海外と日本とを比較すると出てくる違いは数えきれないが、今日は特に、日本社会に寄生虫として入り込み、曲がりなりにも亜流の「文化的要素」ともなってしまっている「儒教」の持つ側面について見てみたい。

 

 海外に出た日本人が感じる日本とその他の国との大きな違いは「空気の軽さ」であるが、これは「思い遣りの有る無し」とともに、「儒教的価値観」の有る無しにも大きく関係している。

 

 儒教文化は基本的に「年齢」や「肩書き(地位)」の差を利用した階級差を築くことである。欧米には「年齢差」による上下関係はあまりない。しかし「肩書き(地位)」の違いによる上下関係は当然欧米にも存在する。しかしこの上下関係によってパワハラが横行する可能性は、日本に比べるとやはり「少ない」と言わざるを得ないのは、立場や権限が上のものが立場や権限においてより立場が低いものに対して「有無を言わせぬ態度」を取ることは、文化的にあり得ないからである。儒教が加わると、これに「年齢」の要素が加わり、若い人、あるいは地位の低い人たちには実に疲れる状況が生まれる。

 

 片方が非敬語で一方的に「◯◯をしとけ」と命令したり、年齢が上、あるいは地位肩書きが上の側がそれらが下の人々に反論を一切許さず強圧的に話をすることは、欧米ではまずあまりない。そもそも欧米言語には「敬語がない」ので当然であるが、結果最終的に上下下達の命令になるとしても、そこには何らかの「コミュニケーション」がある。立場の弱い側も、自分たちの考えをのべる余地はあると言うことである。

 

 一方で、大陸や半島の儒教文化に汚染された日本の企業社会の人々は、ひたすらに理不尽な態度で立場の弱い側に一方的な命令の伝達を強圧的な態度で繰り返す。のみならず、会話の端々で立場の弱い側の人権や人格を踏みにじるような言い方や表現をふんだんに用いる。それに対する立場の弱い側の反論は一切許さない。つまり、「コミュニーケーション」の欠如である。

 

 これがいかに人間同士の関係を考えたときに「異常」なことであるか。そうした状況がどれほど立場の弱い人々に甚大なストレスを与えるか。そうした状況によってブラック企業での「自殺」が発生することは、当たり前のことである。また、追い詰められる人々は生きることになんの楽しみもてず、退廃的な空気を生み出す。

 

 これこそが、カオスな外国をして「天国」と日本人の若い人たちに思わせてしまう最大の要因なのである。

 

 そもそも、会社の中で、年齢差や肩書きを利用して「言い返せぬこと」を当然として相手を侮辱したり罵倒したり追い詰めたりすることは、人として最低の行為であると言う認識がないこと自体、儒教に侵されていることの証左である。

 

 武士道の根幹精神は、「名こそ惜しけれ」である。これは、要するに、もっとも大切なものは名誉であり、その名誉を汚すようなことは決してしてはならないと言う日本的土壌が生み出した高い倫理観なのである。そうした中で、弱きを助けて強気をくじくという倫理観が育まれる。日本にはその精神文化が確実に定着しているが、儒教文化に汚染されすぎるとこの面が一気に交代し、大陸や半島の人々のように振る舞い始める。そしてコミュニケーション障害の年配者や肩書きの上級のものでオフィスは汚染され、若者は苦痛の中で理不尽な侮辱に耐えなければいけない状況が延々と生み出され続ける。

 

 立場の弱い人を権力を利用して侮辱したり罵倒するなど、筆者の個人的感情ではあるが、人間のクズのやることである。

 

 人間関係は縦ではなく、横である。天皇陛下のような特別なご存在は抜いて、日本はもともと一君万民の文化である。一天の君の前では人は全て平等であるという、実に特殊な文化は、戦後民主主義という魔物によってさらに後退している。最近流行っているアドラー心理学は、まさにこの「横の関係」を忘れた人々に対する警鐘に他ならないと考えるのは、筆者だけではあるまい。

 

 また次回の主題となるが、日本にこの儒教が根付かず、本流の文化が「武士道」や「もののあわれ」であったことこそが、かの「明治維新の奇跡」を生み出した根本原因である。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 

p>
国際政治・外交 ブログランキングへ