今回の話は、保守層に多い話である。

 

 ご存知のように、シナと南北朝鮮は押しも押されぬ反日の大国である。自他共に認める反日国家として日々日本の国際社会における評価をとにかく失墜させるべく、全力を注いでいる。客観的事実である。

 

 他にやることは腐る程あると思われるが、とにかくシナと南北朝鮮は命をかけて日本の国際社会の評価を下げることに全力を傾けている。ご苦労なことである。

 

 さて、そういうシナや南北朝鮮を見て、気分の良い日本人はあまりいない。もちろん、朝日新聞や毎日新聞をはじめ民放各局やNHKなどの反日メディアの人たちや民進党や共産党の野党、あるいは小中高大にはびこる左翼教師たち、あるいは反日弁護士。こういう人たちは、日本がシナや朝鮮に侮辱され、世界から見下されることでエクスタシーを感じているようで、シナや韓国や北朝鮮とともに国連で日本弾圧キャンペーンにいそしんでいたりする。これまた客観的事実である。

 

 こういった現状であるので、シナや韓国、北朝鮮に対して嫌悪感を主観的に感じる人が多いのは心理的によく理解できるし、人間は感情の動物であることを考えれば当然至極のことである。

 

 その反動であろう。日本人、特に保守層の中には、シナや韓国北朝鮮以外の外国に過剰なまでの期待と親近感を寄せている人が多いのである。これもまた客観的事実である。

 

 インドなどはその典型例である。インドは言わずと知れたアジアの大国。核兵器も保有している。今現在、シナの直接の脅威となりうるアジアの大国は、日本を除けばこのインドだけである。そしてこのインド、親日国としても非常に知られている。歴史的には、インドを支配していたイギリス軍と日本は戦っている。その際、大勢のインド人が日本軍と行動を共にした。日本兵はイギリス兵と完全に異なり、人種差別をしなかった。イギリス兵はインド兵と一緒に食事をすることなど絶対になかったが、日本兵は共に同じ地面に座り、食事をした。そうしたことに感動して日本に感謝をしたインド人はたくさんいたのである。

 

 なるほど確かに、シナや南北朝鮮に比べれば、インドは間違いなく親日である。少なくとも、意味不明な歪曲された歴史を根拠に日本を侮辱したり謝罪を求めたりすることはない。これもまた客観的事実である。

 

 しかしながら、である。実際のインド人とその文化を客観的に観察すると、どういうことが見えてくるか。インド人はシナや朝鮮ほどなのかそれ以上なのか以下なのかは議論の分かれるところであろうが、彼らもまたものすごく主観性の度合いの高い文化を有している。カースト制度を見ていただこう。完全に固定されている。その差別は徹底しているし、その差別を利用しての犯罪も後を絶たない。強盗や強姦、殺人などは社会に満ち満ちているのである。

 また、主観性の度合いが高いということは自分勝手の度合いが高いということでもあるので、自己主張を始めるとものすごく止まらない。私の知人のイラン人は、アラブも嫌いだがインドも嫌いだとはっきりいっていた。もちろん、インド人のあまりの我の強さにうんざりしてのことである。まあ筆者の観察ではイラン人も自己主張、我の強さはなかなかものであるが。

 

 とにかく、他者への配慮なく、自己の主張を押し通すのは、シナや朝鮮とあまり変わらない。先日の「世界での残忍な現状」に書いたことを参照していただきたい。

 

 確かに、「反日」はない。しかしながら、主観性の度合いが高い文化を有するため、日本人にとっては非常に疲れてしまう人々であることは間違いないのである。また、若い人たちはすでに歴史など関係なく、戦争の体験を通じての親日感情などはもちろんない。日本はただ、日本である。

 

 シナや朝鮮のストーカーのような異常な執念に疲れ切った人々には、インドやその他の国(トルコも似たような状況)の親日などは心地よく感じられるが、そこに過剰な期待をすることは、後々禍根を残すことにもつながる。物事は常に、客観的に観察した上で、分析しなければならない。

 

 そうしなければあとで苦しい思いをすることになるだけである。

 

 もちろん、意味不明な憎しみを向けられていないだけましであるし、なるべくは良好な関係を築きたいが、海外などでインド人と触れ合った人は分かるであろうが、彼らは彼らで強烈な個性を持っていることに目を伏せるべきではない。

 

 後悔のない主観的な判断は、徹底的な客観的な観察と分析から生まれるのである。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 


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