続きです。
☆1 大根地山と冷水峠の場所
☆2 シタクラツクシ坂
☆3 筑前と筑後の境
☆4 大いなる神の地
☆1 大根地山と冷水峠の場所
大根地山は特別な場所にあった。
1の東(右端)は、英彦山(英彦神宮)
2の西(左端)は、飯盛山(飯盛神社・中社)
(飯盛神社に祀られる五十猛命は饒速日命。)
3の南は、高良大社
4の北は笠置山(饒速日命が降臨した山。お社は「天照神社」へ移る)
すべて、饒速日命が祀られているお山。
その四座の山の中心地。
上の地図の交わっている所。
それが「大根地山」の麓。
そこは「冷水峠」と呼ばれている場所であった。
「長崎街道」の案内板に「かつて九州の箱根と言われている程の難所」とある。
その「難所」を思い起こさせる言葉が伝承にあった。
それは、あの筑紫の神の伝承に繋がる。
☆2<鞍韉盡之坂(したくらつくしのさか)>
☆筑紫神社
wikiには、筑紫神の祭神についての由緒に、二つの由緒が挙げられている。
一つは、「鞍尽くし」。
筑前国と筑後国の二国の間が「坂が険しく鞍が擦り切れたため」。
これは険しくて通行するのが困難なことを表している。
もう一つが、「命尽くしの神」。
二国の境に荒ぶる神がいて往来の人が命を落とす「命尽くし」神の話。
☆筑後国風土記(Wikipedia)には、その伝承が記されてあった。
昔 此堺上 有鹿猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神
干時 筑紫君肥君等占之 令筑紫君等之祖甕依姫 為祝祭之
自爾以降 行路之人 不被神害 是以曰筑紫神
昔、こ(筑前・筑後)の国境に荒ぶる神がいて通行人の半分は生き半分は死んでいた。
その数は極めて多かった。そこで「人の命尽の神」と言った。
筑紫君、肥君らの占いによって、筑紫君等の先祖である甕依姫を祭司としてまつらせたところ、これより以降は通行人に神の被害がなくなったという。
これを持って「筑紫の神」と言う。
上記二つの伝承を繋ぐものとして、古事類苑(筑紫国 釋日本紀)。
筑後国風土記の(筑前・筑後)の国境に荒ぶる「命尽くし」神は、「土人曰 鞍韉盡之坂」にいた神。
つまり、☆1の筑紫神社の御祭神の「鞍尽くし」と「命尽くし」は、同じ伝承が元。
鞍韉盡之坂に命尽くし神がいたのだ。
では、「命尽くし」神が出たという鞍韉盡之坂。
筑前国と筑後国の境の山にあったというその坂とは、冷水峠なのか。
☆3<筑前と筑後の境>
それは福岡を北と南で分ける地域になる。
今の「筑前・筑後」の境で考えると決してたどり着かない。
この場所は、
☆荒穂神社にあった「基山の東」
☆筑紫神社の伝承の「筑前と筑後の境の山の峠」
それが上記「筑後風土記」の国境にあったという、
「鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)という険しく狭い坂」。
荒ぶる神である「尽くし」神が出た言う、その険しい峠。
そのような場所は、筑紫神社辺り(下の地図の2)には無いのだ。
もちろん、基山辺り(下の地図の1)にも。
ずっと疑問に思ってたのだが。
それは、「冷水峠」なのでは?
1の一番下の星印が基山。
2の筑紫神社。
そして、写真の右上にあるハートマークの場所が「大根地山」頂上。
九州の箱根と言われる程の難所であった「冷水峠」。
上の写真では「大根地山」の麓、青い印の辺り一帯。
この場所こそ、「鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)」。
後にこの一帯、全ての山を歩いているが、険しい場所はここ以外ない。
基山の東にあり、筑前筑後の境にあり、人の往来がある険しい峠は、冷水峠の一択。
☆4<大いなる神の地>
そこが、したくらつくしの坂。
中心地であったから、「地球樹」があったのかもしれない。
.
エネルギーが放出されている場所、そこは雑多なものが集まる場にもなる。
もとより清浄な場なら良いのですが、そうでなければ誰かがそうしなければならない。
その為に神功皇后が、大根地山に神を招いたのだ。
「大いなる神の地」であるその場所に。
地球のエネルギーを抑えるのではなく、良い流れにする為に。
そうして、「羽白熊鷲」というものが排除され、筑紫の守りの要の地となった。
もしかすると、四つの山の守りは、永遠に「羽白熊鷲」を抑え込むために、後に出来たのかもしれない。
この地図を見るとそんな気もした。
「冷水峠」は、。
*四座の霊山の中心地。
*「(難所と言われていた)筑前、筑後の境」の峠。
*峠の側に「大根地山」がある。
(神功皇后が羽白熊鷲を鎮める為に神々を祀った)
冷水峠が「鞍韉盡坂」ならば、
その側の大根地山の伝承の「羽白熊鷲」は、「命尽くす荒ぶる神」。
それは「筑後風土記」にある、「命尽くし」の神。
荒穂神社と筑紫神社の「命尽くし神」と同じもの。
ならば、やはりそれらの伝承は同じもの。
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(つづく)