日吉とは日翳星、星見の神を意味する。
彼は比叡山に祀られていた。
笠とは、「流星が落ちて生じた所」であり、笠沙の語源でもあるだろう。
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★目次
☆1 日吉の神と三貴神
☆2 笠沙
☆3 天武帝と記紀
日吉の神と三貴神
(「儺の國の星」15、木綿割星(ゆふわりぼし)より引用)
冠座を日翳星(ひえいのほし)、或いは領巾星(ひれのほし)と呼ぶ。やがてこの名はその星座を仰ぎ見る山として、山城の比叡、比良にうつされた。星見の神を日吉と言う。猿田彦の神は西域の星辰の司宰たる Sultan(スルタン)に由来したかもしれない。京都神賀茂神社は正しく東に四明岳(しみょうがたけ)を望む位置にある。
前回の記事からも、加茂神は饒速日命であり、高良神であることに繋がっている。
日吉神もまた、彼であった。
那珂川市*日吉神社
神話の神は、全て彼ら二柱に集約される。
よって、那珂川におられた高良神は彼になる。
(詳細、以下の記事)
「儺の國の星」より、日吉は星見の神を意味し、日翳星(ひえいのほし)であった。彼が祀られている比叡山の名は、おそらくそれが由緒であろう。
この地の日吉神は、猿田彦神として最澄さんの手により、日吉・日枝神社に勧請された伝承がある。
日吉神社
祭神に無い猿田彦神は、日吉大社から大己貴神と同神であることが分かる。
この社には、その名があった。
天御中主神、大己貴神、日子穂穂出見神、大山祇命、八雷神、菅原神、迦具土神、田心姫神、高淤加美神、闇淤加美神、手力雄神、宇賀魂神、表筒男神、中筒男神、底筒男神、須佐之命、天照大神
大己貴神は饒速日命であり、男神天照。
彼は高良神であり、住吉神、鹿島神=春日神は武御雷神=八雷神、下社が祇園神であり、スサノオ命ほかと同神である。
田心姫神は宗像神(一柱)=市杵島姫命=御炊屋姫。
彼女が高良神の后の神功皇后。
神話で住吉神が関わるのは、彼が高良神であるからだ。
(「神功皇后」とは、後に付けられた名)
拝殿内
ここに天井の十二支が描かれた板がある。
(十二支の獣かどうかは判別できない)
ここに由緒記がある。
日吉神社由緒記より、該当箇所のみ引用
祭日は四月三十日の水籠、八月三十一日の風籠(かざごもり)、十二月三十一日の大晦(おおつごもり)がありました。
氏子一同が神前で会食する式例で一年を三季に分ける珍しい暦法の名残でありますが、縄文時代の冬のない亜熱帯気候の風土もよくしのばせます。
これに一月一日の年始祭、七月三十一日の輪越(わごし)祭、十一月二十三日の注連縄祭が加えられております。
猿田彦を祭神とする社は、伊勢二見の興玉で、夏至に駿河富士の朝日を拝するところから、伊勢暦の編纂をもあつかった神であります。
本社の拝殿の天井に描かれた十二月十二支に方位月日の神としての一面をうかがうことが出来るかもしれません。
由緒記より、日吉の神は月日の神であった。
古来、月や星の位置で暦を作っていたという。
「儺の國の星」の星見の神が日吉とは、これを示唆しているのあろう。
彼を祀る比叡山は日翳(ひえい)神である猿田彦神を意味する。
彼は星見の神であり、月日の神。
それはなぜか。
神は子孫が祀る。
彼を祀る一族が、その職であったからだ。
かれを日翳神=比叡神=日吉神としたのは、彼を祀った物部の子孫たちであったのだ。
「儺の國の星」の著者、真鍋大覚氏の先祖は物部氏であり、鹿島神宮の神官を代々継いだ後、太宰府において星暦を作っていたという。
物部の祖神=饒速日命=鹿島神=高良神
子孫が星暦に関与していたので、彼が星神となった、ということである。
彼、住吉神、布留神、天津甕星など彼には星神の名が多くある。
また日月星神とは神話の三貴神を意味している。
天照神、月読神、スサノオ命。
饒速日命(=猿田彦神)である彼であった。
オガタマノキ
日吉神社の境内にはオガタマノキがある。
(案内板より)
神前に供える栄木の一種である。
オガタマは招霊(おきたま)の転訛したもので、神前に供えて、神霊を招く意に由来するという。
又、神寄木(かみよりのき)であるので日吉神社の神木に
もなっている。胸高周囲は3・8メートルである。
秋、神鈴に似た実をつける。
これがオガタマノキの実。
神鈴の元であり、神話のアメノウズメ命はこれを手に持ち舞ったとされる。
日吉の神は、男神天照。
ここにこの木があるから、その物語は出来たのではないだろうか。
神話は見立てをよく使う。
アメノウズメ命(猿女君)は日吉神(猿田彦神)の妻であり、彼女が登場するということは、同時にその話にその夫がその話に関わっていることを示す。
(天照=猿田彦)
「神の側にあるアイテム」は、同時に神そのものを示唆する。
これは「大国主神は、宇迦山の麓におられる」と同じ意味がある。
神の由緒を示すものであった。
笠沙の地
(「儺の國の星」15、木綿割星より 引用)
長州宮(ながすのみや)の行在所で、筑紫の観天望気にふかい大御心を寄せられた天智帝(六六二~六七一)と天武帝(六七三~六八六)は笠朝臣(かさのあさみ)の家系の叡才を信じ給い、以て有明海と玄界灘を結ぶ水城の管理を託されたと聞く。
流星が落ちて生じた所を奄美で笠利(かさり)、周防で笠戸(かさど)と言う。”かさ”とは星辰の古語である。
流星が落ちて生じた所が”笠”であり、星の古語。
それが海岸だと「貝が口を開けた様な」形になる。
ポリネシア語では、それがカサ、カタ。
まさに隕石が落ちたような、貝が口を開けた様な湾だ。
博多のハは美称であり、カタがそれであった。
図1 地図はGoogle map
博多湾の俯瞰。
古代は、もう少し内陸まで海があった。
図2の★2が塩原であり、海岸で塩を作っていた所とされている。
神話の笠沙は、この地では無いかと推測している。
図2 地図はGoogle map
上の図の★1
ニニギ命が葦原中津国へ天降る場面の
「笠沙の岬まで真の道が通じていて」の笠沙。
つまり、ポリネシア語が意味する「カサ、カタ=貝が口を開けたような湾」と、流星が落ちて生じた所の笠(カサ)=星辰は、同じ意味ではないだろうか。
サは、葦(水辺に生える草の総称)
★1は今の筥崎宮の地であり、古来、葦津ヶ浦と呼ばれていた。
=カサ、サなのだ。
(ここで、重要なことは「実際に流星」が落ちたことではなく、そう見えること)
天武帝と記紀
ここで、気づいたことがあった。
☆天智帝、天武帝は、この那珂川の長州宮におられたと、かの書は記す。
☆神話(記紀)は、天武帝が命じて作り始められた。
天武帝がおられた那珂川、儺の國には、
☆受け継がれてきた星の名がある。
☆神の名の多くは、星の名で解かれる。
☆神話の神は、彼ら饒速日命と御炊屋姫(=高良神と神功皇后)の二柱に集約される。
☆この地が神話の舞台(すべて彼らの話なので)
では、天武帝がここにおられたからこそ、この地の伝承、星の名などから神話が作られたのではないか。
(つづく )
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対応しても、全くの一方通行になるので時間の無駄です。
批判されるなら隅から隅まで読んだ上で。
この記事は、神の総まとめ。
まず、記紀は後の為政者の都合により創られたもの。
これが第一前提。
最初の天皇が「祖神」に繋がっていることを証明する為のものが記紀であり、その為の改変が多々存在することは推察される。
上の記事に以下の文を付け加えました。
*神功皇后は後に付けられた名。
応神天皇が最初の天皇だと思われるが、「皇祖神とする彼ら」の御子の位置づけにしたと推測している。
(「皇祖神」に繋げる為)
記紀の「神功皇后の時代」は、辻褄合わせの偽装。
記紀をそのまま信じるなら武内宿禰が300年以上生きて仕えたという記述も、神話の神が現実にいたことさえ、事実だと言うことになる。
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記紀はなぜこんなことをしなければならないか。
あえて書かないが、考えてみればわかること。
*武内宿禰とは、役職で何人もいたからとか言われるならば、神功皇后が偽装であったという可能性も考えられることになる。
*彼女の妊娠期間は今の日付に換算すると約451日。
通常より半年長い。
これも真実だということに。
一体、どう説明するのだろう。
*神功皇后が乗った船の舳先の上に現れたのは、住吉大神。
彼は神。
住吉大社には彼女も祀られている。
では、彼女は実際に「神」に逢ったのだろうか。
*応神天皇は、ツヌガアラシトと気比神宮で名を変えている。
彼は「神」に逢い、名を変えたのか。
*彼女の時代考証の決めてとなる1つ、七支刀の贈与。
それも時代に合わせるために偽装されたとも考えられる。
天日鉾神も垂仁天皇の時代とされているのだから。
*皇祖神である女神天照には夫神がいない。
実際に子孫がいるならば、どうやって子を残したのか。
スサノオ神との誓約で生まれた者が子孫?
勾玉をかみ砕いて現れた子が?
それを鵜呑みにする方が、よっぽど眉唾ものでは?
それらはすべて、比喩であろう。
では、何を意味しているのか。
彼女は誰なのか。
筑紫にこれほどある神功皇后の伝承、大和にはほとんどないことも、大和に長い期間戻っていないことを示すのでは。
高良神がそのままの名で残されていない理由。
批判があるなら、ここに在るものだけでもすべて読んでからにしてください。
礼儀を持ったコメントならば、いくらでも受け付けますし、コメントを返します。
「記紀に書かれてあるから」
記紀は全て真実なのだろうか。
それ以外のことは眉唾なのだろうか。
尚、四王寺山とは便宜上に記しているだけ。
昔からその名であったとは書いていない。
「儺の國の星」には、四明山、潮路山とも言ったとある。
仏教が入って「四天王」のがが概念が出来、四王寺山を山城にした時につけられたと思われる。
毎回、それらの説明をすべての言葉に書くことは不可能。
それくらいのことが分からないから、簡単に批判してしまうのだろう。