★目次
☆1 穂掛神社
☆2 笠置山の宗像氏
☆3 天照宮から解く時代と神
☆4 天照宮の祭神
穂掛神社
穂掛神社は、福岡県宮若市、笠置山の麓の千石峡の側にある。
数年前の桜の時期に行っていた。
麓には渓流がある。
山深い場所にある様な深い青の水が流れる岸辺。
千石キャンプ場のバンガローが立ち並ぶ端に、その社があった。
穂掛神社
祭神は饒速日命。
ここから磯光の天照宮(てんしょうぐう)へと勧請されている。
かの社は、記事の下に記載するので、まずは笠置山へ。
笠置山の宗像氏
穂掛神社は、元は山頂にあった。
彼が降臨したという笠置山だ。
ここには、宗像氏の山城があったという。
笠置山の山頂
山頂は広く、広範囲に眺められる。
山城としては最適だろう。
ここに案内板がある。
笠置山(標高425メートル)山頂にある笠木山城址は、築城当初南の嘉穂盆地を正面大手とし、北の千石峡を背面搦手(からぬて)とした天然の地形を利用した山城で、本丸、二の丸、三の丸や幾重にも重なった空堀の跡が見られます。
笠木城の築城時期については、わかりませんが、永禄十一(1568)年以前に宗像氏の手によって築かれ、その後秋月氏に移ったとも伝えられています。
笠木城は宗像氏によって築かれたと伝えられている。
では、山頂に祀られていた穂掛神社の饒速日命は、彼らが祀ったと推測される。
宗像氏の祖神は、彼に繋がるからだ。
「新撰姓氏録」には、宗形(宗像)氏の始祖は、大神氏と同祖、大国主神の六世孫...とある。
大神神社の社家である大神氏と同族であった。
大国主神は大神神社の大物主神と同神。
天照宮から解く時代と神
穂掛神社が勧請された先、天照宮。
福岡県鞍手郡磯光にある。
神社の由来は、貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によれば、饒速日尊が垂仁天皇十六年に宮田町の南に聳える笠置山頂(四二五メートル)に降臨し、同七十七年に笠置山頂に奉祀したことに始まります。
その後、千石穂掛谷、明野(脇野)と移り、延慶元年(一三〇八年)に、白き鶴の住む里に廟を遷すべしとの神託があり、西国探題惣政所玄朝の造営により、現在地に移されました。
彼と天日鉾は、饒速日命と同神と下の記事で繋がっていた。
天照宮に記載の時代は、おそらくここからだ。
(詳細、下記)
彼は神話では、神武天皇と絡み、紀元前660年の者になる。
しかし、実際の彼らは3世紀前後とみているので、記紀を作った時代(天武天皇)から創作するには、その辺に当てはめたということではないだろうか。
年代は高良大社の麓の祇園山古墳から、推測した。
由緒書きの「垂仁天皇」とは、実際の時代に合わせようとしたものであろう。
天皇の在位は紀元元年頃とされる。
実在するならば、考古上では3世紀後半から4世紀前半。
饒速日命は少なくとも「神武天皇の時代、紀元前660年」の者ではない。
天照宮の祭神
祭神も天照宮から繋がる。
「勧請先に祀られる神は同じ。増えても減っても同神」
という原則がある。
その上で祭神を検証する。
祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
八幡大神、春日大神、応神天皇、天児屋根命。
摂社に、鹿島神社(鹿島神、菅原神)
諏訪社(建御名方神、素戔嗚神)
西海九神社(底筒男神、中筒男神、表筒男神、底筒少童神、中筒少童神、表筒少童神、八十禍津日神、大直日神、神直日神、瑞津姫)
住吉神社(底筒男神、中筒男神、表筒男神)
疫神社(八十禍津日神)
笠城神社(饒速日命)
穂掛神社(饒速日命)
他に、日吉神社、貴船神社、剣神社、須賀神社など。
これだけの神は、すべて高良神で繋がる。
高良神は物部の祖神、饒速日命。
住吉神、春日神、鹿島神とも同神と神秘書にある。
底筒少童神、中筒少童神、表筒少童神は、志賀海神社の神であり、やはり神秘書に同神と。
彼は安曇磯良神であり、社家の安曇氏の祖神。
スサノオ命(須賀神社)は祇園さんであり、高良大社の下社の呼称。
主祭神が違うならばそうは呼ばれない。
失礼になるからだ。
日吉神は饒速日命。
剱神社も布留神、饒速日命に繋がる。
神話の神は全て彼ら二柱に集約される。
他の神も彼らなのだ。
「勧請先は同神」
という原則は成り立つように思われる。
そして、ここに瑞津姫の名があった。
宗像神だ。
( 後編に続く )
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