斡旋や、新宿の売春宿通いなどの一連の問題をして安倍政権の支持率を引き下げている。 問題の本質には一切触れず、歪曲、誇張、曲解を通して、彼らの目的である安倍政権打倒を目指して突き進んでいる。安倍政権を潰すためなら、嘘も厭わず、歪曲も厭わず、から騒ぎも厭わず、手段を一切選ばないというその姿勢は、日本に伝統的にはない、大陸や半島の儒教文化を濃厚に感じさせる。 マクロ経済政策を誤ることが、戦前、ソビエト連邦のコミンテルンの指導のもと朝日新聞記者の尾崎秀実などの工作員の暗躍を介して対米開戦の愚を踏ませたほどの、国を滅ぼすほどの危険であることを知る国民は、ほとんどいない。東京大学を卒業したエリートが、戦前戦中を通して我が身の立身出世のみを行動指針とした陸海軍のエリート層と酷似していることを認知する国民もほとんどいない。 大手と呼ばれる一流の大企業の上層部が、人間性の破綻した人々で占められているがゆえに、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントなどが恒常的になくならないことを知る人も、ほとんどいない。 情報こそが、今後の世界を変える鍵となる。情報を取捨選択して確認できる国民が増えることが、今後の日本の動向を決定する。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 04Mar
    • ドイツ、メルケル政権の継続により見えること

       ドイツでメルケル政権の続行が決定した。超長期政権の誕生である。 メルケルは、東ドイツ出身であるが、戦後民主主義的思想を前面に打ち出しているため、比較的リベラル陣営から好意的に見られている。移民に対する政策でも明確なように、保守的傾向はほとんどない。 しかしながら、ドイツの地方都市ではメルケル政権による無計画な移民受け入れ政策に対する怒りは強い。マスメディアが左翼的なのはアメリカや日本、フランスなどとドイツでも同じなので、そうした地方のナショナリズムに基づく怒りの声はあまり広められないが、実際には厳として存在する。 そんなメルケル政権は実は欧州連合加盟の貧しい国にとってはとんでもない人物であることはあまり日本では知られていない。簡単に言ってしまうと、ドイツは欧州連合加盟国の中で少数派の勝ち組である。EUという組織がドイツに利するためにあるのではないかと思えてならないほど、ドイツはこの枠組みの中で利益を得てきたし今も得ている。通常であれば為替の変動で伸びるはずのない輸出が、統一通貨というまやかしのため歯止めがかからない。そのため、実際のキャパシティを超える量の輸入をする国が増え、結果財政破綻につながる。 さらに悪いことに、そうした国々には統一通貨ゆえ、金融政策が不可能であり、市場のマネーの調整をできない。その上、財政政策では、欧州中央政府(実質的にドイツ主導)により極端な緊縮財政を半ば強制されており、逆らうことはできない。結果、景気を回復するための両手両足を縛られてボコボコに殴られる(ドイツなどの少数の勝ち組国により)という事態が延々と続いているのである。 それがいいか悪いかは「立場による」ので、別にここで結論を出す気はない(出すこともできない)が、今回のメルケル政権の継続により、多くの欧州の貧しい国が、これからも失業率の高さ、景気の悪さに苦しめられる現実が続くであろうことは、容易に予想されるのである。 読者の方々はどのように感じられるか。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 28Feb
    • 捏造やまない日本のメディアの儒教精神

       日本の大手メディアの捏造記事には眼に余るものがある。朝日新聞や毎日新聞などの歴史捏造記事はもちろん、日本経済新聞もマクロ経済学の基礎の基礎を無視したとんでも記事を財務省官僚の指導のまま平気で載せる今日この頃である。 地上波のテレビも恥を知らないという部分では大手の新聞の右へ倣えである。 慰安婦の強制連行の嘘、南京での虐殺の嘘、サンゴ礁をわざと傷つけてそれを記事にする朝日新聞の体質は、もはや病気のレベルであろう。  こうした日本のメディアの捏造歪曲体質を、首を傾げて眺める人は多い。それぞれの記者たちは、東京大学やら早稲田大学やら慶應大学やらの一流と言われる大学を出た人ばかりであるのに、なぜ?ということである。 筆者の客観的な分析では、これらは単純な話で、支那大陸、朝鮮半島を支配する儒教文化の影響を多分に受けた人間が多すぎるということである。儒教においては何よりも「外見」や「見た目」が重視される。儒教においては中身は全く重視されない。大切なのは常に、「見てくれ(外見)」である。 そうした儒教的価値観の中では、平和、反戦、自由、平等などの美辞麗句の絶対的価値感を守るためには、実よりも虚、つまり自分達に都合が悪い真実よりも、都合の良い嘘を採用して体裁を保つことが優先される。 要は、儒教的価値観、儒教的精神こそが、日本社会を腐敗させているということである。 無論、これらはあくまでも、客観的データに基づくとはいえ、「分析」なので、賛否は分かれるところであろう。読者の方々はどのように感じられたか。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識 p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 26Feb
    • 好きか嫌いかは非論理の世界

       ここのところお隣の大陸や半島の話に集中してしまっているが、また少しこの話をしてみたい。 好き嫌いは主観的な問題であって、他者がとやかく言うことはできないし、言っても何の意味もない。 主観は個人に属し、客観は万人に属する以上、仕方のないことである。  筆者は個人的に、しめ鯖などの光り物と呼ばれる魚介類が大の苦手である。なぜ嫌いかと言われれば、あの味が何とも言えずに不味いと感じるからであり、ではなぜ不味いと感じるかと聞かれれば、それは「不味いと感じるから」としか答えようがない話である。また筆者は個人的に読書など知識の収集に関心があり、ファッションなどにはほとんど関心を持たない。なぜそうなのかと問われても、究極的には、ただ「そうだから」としか答えは導き出せない。 このように、論理的な説明が完全に不可能なのが主観的な話である。 一方で客観的な話に関しては主観的な気持ちなど一切関係なく、万人が等しく観察できる。もちろん、主観的に意図的に歪曲しようとしなければの話であるが。例えて言うと、昨日はどこそこの地方では雨が降っていたか晴れていたかという話では、雨が好きだろうが嫌いだろうが、その地方が好きだろうが嫌いだろうが関係なく、その事実は不変であるということである。 話を南朝鮮の話に戻す。歴史問題や政治問題に関心のある人には、韓国に好意を持つことはなかなか困難である。それは当然で、これだけ歴史歪曲を繰り返され、世界中に日本を貶めるための嘘をばらまかれ、国内では子供達に反日洗脳教育を施し、何かあれば意味不明の謝罪と賠償を強要してくる韓国を好きになれるわけがない。 ところが、ご存知のように、そんな中でも熱狂的な韓国ファンは一定数いて、女性男性を問わず、これでもかというほど韓国を愛している日本人は結構いるのである。 歴史、政治、スポーツの観点から韓国に嫌悪感を抱く人にとっては、こうした韓流に乗って喜んでいる人たちは到底理解できないし、ある意味侮蔑の対象となる。 しかしここで思い出していただきたいのは、「好きは主観であり、論理的説明不可能」であることである。韓流好きの彼らあるいは彼女らにとって、歴史や政治、スポーツの分野でどれだけ韓国が無茶苦茶なことをしようが、それらは目に入らないか気にもならないのである。嫌いな人にとっては理解不能でも、彼らは「主観的に」それらの部分が気にならないのである。 まさに、「こんなに不味いしめ鯖をなぜあんなに美味しそうに食べれるんだ」という疑問と同じである。 そしてそれに対する答えは、「ただそうであるから」にすぎない。 主観的意見は個人により千差万別であり、一致しない場合は他者には永遠に理解できないものであるので、そこにこだわって生きていても時間の無駄だったりすることを今回は書いてみた。  価値観の合う人と話ができるのは幸せなことであるが、価値観の合わない人とは単純に距離を置くことで人生を過ごした方が、短い人生を楽しめるというのが筆者の主観的意見である。価値観の合わない人を殲滅するのは、まさに大陸や半島にある主観性の度合いの高い儒教文化圏の性質であり、和の精神を基調とする日本文化にはない性質である。共産主義なども儒教的要素が非常に強い思想である。 最後に付け足すと、筆者は主観的に日本ファーストであり、反日勢力に対して常に客観的分析をもとにした批評を心がけていることはいうまでもない。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 21Feb
    • 韓国人スターターにみる平昌五輪の深い闇

       既に各方面から声が上がっている話である。平昌五輪で金メダルを獲得した小平奈緒選手も証言しているように、スターターが明らかに小日向選手の出場の時にタイミングをずらした。意図的かどうかは検証不可能であろうが、タイミングが大幅にずれたのは事実である。その上、変な音がしたために、思わず体が動いてしまったという。 青山繁晴氏も虎ノ門ニュースで指摘しているように、銀メダルを取った韓国人選手が絡んでいる話ではないであろう。しかし、南朝鮮の中で、明らかにドス黒い空気があったことは、憶測の域を出ないことではあるにせよ十分に考えられることである。 慰安婦の問題、歴史捏造の問題でも明らかなように、儒教を基調とする朝鮮の文化においては、「潔さ」や「名こそ惜しけれ」の「実」を重んじる文化はない。あるのは、徹底して表面を取り繕う「虚栄」の文化である。外見や表面の美しさ、体裁のみにこだわるその姿勢は、実に女性の6〜7割以上が整形をするという(一説ではさらに高い割合で)社会潮流となって現れてくる。中身はスカスカでも包みを美しく包装すればそれで良い訳である。 もちろん、日本でも最近はこうした「儒教傾向」をもつ人が増えているのも見逃せない客観的事実ではあるが。 いずれにせよ、目的を達成するためには手段を選ばず、捏造してでも、また相手を引き摺り下ろしてでも優位に立とうする文化であることを考えれば、今回の実に奇妙な女子500メートルのスターターと奇妙な音の意味が読み取れてくる。 いずれにせよ、そうした淀んだ空気の中でも金メダルをとられた小平選手には、敬意を感じるばかりである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。  初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 17Feb
    • 法律よりも感情が優先される国(韓国・中国)

       盛り上がりを見せている平昌オリンピック。日本勢の活躍を期待したいところである。 その平昌オリンピックの会場の側に虚偽の慰安婦像が設置されていることは有名である。一人でも多くの外国人を洗脳して帰国してもらうつもりだと推測される。 ソウルにある日本大使館前、釜山にある日本総領事館前に設置された虚偽の慰安婦像は、南朝鮮(韓国)の法律に照らし合わせて道路交通法違反の設置物である。しかし、政治的な理由、つまりは主観的な感情的な理由によって撤去されずに放置されている。シナも南朝鮮も同じなのであるが、法治国家ではないので、政府の主観的な感情によって法律は次々と捻じ曲げられる。この理屈で言うと、人を殺しても感情的に許されるのであれば逮捕拘束されず、裁判にもかけられないということになる。また逆の言い方をすれば、何もしていなくても、つまり法律に違反していなくても逮捕拘束、裁判にかけられる可能性もあるということである。 つまり、なんでもありである。 こういう恐ろしい国を旅行する際は、冗談でもなんでもなく本当に気をつけなければいけない。ビジネスで進出するなどはっきり言って正気の沙汰ではない。もちろん、危険大好きで、投資したお金を全て捨てることに喜びを感じるのであれば、それは個人の自由なので側がとやかくいうことではないが。 とある欧米のスケーターが転んだことで、南朝鮮のメダル候補の選手が巻き込まれてしまい、メダル獲得に至らなかったことで、恐ろしい数の韓国人ストーカーがその選手のSNSを攻撃し、ついにその欧米の選手は恐怖のあまりSNSのアカウントを閉鎖したという報道を見た。 欧米人にとって、シナも朝鮮も日本も全部同じという関心の低さが一般的であるが、こういう事象が続くようであれば、やはりシナや朝鮮の異常性と日本との違いを意識せざるを得なくなるであろう。 スターバックス取締役でアメリカのNBCの解説者が、日本が韓国のお手本となったという歴史的事実を述べただけで、併合時代を美化したとして恐ろしいほどのストーカー攻撃を受けている。 主観性の度合いが恐ろしく高く、感情的で、客観性(事実を直視できる力)の度合いが恐ろしいほど低い儒教文化(シナ、朝鮮)の人々は、すぐにストーカーとなって身の毛もよだつ攻撃を繰り返す。 ただ、日本も気をつけなければならないのは、欧米で紹介されてしまった(Stupeur et Tremblements)ように、ブラック企業のパワーハラスメントが横行していることである。これは映画化もされているので、ご興味のある方は見られることをお勧めする。ベルギーの女性が実体験として出版したものである。 パワハラはまさしく大陸半島系の儒教文化であり、これを肩書きやら年齢差、あるいは性別の違いを利用して繰り返す人たちは、日本文化の武士道精神に照らし合わせても「恥ずべきこと」である認識をもった方がいい。これはあくまで、筆者の主観的意見ではあるが。 日本は儒教の国ではなく、武士道精神と「もののあわれ」を基調とした大和魂の国であることを、今一度客観的に認識する必要がある。 平昌オリンピックで、多くの外国人選手や日本人選手、外国からきている観戦客が不快な思いをすることなく穏やかに終了することを祈るばかりである。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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  • 13Feb
    • 100回繰り返しても嘘は嘘(慰安婦、南京)

       冬季オリンピックで盛り上がっている南朝鮮(韓国)。無事に大会が終わることを、老婆心ながら祈るばかりである。無事にと言うのは、選手や外国からの来客が不快で危険な思いをなるべくすることなく、という意味であるが。 さて、その南朝鮮。慰安婦の問題で、完全な嘘を「歴史的真実」と銘打って世界中で日本の評価を貶めるべく、日々涙ぐましい努力をしていることは周知のとおりである。その努力の成果もあり、また日本国内の反日勢力(大手メディアや野党勢力)の協力もあり、それなりの成果を上げてきている。カリフォルニアでは、南京と慰安婦の問題で、先日謎の死を遂げた反日シナ系市長の協力のもと、市公認の慰安婦像を実現している。世界中に虚偽の慰安婦像を打ち立て続ける南朝鮮。南京の虚偽の虐殺を広めることに必死なシナ共産党と二人三脚の日々である。 南朝鮮やシナ共産党の戦略方針は実は実に単純で、「嘘も100回つけば真実になる」というコンセプトである。証拠がなかろうが、証言が全て破綻していようが、そんなことは関係なく、ものともせず、ひたすらに嘘を世界中に垂れ流して日本のイメージを貶めるべく邁進している。 しかし、南朝鮮やシナ共産党にとって残念ながら、真実は必ず明らかになるのが、これまた歴史の法則なのである。時間がかかることはあっても、真実が完全に闇に葬り去られることはない。実に不思議なのであるが、これもまた地球の法則なのかもしれない。小さな動きとしても、必ず虚偽を暴くエネルギーは耐えることがない。 目先の利益のためなら平気で他者を陥れ、嘘をつき、責任をなすりつけ、プロパガンダを垂れ流す南朝鮮とシナ共産党。嘘を100回繰り返しても、真実を闇に葬り去ることはできないということに気づくのはいつの日であることか。 嘘は、たとえ100回繰り返したところで、真実にはなり得ない。 今回もお読みいただき、ありがとうございます。 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。 主観と客観 客観についての補足 外国人には思い遣りがガチでないという事実 優しさ(主観的)と思いやり(客観的) 二種類の「正しさ」 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識p>国際政治・外交 ブログランキングへ

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