新潮文庫『伊豆の踊子』所収『禽獣』
2020.3.27に行った川端康成『禽獣』読書会のもようです。
私も書きました。
「禁じられた遊び」
「それにしても、なぜ自分は咄嗟(とっさ)に扉の陰に隠れたのかしら」(P.173)
なぜ、彼は、咄嗟(とっさ)に扉の陰に隠れたのか? その答えを考えてみた。
この主観的な配置・編集・構成による因縁・因果の説明、これを、「見立て」という。とりわけ、禅は、最高の智慧である「空」、つまり、一切の因縁因果(法)の否定を、公案による修行などで学ぶ。その修行のために「見立て」を駆使して、それを否定していくプロセスにより「空」を悟るのだ。
鎌倉室町以降の能楽、茶の湯、俳諧のジャンルは、禅の「見立て」をとりいれて、日本文化を深化させた。換骨奪胎とは、もとは、禅の用語である。凡骨を仙骨にするのが換骨だ。ひいては、古の形式を自分流にアレンジする意味となる。これも「見立て」の一種だ。
川端は、「見立て」の達人だ。何層もの「見立て」で作品世界を埋め尽くしていく。彼が、「新感覚派」と呼ばれたのは、「見立て」の奇抜さゆえである。
『禽獣』は「見立て」を駆使しながら、彼と千花子の因果を語っている。
『山門不幸 津送執行』 禅寺の住職が遷化して、空に鳥が解き放たれる。「放鳥」は、死者のために、禽獣を自由にして、殺生の罪を贖うための「見立て」である。その鳥たちの鳴き声に白昼夢を破られてから、葬式に出くわすと縁起が良いという、易学思想の「陽極まれば陰生じ、陰極まれば陽生ず」の「見立て」が重ねられる。それが、千花子との心中未遂のシーン、さらには、末尾の千花子の死化粧まがう化粧シーンへと続き因果がめぐっていく。
放鳥や葬式も、それぞれの「見立て」の材料である。菊戴の死は、「見立て」をもたらした。その「見立て」は、事実によって裏打ちされていく。わざわざ千花子の舞踊会に出かけるのは、「見立て」の答え合わせのためである。
押入れの中で死んでいる菊戴の番(つがい)の死骸。その前に死んだ三羽の菊戴。心中しようとした時に千花子が見せた、真夏の午後の合掌。その姿に感じた「虚無のありがたさ」、そして、菊戴が、幼い初恋人同士のように毛糸の鞠の姿になって、眠っている姿。これらのシーンが「見立て」として配置され、複雑なレイヤー(層)を構成し、因果を織りなし、ひとつの世界観として文章の中に立ち現れる。
千花子が、縛ることを求めた足は、水浴して溺れ、火鉢で足を焦がしてしまった菊戴の足に「見立て」られているのは、何度も読むとわかるだろう。
川端が孤児であることが、彼に「見立て」のなかで寂しさを紛らわすことを教えたのか。しかし、いくらなんでも、死を「見立て」るのは、禁じられた遊びである。
では、なぜ、彼は、咄嗟(とっさ)に扉の陰に隠れたのか?
舞踊会の楽屋で若い男に化粧させている千花子の姿に、押入れに死んでいた、菊戴の番が、甦って、毛糸の鞠のように、睦みあっているという「見立て」が重なったことのではないか。
楽屋を垣間見ての、菊戴の番死骸が甦って、彼の眼前に現れたような、因果関係の報いの感覚が、彼を咄嗟に扉の陰へと隠れさせたのだ。それは、非倫理的な白昼夢を咎められたかのような衝撃だったろう。
『小鳥の鳴き声に、彼の白昼夢は破れた。』(P.144)
実は、この一文が大変重要だ。
その白昼夢が破れた冒頭シーンで既に、禅でいうところの因果関係の否定である「空」への直観が、暗示されている。
(おわり)
読書会の模様です。