儒教とは、客観的にいって孔子の教えである。そして、支那大陸と朝鮮半島、及びベトナムで文化の中心、主流となっている価値観でもある。長幼の序、孝の精神、忠の精神と、先祖崇拝の精神と、シナ人や朝鮮人やベトナム人が誇らしげに語る倫理的美徳が連なる。

 

 しかし、シナでも、次に生まれ変わるなら絶対にシナ人になりたくない、豚となって生まれ変わった方がまだマシだという、本音の部分が調査などで明らかになるなど、はたから見ていて「本当に儒教文化って誇らしいものなの?」と疑わしくなる。南朝鮮(韓国)でも、8割の国民がアメリカやカナダやオーストラリアへの移民を希望しているという異常な状況である。

 

 つまるところ、儒教精神というものは、社会の停滞には大いに威力を発揮するが社会の進展や発展にはマイナスの効用しかないのである。客観的な話である。

 

 良いか悪いかの話ではない。こういう状況が良いと思う人もいると思う。その人たちには、こういう状況が嬉しいことなのであるから。

 

 客観的に見て、長幼の序というものは、日本社会でも発展に貢献してはこなかった。明治の維新は革命といっても過言ではないほどの大改革だったが、この際にイニシアティブをとったのは、身分も低い、年齢も若い若者(志士)たちであった。高杉晋作も活躍したのは20代の頃である。亡くなった時には27歳だった。

 

 これはまさしく、日本という国が、大陸半島から入り込んだ亜流の儒教文化をあくまでも亜流として本流に入れなかったことによる。こうした若者たちによる抜本的な改革運動など、儒教文化にどっぷり浸かりきったシナや朝鮮では、絶対にありえない話だからである。そしてその違いこそが、維新を成し遂げた日本と、遂に最後まで自力で改革が不可能だったシナや朝鮮との最大の違いでもある。

 

 大東亜戦争ののち、日本は経済発展に専心した。その結果、見事に世界第二位の経済大国にまで復活した。しかし、今、現代日本を眺めると、ブラック企業という言葉でわかるように、シナや朝鮮を支配する、日本においては亜流の儒教文化が至るところにはびこっている。ブラック企業、パワハラ会議などはまさにその証拠である。

 

 なんの能力もない、学歴と年齢だけの人間が、大企業では管理職として踏ん反り返り、組織の硬直を促進し、その結果、優秀なエンジニアや人材などの、金にものを言わせて使うだけ使ったら使い捨てるシナ朝鮮企業への流出を促進している。自由闊達で透き通るような風を受ける、まさに大和の国の本来の文化そのものと言える風土を退化させ、シナ朝鮮式の長幼の序という儒教文化を前面に押し出して、細かい規則でがんじがらめにして、陰鬱な空間を作り出している。

 

 今、日本に求められるのは、本来の大和魂(質実剛健)へ立ち返り、亜流として入り込んだ、寄生虫文化であるシナ朝鮮の儒教文化を捨てる覚悟であるというのが、筆者の主観的な意見である。

 

 年上は年下を、年下は年上を、互いに対等に尊重しあうことこそが、本来の日本文化であり、年上が威張り散らし、年下が理不尽に忍従を強いられるなど、本来の日本文化にはない。そういう一方通行の状況は、礼の国の文化ではなく、パワハラのまかり通るシナ朝鮮の文化である。年上も年下も、互いに互いに敬意を払うことで、風通しの良い環境が実現するのである。

 

 読者の皆様に置かれてはどのように感じられたか。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 


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