信州読書会

信州読書会

長野市で読書会を行っています

 

2020.4.17に行ったベルンハルト・シュリンク『朗読者』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

「転向左翼の小さな隙間」

 

評論家の西部邁氏は「ハンナは、ロマ族出身で、『朗読者』は、ロマ族がユダヤ人からも搾取されていたという、ヨーロッパの歴史の暗部を描いた小説なのではないか?」という説を、チャンネル桜のこの動画で開陳していた。私は、西部氏が、なぜこんな牽強付会な説を唱えるのか疑問だったが、ある本の中に、その謎を解く鍵を見つけた。

 

(引用はじめ)

 

学生運動の聖地と言われた東大駒場(教養学部)のトップリーダーは全学連主流派の西部邁である。彼は後年、転向して東大教授を務めたが、デモに結集した学生の大半が駒場から本郷に進学すると頭を切り換えたのと違って、平成30年(2018年)1月に自ら命を絶つまで「60年安保」の後遺症を引きずっているように見えた。

 

かつて自民党内で”闘うハト”として鳴らした宇都宮徳馬(1906-2000)が私にこう言ったことがある。

 

「若い頃左翼であって転向した人は深く傷ついているから察してやりなさい」

 

戦前に左翼であってその後自由党から国会議員になった宇都宮は、自分自身もそうだったんだろうと私は受け止めた。

 

東大駒場の自治委員長、そして60年安保の先頭に立った西部の死去は同時代人にとって一つの衝撃であった。一つの生々しい思い出であった60年安保が、ようやく歴史の一ページとして収録された感じである。

 

『自民党本流と保守本流』 田中秀征 講談社 P.15~16

 

(引用おわり)

 

ハンナもまたは、ナチズムの後遺症を引きずったまま生きた。西部氏が幼児から悩んでいた吃音を、全学連の左翼運動において克服したように、彼女の文盲は、ナチスの看守としての職を得たことで、一時的に克服された。しかし、イデオロギーの敗北とともに、彼らが克服したと思われたものは、深い傷となって心に刻まれた。

 

若い頃のイデオロギー体験と、その敗北からくる転向は、人間を深く傷つける。

 

ハーネスをつけて、弟子に幇助させて、多摩川に飛び込んで自死を遂げた西部氏に、当初から私は不快感しかおぼえなかった。西部氏は学生時代からTVでみていて、その達者な語りに、少なからず感化されたことがある。それは、なぜなのが、私は、ずっと考えていた。西部氏が、ハンナのことを、絹のネグリジェをもらって喜んで踊り出したルーマニア人ということで、ロマ族のハーフ決めつけていた。そして、今回の読書会にあたって見直したこの動画の中で、自分の分析に酔うように、悦に入っている西部氏の表情に、彼が隠しているであろうものを見つけた。西部氏は、昔から、酔ったような語り口であった。その自己陶酔が、視聴者の心の奥底にある何かを惹きつけていた。

 

朗読を送り続けて、ハンナが字を覚え、手紙で返事を書いてくれたとき、ミヒャエルは、こんなことを思った。

 

『ぼくは彼女を小さな隙間に入れてやっただけだった。(中略)隙間は隙間であって、人生のちゃんとした場所ではなかった。』(P.223)

 

西部氏も、ハンナをルーマニア出身のロマとレッテル貼りすることで「小さな隙間」に入れたのではないか。

 

 ニヤニヤしながら、人種的なラベリングで、この作品の解釈を小さくしてしまうのは、西部氏が自分の傷に触れたくなかったからなのだと、今なら、私は思う。彼は、いつも、ああいう欺瞞にみちた露悪的なことをカメラの前でしゃべっていた。その欺瞞的レトリックに、知性を見出すのかもしれない。しかし、彼は、やっぱり深く傷ついている人たちなのだと思う。

 

転向した知識人に、関心を持つ人間も、また深く傷つくのだ。私も、西部氏の欺瞞によって深く傷ついたのである。

ファシストのハンナを愛したことで傷ついたミヒャエルのように。

 

傷ついた人間は、自分の深い傷に触れるものを皆、「小さな隙間」に押し込めてしまうのだろう。

 

現在の日本の保守と言われる人に私が感じるファシズム的な匂いが、何に由来するのかわかった気がする。排外主義と見紛うような差別的な言動を、あえて露悪的にする保守の人たちは、結局は、「小さな隙間」に押し込めて、自分の深い傷を隠そうとしているのだ。

 

自殺する前に 『ファシスタたらんとした者』などという著作を書いた西部氏は、保守だのファシスタだのというというラベリングを自らにすることで、傷ついた自分自身を、自ら「小さな隙間」に押し込めていたように思う。彼を慕う弟子や読者たちも、無自覚に「小さな隙間」に自分たちを押し込めている。それは、もしかしたら全体主義的傾向を肥大させつつある現在の政治権力が用意した「小さな隙間」なのかもしれない。

 

(引用はじめ)

 

彼女は常に闘ってきたのだ。何ができるかを見せるためではなく、何ができないかを隠すために。彼女の人生では、出発は大きな後退を、勝利は密かな敗北を意味していた。

 

(引用おわり)

 

伝統だの慣習だの尊ぶポーズをするのは、「小さな隙間」の中で生きるためのレトリックであり、結局は、転向左翼の逃げ場でしかなく、ヒュームだのバークだのといったイギリスの保守とは本質的には、なんの関係もないのだろう。転向左翼の保守は、生き様そのものが「大きな後退であり、密かな敗北であること」を、察してやらないと、いけない。

 

ファシズムから転向したあとのハンナの死は、西部邁の最期にそっくりだ。

 

(おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

新潮文庫『李陵・山月記』所収『弟子』

 

2020.4.10に行った中島敦『弟子(ていし)』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

「与えられた範囲で常に最善を尽くす」

 

(引用はじめ)

 

世の溷濁(こんだく)と諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣焦燥を幾年か繰返した後、ようやくこの頃になって、漠然とながら、孔子及びそれに従う自分等の運命の意味が判りかけて来たようである。それは、消極的に命なりと諦める気持とは大分遠い。同じく命なりと云うにしても、「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸」としての使命に目覚めかけて来た・かなり積極的な命なりである。匡の地で暴民に囲まれた時昂然として孔子の言った「天のいまだ斯文(しぶん)を喪(ほろぼ)さざるや匡人(きょうひと)それ予(われ)をいかんせんや」が、今は子路にも実に良く解って来た。いかなる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧の大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措の意味も今にして始めて頷けるのである。

 

(引用おわり)

 

1月下旬から始まった新型コロナウィルス騒動であるが、どうやら政府の一貫性のない対応を見ていると、自分で自分の身を守るしかないという判断に至らざるをえない。

 

政治の目的は、人間社会の不満を解消して、秩序を維持することだ。社会の不満は、火がついてくすぶっているゴミに似ている。そのまま放っておけば、燃えさかって、生命や財産が危険にさらされる。哲学者や知識人は。くすぶりの解消のために、ゴミ焼却場を設計して、政治家はその焼却場を建設するのが仕事だ。くすぶっているゴミが処分できれば、社会秩序は、その分だけ保たれる。

 

孔子は、ゴミ焼却場の設計者であり、登用されれば建設者だった。その上で、社会の木鐸(教導する人)たらんとした。『弟子』を再三再四読むたびに孔子様への尊敬は深まる。

 

しかし、現代の我々は、どうだろうか。己を鑑みても、自分だけ良ければいいのではないかという思いに流れていくのを抑えられない。浅ましさから自分を律するのだけで精一杯だ。

 

子路の嫌悪した『一身の行動を国家の休戚(きゅうせき=幸不幸)より上に置く考え方は、恥ずかしながら、私の今の心の底にはびこる考えである。自分に使命があるならば、天は味方するはずだ。そう思いたいが、こんな希望も、子路の最後を見れば、甘い期待に過ぎないことがわかる。

 

凡人の私は、せめて自分の出したゴミで人様に迷惑をかけないこと。不要不急の外出を避け、手洗い・うがい・消毒を励行して、新型コロナの収束まで、静かにしていることしかできない。

 

(おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

2020.4.8に行った

 

『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか

 ~アメリカから世界に拡散する格差と分断の構図』  渡瀬裕哉著 すばる舎 

 

予習読書会のもようです。

 

 

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私も書きました。

 

「戦後日本人のアイデンティティとしての日本国憲法」

 

2000年代から進んでいる日本の右傾化。私は最近ずっと、なぜ日本で右傾化が進んだのか、考え続けてきた。

「SNSの普及のせいで、エコーチェンバーと呼ばれる『同じ意見の人だけが話し合っているうちにそれが正しいことだとみんなが信じてしまう現象』が起こり、右傾化が進んだ」と以前にNHKのクロ現でもとりあげられていた。

 

私の記憶では、それ以前の、インターネットがそれほど普及していない時期から、右傾化ははじまっていた。私が大学生だった90年代の終り頃、『朝生』みたいなテレビ討論会や小林よしのりの漫画などから政治に関心を持つ人が、一定数いた。私もその頃に、政治に興味を持った。小泉政権が党内の反対勢力に刺客候補を立てた‎2005年の郵政選挙の熱狂は、今も頭に焼き付いている。

 

1978年生まれの私は昭和の終わりから、平成の初めにかけて義務教育を受けた世代だ。信州はリベラルな土地柄のせいか、学校の先生は、戦後民主主義の理念を奉じている方ばかりだった。今振り返っても、その教育は、良かったと信じている。

 

上京して大学に入って、就職して、各地の人と付き合うようになって、政治傾向に多様性があるのがわかってきた。日本では、まずアイデンティティは、出身地がベースになっている。

 

4年前のトランプ大統領の誕生によってアメリカが保守的、内向きになるにつれて、自分の受けてきた戦後民主主義教育の理念が、その憲法を押し付けた側のアメリカからも否定されていくという、想像しがたい事態が起こってきた。

そして、日本のいわゆるリベラル(主に自民党を批判する勢力)も、リーマンショック以降に、右翼勢力のカウンター運動に特化しつつ、2015年の国会前のデモを最後に、勢いを失っていくのも目の当たりにした。

 

(引用はじめ)

 

アイデンティティの分断とは、技術革新がもたらしていた単なる結果に過ぎない。そして、アイデンティティの分断が政治的動員に利用されることで、本来は多様であるはずの人々のアイデンティティは画一的で単純なものに押し込められてゆく。(P.7)

 

(引用おわり)

 

2015年の国会前のデモに集まったSEALDsの学生たちを私は冷ややかに眺めていた。渡瀬先生の指摘を当てはめれば、彼らはアイデンティティを分断されて、政治的動員に利用されたとしか思えない。鳴り物鳴らして、「戦争反対、安倍はやめろ」と叫ぶ彼らの画一的で単純な政治的態度も、これはこれで、洗脳のはじまりではないかと危機感を抱いた。

 

スマホの普及で、虚実のはっきりしない、さまざまな独自動画コンテンツが視聴可能になった。自分の嗜好にあった、情報を無批判に浴び続けることができる。それによって、アイデンティティが形成されていく部分がある。メディアリテラシー(読解力)がなければ、メディアの編集技術だけで、操り人形みたいな人格が形成されてしまう。保守だろうがリベラルだろうが、情報を鵜呑みにして、自分自身の判断を放棄してしまえば、それは洗脳されたのと同じだと思う。

恥ずかしながら、私は、読書会を始めるまで日本国憲法を自発的に読んだことはなかった。戦後民主主義の理念は、すべて日本国憲法に由来している。しかし、不思議なことに、日本国憲法は、日本人に日々読まれていないし、学校以外では学ばれてもいない。たしかに、保守派の批判するように、日本国憲法はワイマール憲法をはじめとした、世界の憲法の寄せ集めで、押しつけ憲法なのかもしれない。

 

そこには、西欧近代の人権と統治の概念が、幕の内弁当のおかずように詰まっている。実際、我々は戦後の70年以上も、このおかずを食って、成長してきてしまった。その事実、否定し難い。

 

日本国憲法とその下敷きとなる西欧政治思想、及び日本の伝統的な統治を支えてきた伝統的な儒教思想や仏教哲学、あるいは記紀神話を、コツコツ学びなおすことが、今の日本の政治風土には必要だ。私は、読書会活動を通して、メディアリテラシーの醸成、自由意思の余地の確保、アイデンティティの形成を図って、情報をシェアいきたい。そのヒントとなるのが渡瀬先生の本著作であり、アメリカの保守派の、憲法を使った読書会(P.73)であった。

 

(おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

2020.4.13に行った渡瀬先生をお招きしての読書会の模様はこちらです。

 

 

  

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2020.4.3に行った向田邦子『父の詫び状』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

「優等生のサガンみたいだ」

 

読んでいてどこまでが、事実で、どこまでがネタかわからなかった。全部作り話にも思えるし、いや、そんないじわるくよまなくても、筆者は誠実に書いているのかもしれない。ところどころ、「その後記憶がない」といわれると、つじつまの合わないところをうまく逃げているように思う。海苔巻きの端っこが、いつのまにかなくなっているように。

 

エッセイというのは名の知られた人が発表するものだ。落語の「まくら」に近い。お笑い芸人なり、俳優なり、作家なりが、書くエッセイは、すでにある知名度を活かして読ませる近況報告みたいなものだ。近況報告で原稿料を稼げるのは、世間が実力を認めている証拠だ。

 

素人の我々が、知人と久々に再会して近況報告するときに、話すような話題で金が稼げるだろうか? 無理である。ごくプライベートで些末な話に過ぎないが、お互いの生活環境やこれまでの関係があるから、興味を持って聴けるわけであって、見ず知らずの人間の近況報告に興味など持てない。

 

向田邦子さんは、脚本家としていくつもヒット作を飛ばし、すでに有名な業界人だったから、このようなエッセイが成立し、かつ売れたのだろう。課題図書として選んでおきながらあれなのだが、感心すれど、感動はできなかった。通夜の晩に家族の前で社長にしてみせた父の「卑屈とも思えるお辞儀」だけが、印象に残った。(『お辞儀』) 

 

家族や、昔の同級生など、あまり当たり障りのない人をネタに、サービス精神旺盛にエッセイを構成している。とりわけ自分の父親を、今の言葉で言えば、「いじって」いる。もしかしたら、こんな父親ではなく、別な人物であったかもしれない。しかし、当人が鬼籍に入れば、書いたものの方が真実らしくなってくる。

 

『父の詫び状』のエッセイは、向田邦子さんが乳がんでしばらく入院し、復帰した後に雑誌に連載されたものをまとめている。がんに罹れば、誰でも、否応無く死を意識するだろう。このエッセイは、死を意識した作家の、筆遊びのような気がした。元気で長生きするという前提だったら、自分と、自分の家族にまつわるウソか本当かわからないような話を書いていれば、逆に気が滅入るのではないかと思う。

 

おそらく、吹っ切れて書いたのだろう。私は、家族のことを脚色を交えて描くような勇気を持たない。身内で話すことはあっても、出版物として残すような気にならない。しかし、もしも、いずれ遠くない死を意識すれば、思い出として書くかもしれないが。

 

この前、太宰治の『富嶽百景』を読書会で扱ったが、あれは、太宰の関係者にとっては、非常に迷惑な作品だと思う。うそばかり書いてある。関係者はそのうそを見抜いている。作家の業の深さというのを思いしった。川端康成の『禽獣』も、別の意味で自分の醜さを分析して、創作に替えている。ああいうことをして生計をたてることのできる作家の神経の太さに私は恐れ入る。

 

『わが拾遺集』に出てきたヒゲを抜かせてくれる小学六年生の女の子って、実際にいるのだろうか? いるような気もするが、創作のような気もする。菊戴の番の死骸を、押入れに入れたままにしている想像力よりは、罪がない。あの菊戴って、皇室の比喩なのだろうか? それはさておき、ざらっとする印象だが、突き詰めずに匂わせただけで、別の話題に移っていくから、あと引かない。テレビドラマ的な編集が行き届いている。

 

岡本かの子の文章に似て、表現が的確で無駄がない。ただ、岡本かの子の背景に濃厚な仏教的な諦念が、向田邦子さんのエッセイには少ない分、ブルジョワ的手練の印象だけが残る。岡本かの子は、海苔巻きの端っこへの愛着を描かないだろう。そういう辛辣なことばかり考えてしまう。文学好きなだけの平凡な男である私の、彼女の溢れんばかりの才能への嫉妬か? 優等生のサガンみたいなところもあるな。そんな尻の穴の小さいことばかりが頭に浮かんだ。

 

(おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

新潮文庫『伊豆の踊子』所収『禽獣』

 

2020.3.27に行った川端康成『禽獣』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

 

「禁じられた遊び」

 

「それにしても、なぜ自分は咄嗟(とっさ)に扉の陰に隠れたのかしら」(P.173)

 

なぜ、彼は、咄嗟(とっさ)に扉の陰に隠れたのか? その答えを考えてみた。

 

この主観的な配置・編集・構成による因縁・因果の説明、これを、「見立て」という。とりわけ、禅は、最高の智慧である「空」、つまり、一切の因縁因果(法)の否定を、公案による修行などで学ぶ。その修行のために「見立て」を駆使して、それを否定していくプロセスにより「空」を悟るのだ。

 

鎌倉室町以降の能楽、茶の湯、俳諧のジャンルは、禅の「見立て」をとりいれて、日本文化を深化させた。換骨奪胎とは、もとは、禅の用語である。凡骨を仙骨にするのが換骨だ。ひいては、古の形式を自分流にアレンジする意味となる。これも「見立て」の一種だ。

 

川端は、「見立て」の達人だ。何層もの「見立て」で作品世界を埋め尽くしていく。彼が、「新感覚派」と呼ばれたのは、「見立て」の奇抜さゆえである。

 

『禽獣』は「見立て」を駆使しながら、彼と千花子の因果を語っている。

 

『山門不幸 津送執行』 禅寺の住職が遷化して、空に鳥が解き放たれる。「放鳥」は、死者のために、禽獣を自由にして、殺生の罪を贖うための「見立て」である。その鳥たちの鳴き声に白昼夢を破られてから、葬式に出くわすと縁起が良いという、易学思想の「陽極まれば陰生じ、陰極まれば陽生ず」の「見立て」が重ねられる。それが、千花子との心中未遂のシーン、さらには、末尾の千花子の死化粧まがう化粧シーンへと続き因果がめぐっていく。

 

放鳥や葬式も、それぞれの「見立て」の材料である。菊戴の死は、「見立て」をもたらした。その「見立て」は、事実によって裏打ちされていく。わざわざ千花子の舞踊会に出かけるのは、「見立て」の答え合わせのためである。

 

押入れの中で死んでいる菊戴の番(つがい)の死骸。その前に死んだ三羽の菊戴。心中しようとした時に千花子が見せた、真夏の午後の合掌。その姿に感じた「虚無のありがたさ」、そして、菊戴が、幼い初恋人同士のように毛糸の鞠の姿になって、眠っている姿。これらのシーンが「見立て」として配置され、複雑なレイヤー(層)を構成し、因果を織りなし、ひとつの世界観として文章の中に立ち現れる。

 

千花子が、縛ることを求めた足は、水浴して溺れ、火鉢で足を焦がしてしまった菊戴の足に「見立て」られているのは、何度も読むとわかるだろう。

 

川端が孤児であることが、彼に「見立て」のなかで寂しさを紛らわすことを教えたのか。しかし、いくらなんでも、死を「見立て」るのは、禁じられた遊びである。

 

 

では、なぜ、彼は、咄嗟(とっさ)に扉の陰に隠れたのか?

 

舞踊会の楽屋で若い男に化粧させている千花子の姿に、押入れに死んでいた、菊戴の番が、甦って、毛糸の鞠のように、睦みあっているという「見立て」が重なったことのではないか。

楽屋を垣間見ての、菊戴の番死骸が甦って、彼の眼前に現れたような、因果関係の報いの感覚が、彼を咄嗟に扉の陰へと隠れさせたのだ。それは、非倫理的な白昼夢を咎められたかのような衝撃だったろう。

 

『小鳥の鳴き声に、彼の白昼夢は破れた。』(P.144)

 

実は、この一文が大変重要だ。

 

その白昼夢が破れた冒頭シーンで既に、禅でいうところの因果関係の否定である「空」への直観が、暗示されている。

 

                                               (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

2020.3.20に行った太宰治『富嶽百景』読書会 のもようです。

 

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私も書きました。

 

「道化の小道具としての富士」

 

遊女の幸福を富士山に托す。社会のマージナル(境界線)の人間を救済するのが、左翼の政治運動だとすれば、そこから脱落した後の太宰治の文筆業というのは、文学の想像力において遊女の境遇を救うことで、せめて己の慰めとしていたかのように見える。しかし、愛人との玉川上水への入水という裏切りによって、残された家族を社会のマージナルに追いやるような人間が、遊女の幸福を托して、富士山に話しかけるなどというのは、虫が良すぎるのではないか、と私は思う。

 

太宰は、井伏鱒二の押し掛け弟子であり、この作品に描かれている通り、彼にとっての月下氷人(げっかひょうじん)=媒酌人であった。御坂峠まで師を追いかけてきて、師の読者まで手なづけてしまう不肖の弟子のめんどくささに付き合いきれず、困惑する井伏先生の内心が、タバコを吸いながらの放屁によく表れている、と私は感じたが、この放屁も井伏鱒二の『惜別』というエッセイ(井伏鱒二『風貌/姿勢』講談社文芸文庫所収)によると、太宰による作り話であるという。この放屁のくだりに気を悪くした井伏は、今後は作品内で自分について一切書いてくれるな、と太宰に釘を刺したという。

 

佐藤春夫は、遺書で井伏を悪人扱いした理由を、『井伏鱒二は悪人なるの説』の中で述べている。

 

(引用始め)

 

それで彼(=太宰 ※引用者注)は感じた(と僕(=佐藤春夫)は想ふ)所詮人並の一生を送れる筈もないわが身に人並に女房を見つけて結婚させるやうな重荷を負はせた井伏鱒二は余計なおせつかいをしてくれたものだな。あんな悪人さへゐなければ自分も今にしてこんな歎きをする必要もなくあつさりと死ねるのだがなあ。井伏鱒二のおかげで女房子供に可愛そうな思ひをさせる(と太宰は井伏を悪人にして一切の責任をこれに転嫁した)井伏鱒二は悪人なりの実感のあつた所以である。それ故あの一句の影には太宰の、女房よ子供よこの悪い夫を悪い父を寛恕せよといふ気持を正直に記す気恥しさを「井伏鱒二は悪人なり」と表現したのであつた。あの一句からこれだけの含蓄を読み取り、この心理的飛躍と事実の歪曲とを知る事が出来ないでは、結局太宰の文学は解らないわけである。

 

(引用終わり)

 

一句に含蓄を込め、自己正当化を繰り返しては、自己嫌悪に陥入り、富士のもつ、わかりやすい詩情の中に、己の正体をくらますというのが太宰の文学である。恍惚も不安も自己韜晦なのだから始末が悪い。

 

(引用はじめ)

 

「富士山には、もう雪が降ったでしょうか。」

 私は、その質問に拍子抜けがした。

「降りました。いただきのほうに、――」と言いかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。へんな気がした。

「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるじゃやないか。ばかにしていやがる。」やくざな口調になってしまって、「いまのは、愚問です。ばかにしていやがる。」 (P.75)

 

(引用おわり)

 

佐藤春夫先生の洞察を敷衍すれば、この部分は、こうなる。

太宰にとっての『道化の小道具としての富士』のからくりを、未来の妻は、すでに直観していたという恐ろしさを、盛り込んだのだ、ということだ。「ばかにしてやがる」とは、未来の妻の女の直観に対する太宰の自作自演のレスポンスだ。

 

こういう手の込んだ作り話を一所懸命に書いたあげく、太宰は死んだのである。関係者はたまったものではない。

 

                                                  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

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2020.3.13に行った

 

スヴェトラーナ・アレクシエ―ヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

 

「シラミのように、はびこるもの」

 

 

戦場で、洗濯をしたり(P.262)、大鍋いっぱいのスープを作る。(誰も食べるものがいないのに P.131)

 

戦争は、日常生活の延長にある。戦争中でも、人間は、食べて、排泄し、洗濯をしてというルーティンを逃れられない。

スターリン体制の粛清という、いわば内乱の後の戦争。内乱の次は、ナチスの国家社会主義と、スターリンの共産主義のイデオロギーを背景とした絶滅戦争である。そして、抽象的なイデオロギーの背景には、生身の人間の日常がある。

 

トルストイの民話に出てくるような素朴な村人、それも若い女の子の村人が、志願して、狙撃兵となり前線に出て行く。

私は、読書会で何度も、トルストイの作品を扱ったが、19世紀の西欧文明から遅れた農村から、なぜ、女性を志願兵にするまでに至ったか、その経緯が、少しずつ分かってきた。ハンナ・アーレントは『フランス革命』の帰結が、絶滅戦争に至ったと『全体主義の起源』で考察している。フランスで生まれたイデオロギーがロシアの村々の隅々まで浸透したのだ。

 

2020年の3月の第2週だけで、金融市場に未曾有の暴落が襲っている。自由主義市場経済は、戦後の繁栄を支えたイデオロギーだ。結局、ナチスの国家社会主義も、共産主義も、ハイエクいわく、集産主義なのであるが、それらは、長い目で見れば、英米の自由主義によって打ち負かされてきた。

 

その自由主義市場経済は、冷戦体制の崩壊後には、唯一のイデオロギーだったが、それも、雲行きがあやしい。

所詮、金融市場を通じた競争は、イデオロギーであり、別のカタチの戦争の継続である。

 

この暴落の後で、中小企業の倒産、就職難やリストラが起こる。市場経済の『悪魔の碾き臼』で、人間がすり潰されるのは、人間が集産主義の結果としての白兵戦で殺しあうよりもましだという、選択だと私は思う。だから集産主義的な政策を、私は支持できない。公的資金を通じて、市場経済を延命させるとどんどん集産主義的になっていく。

 

人間は、洗濯したり、スープを煮たりしている。株価や債券が暴落しようが、日常生活は続いて行く。なぜ、こんなに疲れ切ってギスギスしているのだろう。子供の声をうるさがったり、必要もないトイレットペーパーを買い占めたり、コロナウィルス感染者をヒステリックに叩いたり。平和な日常生活が、これほどまでに荒んでる。

 

贅沢できない、所帯じみた世知辛い、日常の匂いが、倦怠やケチくささを催すにしても、戦争よりもマシである。

しかし、一度上がった生活水準は、なかなか落とせない。だから、社会は、はけ口を求めて、どんどん右傾化して、不寛容になっている。

 

祖国のために殺し合いをしたいという、何か得体の知れないイデオロギーが、人間の心に萌している春だ。それは、シラミのように…… 男のシラミは焚き火で殺せるが、女の服についたシラミは・・・・・・ 見えない場所で、ジワジワ繁殖する。日常生活のルーティンで、シラミを駆除しなければ、それは、どんどんはびこる。それだけの余裕を、なんとか自分で確保しなければ。自分のための塹壕を。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

2020.3.6に行った深沢七郎『楢山節考』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

「本能と智慧」

 

『深い河』の大津が、行き倒れた仏さんをを背負って、ガンジス河の河岸で荼毘に付す。

でも、あれは赤の他人の仏さんだ。親を、生きたまま背負って楢山まいりに連れて行くのとわけが違う。

 

「持続可能な社会を実現するための取り組み」

 

こういう論文がたくさんある。この村では、間引きや、掟を破った一家の殲滅などが、持続可能な社会を実現するための取り組みなわけだ。そして、取り組みの最終手段は、自発的な「楢山まいり」である。これは家の存続の手段である。

 

マルクス主義からいえば、家庭が、労働力の再生産を担っている。再生された労働力は、搾取され、資本家階級は、常に政治権力を保持して、不労所得で太った猫のようにぬくぬく生活する一方、労働者は、再生産可能なギリギリの生活で、子供を育て、高齢の親を厄介者扱いする。

 

子供も高齢の親も、ともに仲睦まじく健康でというのは、ブルジョワ資本家階級の家庭の特権である。保守階級のエゴがまるだしになるところだ。一般庶民の家庭では、一生働き詰めで、余裕など対してないまま、前のめりで人生を終えていく。

 

最近は直葬というのが増えている。直葬とは、通夜や告別式などの儀式を一切行わず、自宅や病院から遺体を直接火葬場に運び、近親者と僧侶のみの立ち会いで弔う葬式のことだそうだ。遠戚に市役所から連絡が来て、お骨を取りに来てくれという要請され、断るとそのまま無縁仏なるケースも増えている。

 

社会秩序は、死と生の世界を含んで形成されている。今回再読して、自分たちの子供を守ろうとするけさ吉と松やんが世代交替をのぞんで、おりんを突き上げて、楢山まいりを強いている様子が、端々の描写から伝わってきて、心打たれた。

 

松やんの「つんぼゆすり」は、おりんを背板にのせて虐めるというジェスチュアで、明らかにおりんへのあてつけである。

でも、松やん自身もなんでこんなことを自分がしてしまうのかわからないのだと思う。「いじめ」の核心とは、やはり無意識の生存本能に根ざしているのではないかと思わざるを得ない。本能であれば、人間が人間であるかぎりなくならない。

 

本能に根ざした「いじめ」を、回避するには、智慧が必要だ。その智慧は、自分で考えつづけることでしか身につかない。

本能と智慧との葛藤に自分で筋道立てて、きれいな心がけで死んでいったおりんは、徹底的に自分の生と死を考えてきた人だ。著者は、釈迦の無常観とキリストの愛を念頭に置いて、おりんの性格を書いたそうだが、私は、おりんに哲学者の面影をみた。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

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2020.2.28に行った

 

李 光洙(イ・グァンス)『無情』読書会(2020 2 28)のもようです。

 

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私も書きました。

 

 

「近代的自我と無情」

 

(引用はじめ)

 

人間の生命も決して一つの義務や一つの道徳律のために存在しているのではない。人間の生命は、人生の全義務および宇宙に対する全義務のために存在しているのだ。それゆえ、忠とか孝とか貞節とか名誉などは、人間の生命の中心ではない。そもそも、人間の生命が忠や孝のために在るのではない、忠や孝が人間の生命から発しているのだ。(P.187 53章)

 

(引用終わり)

 

旧世界の道徳である忠や孝を否定し、人間の生命力に由来する主体性や私的領域を広げていくプロセスこそが、近代的自我のめばえである。『無情』を読んでいて、ふと頭をよぎったのは、『罪と罰』のラスコーリニコフだった。李亨植は、虐げられている生命のために怒っている。ドーニャやソ―ニャが、農奴解放後の社会体制の急激な変化によって、過酷な運命の奴隷になったように、英采も一家の没落によって妓生(キーセン)にまで落ちぶれ、生命を酷使される境遇に陥った。しかし、亨植本人のジレンマは、結婚相手として善馨と英采のどちらを選ぶかであり、斧で誰かの頭をぶち割り、ジレンマそれ自体を突き抜けて、ナポレオンのような英雄になることではなかった。

 

『無情』は、魯迅の『故郷』にも似ていた。留学から戻った李亨植にとって、故郷は、どうしようもなく遅れた旧世界だ。人が歩けば道ができる。たくさんの留学生が、学んだものを持ち帰れば、忠や孝の徳目でがんじがらめの旧世界にも新しい道が開けるかもしれない。それにはどのくらい時間がかかるのだろう。

 

近代的自我は、罪の自覚からはじまると思う。人間が絶望的な存在だという自覚である。『無情』というのは、絶望の一種である。『こころ』の先生は、Kに対して『無情』だった。『三四郎』の美禰子も三四郎に対して『無情』だった。人間の生命は、自分の生命のことなら、それは、まさにエゴイズムと同じである。エゴイズムというものの罪深さ、絶望的な醜さに身悶えながら、近代的自我は育っていく。他人の生命の犠牲の上にしか、自分の生命は存在しないというジレンマこそ『無情』である。『無情』こそが、生命あるものの宿命であり、近代的自我の苦悩のはじまりだ。

 

チャリティコンサートを機に、それぞれが、リーダーシップ決意表明する最後のミーティングのシーンは、あまりにも牧歌的だと思った。人間の生命を称揚しながらも、全体主義に加担しただけの結果に終わった社会主義リアリズムの作品の雰囲気に似ていた。社会主義は絶望が足りないから、それ自体が絶望的な政治体制を生む、という矛盾に、まだ自覚のない作品にも思えた。この若者たちの何人かは、その後、「人生の全義務」を背負って、啓蒙的な社会主義者になり、一層過酷かつ無情な政治闘争に巻き込まれていっただろう。

 

それでも、いつしか朝鮮半島に自らの手で、独立を勝ちとるのだという、若者たちの民族的自覚ひしひし伝わってきた。この物語はまだ終わっていないのではないか。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

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2020.2.21に行ったスタンダール『パルムの僧院 下巻』読書会 のもようです。


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私も書きました。

 

 

「情熱のない時代」

 

(引用はじめ)

 

けれども情熱のない時代はなんらの真の価値を所有してはいない。すべてが代用品の取引になる。こうして、部分的には心理でもあるし道理にかなってもいるけれど、しかし魂は抜けてしまっている、ある種の言い回しや評言だけが、民間に流通することになる。

 

『現代の批判』キルケゴール 岩波文庫 P.37

 

(引用おわり)

 

ロマン主義文学の特徴は、情熱だ。ファブリスは、ワーテルローを目指し、僧籍にありながら、旅芸人を恋愛のもつれから殺し、獄中で監獄の司令官の娘と激しい恋に落ち、何度も毒殺されそうになりながらも脱獄する。すべては、情熱が動機である。

 

革命の時代は情熱の時代であり、現代は水平化の時代であると、キルケゴールは指摘した。『パルムの僧院』が発表された1839年の7年後1846年のことである。革命への情熱は、スポーツやネットフリックスのコンテンツやオンラインゲームという革命の代用品で情熱の成分を薄めて、発散させている。代用品で反省ばかりして情熱のない状態を、水平化という。

 

検察長官ラシやファビオ・コンチ将軍をはじめとする廷臣たちには魂はないが、ファブリスやクレリア、サンゼヴェリーナ公爵夫人には魂がある。

 

(引用はじめ)

 

マリエッタの恋の場合、魂は関係していると思ったことはなかったのに、公爵夫人には自分の魂が全部彼女のものだと思うことが、ときどきあったからである。(中略)ところがクレリア・コンチの崇高な面影は、彼の魂を占め、彼を怯気づかせるほどになっていた。(下巻P128)

 

(引用おわり)

 

真の価値が、魂に関係し、魂を占めるものだとしたら、現代の価値は、魂の抜けた、つまり、気の抜けたビールみたいなものだ。ナポレオンからファブリスが生まれ、ロシアではラスコーリニコフが生まれた。自分には魂に関係した恋などなかった。これからもないだろう。ナポレオンに憧れるようなファブリスの情熱は、青春時代には若干あったが、いまはもうない。文学的情熱がないから書こうとも思わない。せめて、自分はモスカ伯のように聡明で腹黒くありたい。

人間と人間の関係に真の力を与える魂の働きがなく、情熱を抱いた途端に、自らが怖れをなして情熱を手放し、世間は、情熱をいつのまには代用品にすり替え、のっぺりした日常に埋没させてしまう。

そんな時代に生きながら『パルムの僧院』を読むと、ファブリスの情熱のほとばしりに目眩がする。滑稽だが、彼の情熱を笑えない。情熱のない時代に生きるわれわれのほうが、笑えぬほどに滑稽だから。

 

  (おわり)

 

 

 

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