2020.4.3に行った向田邦子『父の詫び状』読書会のもようです。
私も書きました。
「優等生のサガンみたいだ」
読んでいてどこまでが、事実で、どこまでがネタかわからなかった。全部作り話にも思えるし、いや、そんないじわるくよまなくても、筆者は誠実に書いているのかもしれない。ところどころ、「その後記憶がない」といわれると、つじつまの合わないところをうまく逃げているように思う。海苔巻きの端っこが、いつのまにかなくなっているように。
エッセイというのは名の知られた人が発表するものだ。落語の「まくら」に近い。お笑い芸人なり、俳優なり、作家なりが、書くエッセイは、すでにある知名度を活かして読ませる近況報告みたいなものだ。近況報告で原稿料を稼げるのは、世間が実力を認めている証拠だ。
素人の我々が、知人と久々に再会して近況報告するときに、話すような話題で金が稼げるだろうか? 無理である。ごくプライベートで些末な話に過ぎないが、お互いの生活環境やこれまでの関係があるから、興味を持って聴けるわけであって、見ず知らずの人間の近況報告に興味など持てない。
向田邦子さんは、脚本家としていくつもヒット作を飛ばし、すでに有名な業界人だったから、このようなエッセイが成立し、かつ売れたのだろう。課題図書として選んでおきながらあれなのだが、感心すれど、感動はできなかった。通夜の晩に家族の前で社長にしてみせた父の「卑屈とも思えるお辞儀」だけが、印象に残った。(『お辞儀』)
家族や、昔の同級生など、あまり当たり障りのない人をネタに、サービス精神旺盛にエッセイを構成している。とりわけ自分の父親を、今の言葉で言えば、「いじって」いる。もしかしたら、こんな父親ではなく、別な人物であったかもしれない。しかし、当人が鬼籍に入れば、書いたものの方が真実らしくなってくる。
『父の詫び状』のエッセイは、向田邦子さんが乳がんでしばらく入院し、復帰した後に雑誌に連載されたものをまとめている。がんに罹れば、誰でも、否応無く死を意識するだろう。このエッセイは、死を意識した作家の、筆遊びのような気がした。元気で長生きするという前提だったら、自分と、自分の家族にまつわるウソか本当かわからないような話を書いていれば、逆に気が滅入るのではないかと思う。
おそらく、吹っ切れて書いたのだろう。私は、家族のことを脚色を交えて描くような勇気を持たない。身内で話すことはあっても、出版物として残すような気にならない。しかし、もしも、いずれ遠くない死を意識すれば、思い出として書くかもしれないが。
この前、太宰治の『富嶽百景』を読書会で扱ったが、あれは、太宰の関係者にとっては、非常に迷惑な作品だと思う。うそばかり書いてある。関係者はそのうそを見抜いている。作家の業の深さというのを思いしった。川端康成の『禽獣』も、別の意味で自分の醜さを分析して、創作に替えている。ああいうことをして生計をたてることのできる作家の神経の太さに私は恐れ入る。
『わが拾遺集』に出てきたヒゲを抜かせてくれる小学六年生の女の子って、実際にいるのだろうか? いるような気もするが、創作のような気もする。菊戴の番の死骸を、押入れに入れたままにしている想像力よりは、罪がない。あの菊戴って、皇室の比喩なのだろうか? それはさておき、ざらっとする印象だが、突き詰めずに匂わせただけで、別の話題に移っていくから、あと引かない。テレビドラマ的な編集が行き届いている。
岡本かの子の文章に似て、表現が的確で無駄がない。ただ、岡本かの子の背景に濃厚な仏教的な諦念が、向田邦子さんのエッセイには少ない分、ブルジョワ的手練の印象だけが残る。岡本かの子は、海苔巻きの端っこへの愛着を描かないだろう。そういう辛辣なことばかり考えてしまう。文学好きなだけの平凡な男である私の、彼女の溢れんばかりの才能への嫉妬か? 優等生のサガンみたいなところもあるな。そんな尻の穴の小さいことばかりが頭に浮かんだ。
(おわり)
読書会の模様です。