信州読書会 -2ページ目

信州読書会

長野市で読書会を行っています

2020.2.14に行った夏目漱石『三四郎』読書会のもようです。

 

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「形式の解体と生命力」

 

丸山真男は、全共闘の学生に向かって「文化とは形式です」と説教したという。(丸山真男回顧談 下)小林秀雄も安岡章太郎との対談で封建主義のもつ形式というのは、文化を作り上げるからすごいんだ、と力説していた。(安岡章太郎 『文士の友情』)

 

漱石の作品は形式と生命の対立を描いている。『三四郎』でいえば、美禰子は自由恋愛に惹かれている。野々宮とも、三四郎とも、広田先生とも、原口とも恋愛したい欲求はあっただろう。しかし、形式的なお見合いで、自分を処した。彼女の恋愛の中身は、多くの人に気を持たせた罪作りなモーションだけであった。

 

スタンダールの『パルムの僧院』を読んで呆れるのは、そのなかに描かれる強烈なロマンである。ナポレオンに憧れるファブリスの、盲目的な情熱が、ギャクかと思うような滑稽さでほとばしっている。これは、ヨーロッパの絶対王政の文化的形式=宮廷の儀礼に対する、生理的なレベルでの破壊欲求である。

 

封建制は、概念の体系からできている。この概念の体系が「形式」である。ルース・ベネディクトの『菊と刀』によれば、日本の封建的社会秩序は、天皇への忠と親への孝行の概念からなる階層秩序に基づいているという。『それから』の代助は、形式的な佐川の娘との見合いを拒否することで、『親への孝行』にもとづく概念の体系を否定してしまった。自由恋愛として三千代を選んで、実家から勘当された。要するに代助の生命が、親孝行の形式を突き抜けたのだ。体制批判が自由恋愛として表現されている。

 

形式が目的になっているのが露悪だ、と広田先生はいうが、ベネディクトによれば、忠も考も形式なので、心がこもってなくてもいいのという。家制度のなかに家族愛がなくてもいいである。家制度を、信じていなくても「かのように」形式を踏まえるというところからが、封建制が始まる。

 

個人を縛り付ける概念の体系が、封建制を成立させているが、個人の生命が、概念の体系を突き破っていけば、概念の体系としての形式は解体していく。みんなが自由恋愛をしはじめれば、それは形式の崩壊であり、つまりは革命のはじまりである。太宰は『斜陽』のなかで、そういうことを描いている。

 

ファズリスは、自由恋愛の末、旅役者を刺殺し、収容所に打ち込まれる。そこでも収容所所長の娘、クレリアと恋愛関係に陥り、彼女の協力で脱獄する。小さな専制君主国において革命的行動である。こういう行動は、日本文学にはない。100年後の日本にもない。なぜか? それは、日本人が日本文化の形式に無自覚だからだからというのが一つ。もうひとつは、明治維新以降の日本社会においてに、個人の生命力が形式を解体するまでに、未だに高まっていないからだと思う。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

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2020.2.7に行ったスタンダール『パルムの僧院 上巻』読書会のもようです。

 

 

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「髪粉と謀略と情熱と」

 

サンセヴェリーナ・タクシス公爵はパルムの宮廷で干されていた。理由は二つ。以前ナポレオンの胸像を一万フランで買ったこと。フェランテ・パラという反権力詩人にお金を渡していたこと。彼の履歴にある自由主義的な傾向が、彼の受勲を妨げていた。彼は徴税請負人の孫で、苦労して公爵まで成り上がり、資産も十分あったが、勲章だけはもらえない。だが、ジーナ・デル・ゴンド嬢(ピエトラネーラ伯爵未亡人)と偽装結婚して、自薦大使として、他の国に赴任することで、叙勲対象者となるようにパルム小公国の総理大臣モスカ伯が取り計らったのである。

 

大使に就任すれば、それは、叙勲資格であるである。こうして利害が一致して、68歳のサンセヴェリーナ・タクシス公爵とピエトラネーラ伯爵未亡人は、偽装結婚を受け入れる。結婚当日、新郎は大使として赴任していき、それきり彼らは仮面夫婦である。彼女は、その美貌と才知によってパルム宮廷の花形となり、そしてモスカ伯の愛人におさまる。こうして、彼女も、ナポレオン没落後の政治体制と折り合いをつけて、ほぼ無一文の身からから這い上がった。

 

髪粉というのは深夜の通販番組で紹介しているスーパーミリオンヘアーみたいなものらしい。貴族は、髪粉をふって、小麦粉で固めてセットして白髪や薄毛を隠したという。この髪粉を、サンセヴェリーナ公爵夫人は、旧体制の象徴のように毛嫌いしている。

 

パルム大公エネルスト4世は、ルイ14世の崇拝者で、太陽王の肖像画の真似をして表情を作るような人だ。ミラノ公の一族の流れをくむというルキノ・ヴィスコンティという映画監督がいて、『ルートヴィッヒ/神々の黄昏』という映画を監督している。この映画のモデルとなったルートヴィッヒ2世というバイエルン王も、ルイ14世を崇拝するあまり、ヴェルサイユ宮殿を模したリンダーホーフ城というのを建設して、そのなかにルイ14世の像も立てて、いつもに、話しかけていたらしい。ふたりはそっくりだ。

 

ルートヴィッヒ2世は、晩年、狂気に沈んで謎の死を遂げた。パルム大公、エネルスト4世も、革命への発作的な恐怖に取り憑かれ、モスカ伯になだめられないと、これまた正気を保てない情緒不安定。革命への恐怖によって乱れた頭に、髪粉をかけてなだめ、大公の精神状態をメンテナンスするのが、寵臣モスカ伯の仕事だ。

 

世の中には、貴族趣味として、ルイ14世が好きな人もいれば、英雄願望として、ナポレオンが好きな人もいる。何かの影響を受けなければ、自分たり得ないという、悲しい性の持ち主は、想像力を拗らせて、でかい城を建てたり、断頭台を恐怖したり、ワーテルローに従軍して、周囲に迷惑を掛ける。

 

モスカ伯の腐心する宮廷工作や謀略は、現代からすれば、なんだかよくわからないである。勲章の欲しい貴族に、自分の愛人をあてがって、追い払うという、こんな離れ業みたいな政治的手腕というのは、怪物じみている。

 

それと同じくらい、ファブリスの情熱も、やはり怪物じみているのである。ファブリスを助けようとするブラネス師や酒保の女や、ロドヴィコといったキラリと光る脇役が、彼の怪物じみた英雄的行動を支えている。

登場人物が極端な性格で、そこに謀略と情熱が絡み合って、フランス革命とナポレオンの時代が好きな読書家には、非常に読み応えのある作品だった。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

2020.1.31に行った

 

三島由紀夫『宴のあと』読書会のもようです。

 

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「政治と情事は瓜二つ」

 

田中真紀子さんは、独身の小泉純一郎が首相になった時、ファーストレディーのように振舞っていた。彼女が、甲斐甲斐しく純ちゃんのネクタイを直しているシーンがTVに何度も移った。総裁選の功労者として外務大臣に抜擢された彼女の人気は、小泉政権のスタート時の起爆剤であった。その後、スタンドプレーから、揉め事を起こしまくり、田中真紀子さんは、更迭され、小泉総理と袂を分かつ。彼女の人気は、小泉政権発足に利用され、その後、彼女は政権の矢面となって、世論の攻撃にさらされた。

 

愛人のいないルイ16世のバッシングの矢面に立たされたのが、マリー・アントワネットだった。王に寵姫があれば、彼女も、自分の立場を守って、オーストリアに帰れたかもしれないが、そこは、婚姻同盟がカトリックの宗教的足枷に縛られていたせいもあって、離婚できない。彼女へのバッシングは、革命の原動力になった。

 

政治学者丸山眞男が『人間と政治(岩波文庫「政治の世界」所収)』の冒頭で『政治の本質的な契機は人間の人間に対する統制を組織化することである』と述べている。女性が矢面に立たされるというのは、人間に対するという統制の組織化の過程で避けられ得ない現象だ。

 

自民党には安倍ガールズともいうべき女性議員達がいる。杉田水脈議員、三原じゅん子議員、そのほかにもいろいろいるが、この議員たちが、政治家としての資質を問われるような発言を繰り返して、よくネットで炎上している。その傍ら、閣議決定で私人として扱われることになった安倍昭恵総理夫人は、なんだかんだで、矢面に立たなくてもすむようになっている。森友学園への政治的関与もウヤムヤになっていった。矢面がたくさんあるというのはこういうことだ。

 

皇后雅子さまも皇太子妃だった頃、よく週刊誌で叩かれていたが、あれも、今思えば、上皇后美智子様さまが、批判にさらされないための矢面になっていたからだろう。雅子さまは、以前ほど週刊誌で叩かれなくなった。

 

『宴のあと』の福沢かづは、政治に深く関わったために、裸で世間の矢面に立ってしまった。そのため、都知事選の終盤に、保守党の多額な資金が投下され、彼女の過去が怪文書で暴かれ、ネガティブキャンペーンの餌食になる。選挙において夫婦は、役割分担しなければならない。高度に統制を組織化したものだけが、権力を奪い、かつ奪い取った権力を維持できるのである。福沢かづの野口への情熱あふれる献身に、小泉政権初期の田中真紀子さんの姿がダブった。

 

福沢かづが奉加帳を持って歩き回るように、安倍昭恵総理夫人の奉加帳も、総理である夫の名前から始まり、たくさんの人が名前を連ねられているに違いない。この奉加帳が7年にわたって膨れ上がっているのが、今の日本の政治的状況だ。そして、奉加帳を守るために矢面に立つ女性議員も、御用女性評論家もたくさんいる。高度な組織化である。

 

このように、保守党=自民党の政治というのは、『政治と情事は瓜二つ』(第九章)の原理に従って高度に統制され組織化されている。かつて今太閤と呼ばれ、奉加帳の筆頭に署名するような権勢家だった田中角栄の娘さえも、その奉加帳を守れなかった。以上の仕組みを理解して、組織化して、政権を狙わないと、野党はいつまでたっても政権を打ち立てることはできないような気がする。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

2020.1.24に行った

シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット 下巻』読書会のもようです。


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「王であり、人間であることのダブルバインド」

 

 

誰かが責められていれば、誰かが守られている。ルイ15世は、寵姫がいたので、彼女たちが、スキャンダルの矢面になった。例えば、デュバリー伯爵夫人である。しかし、真面目なルイ16世は、寵姫を持たなかった。スキャンダルが報じられるごとに、マリー・アントワネットがその火の粉をひっかぶり、彼女に関してあることないこと全てが、真実だと国民は錯覚し、彼女を軽蔑し、憎んだ。

 

ルイ16世が処刑された後は、彼女が、絶対王政のすべての咎を背負い、獄につながれた。

 

(引用はじめ)

 

ただ白い石にしばられて、自由の女神のみが、身動きもせず革命広場にいのこって、凝然と彼女の見えざる目標をにらみつづけている。彼女は何も見ず、何も聞かなかったのだ。人間どもの野蛮な愚かしい行為を見過ごして、永遠のかなたをきびしく見遣っている。彼女の名においておこなわれることを女神は知らない。また知ろうとも欲しない。(P.345 第43章)

 

(引用終わり)

 

絶対王政から立憲君主制、そして共和制。革命によって政治体制が大きく変わり、マリー・アントワネットの地位も没落していく。王妃に代わって、かつてはルイ15世の記念碑のあったコンコルド広場には、自由の女神が鎮座まします。自由の女神マリアンヌは自由の名において、処刑される人々を、無関心に眺めやっている。「自由・平等・友愛」フランス革命の理念は、特権階級を丸裸にあげく、つぎつぎに王冠どころか、首までもぎ取っていく。

 

政略結婚のためオーストリアから嫁いできたマリー・アントワネットが、最後までフランス王妃であることにプライドを持って、逃げ出さなかったことに、私は深く感動した。子供たちを見捨てて、自分だけ逃げ出すことも、あるいはできたであろうが、彼女は、その選択をしなかった。

 

彼女は、王室に生まれたことのすべての報いを受け止めて、断頭台に毅然として立っていた。お転婆で浮薄な昔日の面影なない。不幸の中で彼女は、王妃としての運命を、宿命として甘受した。誰も彼女を守るものがいなくなったとき、王妃として彼女は覚醒し、王統を守ろうとした、それの悲壮な覚悟が、看守たちの心をも動かす。多くのものが救いの手を差し伸べた。しかし、革命の勢いは、彼女の命を拉しさった。

 

結局、王政は、復古する。共和制は、ナポレオンの登場で、新たな王政としての帝政へと発展解消され、ナポレオンは、これまたハプスブルク家から、マリー・アントワネットの縁戚にあたるマリー・ルイーズを娶る。その後、ナポレオンが追い出され、ルイ18世による本格的な王政復古。そこから紆余曲折を経て、今は第五共和政である。

 

王による統治と、理念による統治。ダイナミックな政治体制の変化こそが、フランスの近現代史の核心である。お台場に、自由の女神を立てていた時期があったが、基本的に、日本には、自由の女神は似合わない。ニューヨークの自由の女神も、平等が自由に優先する国、アメリカでは、持て余されている何かである。自由は、残酷な闘争である。

 

先日、松代大本営の入り口を見てきた。国体護持のために作られた非現実的な代物だ。天皇陛下と大本営と官僚機構を、こんな片田舎に移して、本土決戦に備えるという無謀な計画を、真剣に考えて、実行しようとしたことは、ヴァレンヌ逃亡計画のずさんさに近いものがある。強烈な幻想のなかで戦争を完遂せんとし、大規模な地下壕を実際に掘ってしまったという日本の大本営は、王政を守るために、国民の自由を大規模に犠牲にした。戦後は、GHQによる指導のもと、穏健な立憲君主制として再スタートして、国民には、棚からぼた餅みたいなかたちで、自由が上から降ってきた。

 

徳は、人格に付随するもので、抽象的な概念ではない。自由も実践の中に、現代における徳の真価が現れるのであって、自由の女神像だって、自由の実体ではない。自由の実現のために、何万人もが無残に死ななければならなかったのは、フランスも、戦争を経験した日本も同じだ。

 

現代社会は、自由から皆逃げ出しつつある。資本主義の危機の中で、従来の階級構造を維持するために、皆が権威にすがろうとしている。もし仮に、危機の中で現代の我々が、戦後に上から降ってきた自らの自由を、なしくずしに放棄したとする。そうすれば、戦前のように、抑圧を外に下に移譲して、耐え難きを耐えながら、我々はやり過ごすのだろうか? 権威主義と、戦うときに問われるのは、国民それぞれの人間としての自由の領分への守る自覚だ。しかし、その自覚は、あまり期待できなそうだ。

 

マリー・アントワネットは、政略結婚の犠牲者である。にっちもさっちもいかない、ヨーロッパを婚姻同盟で維持しようとしたのがそもそもの間違いだ。王室をベースとした世界秩序は、歴史の必然によって、崩壊すべくして崩壊した。鎖に繋がれていた彼女の人間としての自由は、彼女が毅然と王妃として実践的に戦って処刑されたで皮肉にも実現した。近現代の君主制はというのは、人間であり王であるというダブルバインドからできている。君主は、人間としての自由があるのかないのかわからない、ダブルバインドを生きている矛盾した存在だ。日本の皇室とて、このダブルバインドを免れない。そして、国民の総意以外に、戦後の皇室を守る藩屏は、もはやないのである。戦後の皇室は、まるで、タンプル塔に幽閉されているみたいではないか? イギリスのヘンリー王子とメーガン妃が、王室から離脱するという。資本主義の危機が顕在化する前に、EUから離脱すれば、英国民の不満は王室に直撃しなくてすむのか? それを見越してのことか?

 

資本主義の危機が、日本に直撃すれば、その矛盾の矛先は、どこに向かうのだろう。君主の徳は、期待に答えて、資本主義の危機から国民を救うのだろうか? 譲位による代替わりは、戦後最大の危機を前にしたひとつ選択のような気がする。戦後の世界秩序が、音を立てて軋んでいる。そして、自由の女神は目隠しされたままだ。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

2020.1.17に行った遠藤周作『深い河』読書会のもようです。

 

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「生命の過剰と形式」

 

 

 『深い河』の大津に『沈黙』のキチジローの面影が重なった。信念はないが、さりとて俗世にも埋没できない者の信仰を描いている。大津は、信じきるには弱すぎるが、信じずに生きていくこともできないというジレンマを生きている。行き倒れて亡くなったものをガンジス河のほとりで焼き、散骨するという仕事に従事をしながら、娼家にも通うという矛盾した行動に、道徳上のジレンマが現れている。

 

 彼の抱えるジレンマとは、一体何なのだろう?

 

 『沈黙』に登場した、転びバテレンのフェレイラは『この国は沼地だ」と喝破した。(新潮文庫『沈黙』P.230)

 

 どんな神への信仰も、日本では根づかない。なぜならば、欧米のような形式を持たない文化的土壌だからだ、と指摘しているのだと思う。政治学者丸山真男は、全共闘の学生活動家に「形式的学問だ」と非難されてとき「文化とは形式だ」とやり返した、という。戦後の日本文化において、形式は、未熟な玉ねぎのままなのだ。文化の形式が持続しているのが伝統だとしたら、戦後の日本は、まだ戦後にふさわしい形式を持っていない。あるのは、人間の生命を、維持するためには十分な、空虚な豊かさだけであり、その生命の過剰を皆が持て余している。現代の日本人が、せいぜい持っているのは、「家」と言う形式である。これは玉ねぎのような形式だ。近代以降、家族や個人は、家という形式に束縛され、生活を営み、それが、国家の土台支える政治的結合の最小単位になっていた。しかし、現代の日本社会は、戦前の国民の主体性をのみ尽くす超国家主義の沼地から、個人主義をベースとした民主政治に移行している。だから、家は、もう戦後精神の形式たりえない。それは、磯辺や美津子の家庭生活の空虚が証明している。家という玉ねぎは「愛の働く塊り」(P.104)ではない。

 

(引用はじめ)

 

「何のために、そんなことを、なさっているのですか」

「え」

修道女はびっくりしたように碧き眼を大きくあけて美津子を見つめた。

「何のために、そんなことを、なさっているのですか」

すると修道女の眼に驚きがうかび、ゆっくり答えた。

「それしか……この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」 (P.350)

 

(引用終わり)

 

 修道女は、信仰の形式を生きている。『死を待つ人の家』に暮らし、行き倒れの人を保護し、埋葬している。最期まで、人間の生命の尊厳を大切にしたい、どんな人間もせめて人間らしく死なせて、冥福を祈ってあげたい、というのが、彼女たちがこの世界で信じていることの核心である。インドのカトリックは、その核心に見合う信仰の形式を、インドのカースト制社会のなかに創造し、彼らの信仰を根づかせた。輪廻の予言を残して死んだ啓子も、塚田を看病したガストンも、沼田を慰めて死んだ九官鳥も、戦後日本の新しい形式の創造を暗示する、玉ねぎの使徒である。全く平凡で善良な存在が玉ねぎの使徒である。彼らが登場人物を人生の節目に現れ、玉ねぎとしてはまだ未熟な戦後日本の精神的形式に、質的変化を働きかけるために、「深い河」へといざなう。

 

 美津子の記憶にある大津の学食のカレーの臭いのする吐息、そして、彼の詰襟からもれる汗の臭い。それらは、形式からはみでてしまう生命の過剰だ。美津子の性的な自暴自棄も、古い形式からの逸脱だ。沼地に繁茂する生命の過剰に、形式を与えるには、まず、信じる力が必要だと、狐狸庵先生は説いているのかもしれない。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

2020.1.10に行った

シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット 上巻』読書会のもようです。

 

 

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「下町のマリー・アントワネット」

 

マリー・アントワネットの肖像画はたくさんある。ギロチンにかけられる前の哀れなスケッチ以外は、どれもそろいもそろって、口元あたりに、傲慢さが見え隠れするような挑発的な表情だ。一見、ダ・ヴィンチの『モナリザ』の不敵な笑みに少し似ている。革命によって顕在化するような庶民の嫉妬が、彼女の肖像画に挑発的なトーンを加えるのかもしれない。つまり彼女の口元が挑発的なのは、植え付けられた偏見による、我々の錯覚ゆえでは?

 

(引用はじめ)

 

博愛主義的になった十八世紀は、もっと洗練された手を使う。政敵を倒すには短剣を雇う必要はなく、ペンを買収する。肉体的に片付けるのではなく道徳的に始末する。笑いものにして殺すのである。(P.240)

 

やがてこれらの売文業者のあいだにマリー・アントワネット攻撃のパンフレットは、今一番実入り多い仕事であり、それに大して危険でないという情報が、口から口へ伝えられ、こうしてこの不幸な流行は猖獗をきわめる。(P.241)

 

(引用おわり)

 

『首飾り事件』以降のマリー・アントワネットは、現代でいえば、ネットで炎上しても、記者会見も開かず、ひたすら無視を決め込んでいたことになる。名門ハプスブルク家に生まれた彼女は、無視こそ最大の軽蔑と心得ていた。

 

しかし、弁明しなければ、あることないこと事実であるとされ、評判がガタ落ちなる。まだ権力のある斜陽の人物を誹謗中傷するのは、金になるのである。山のように印刷され国内外に頒布された怪文書は、マリー・アントワネットを不道徳の怪物に仕立て上げた。

 

最近タピオカ屋に恫喝まがいのメッセージ送ったことが暴露され、活動自粛に追い込まれ、挙げ句には、お笑い芸人の旦那と離婚したママタレがいた。確かに、ユッキーナはもともとイメージがいいかというと、下町のマリー・アントワネットのような感じで、無知による軽薄さが見え隠れしていた。それを『おバカ』というコンセプトで本人も一時期売りにもしていた。しかし、今回はおバカではすまず、勢いよく炎上して、ネットではまとめサイトができて、恰好のアクセス稼ぎのネタになってしまった。

 

もしかしたら、マリー・アントワネットのようにハメられたのかもしれず、あんだけ叩かれるいわれも、もしかすると、そんなには、ないのかもしれない。でも、恫喝が暴露されると決定的な証拠のようになってしまう。あのLINEのやり取りみたいなのが、もし仮に偽物で、仕組まれていて、弁明できないように予め計画された事件だと想像したら、誰でも背筋が凍るのではないか? でも、世間は、ユッキーナをマリー・アントワネット同様に、そういう素行の持ち主だと見て、偏見を抱いている。人気商売の人にとっては、恫喝が事実かどうかは二の次だ。そういう偏見があって炎上すれば、後の祭りだ。仕事がなくなる。今後本人が誠実に釈明して不明を恥じ、改心して出直すしかない。

 

フジモンもさんざんテレビで他の芸人に振られてネタにされたが、とうとう、ネタにもならなくて、しばらくは、暗い顔してひな壇に座っていた。かつての元気なガヤも、見る影もない。結局、夫婦は離婚することになってしまった。マリー・アントワネットのようにギロチン送りにならないだけ、ましかもしれない。

 

今も、たくさんの政治家や芸能人が、毎日ネットの流言飛語によって道徳的に始末されている。当事者が、調子づいているのが目に余ったり、誤解を招いたりするような生活態度だと、やっぱり助け船を出す人はいない。一度地に落ちた名誉は、なかなか挽回できない。政治的な世論操作は、18世紀から格段の進歩を遂げ、みんな振り回されている。

 

  (おわり)

 

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2019.12.27に行った川端康成『伊豆の踊子』読書会のもようです。

 

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「ショー・マスト・ゴー・オン」

 

 

 天城峠の前までは、まるでストーカーのようなしつこさだった。『踊子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ』(P.12)という、鬱勃たる欲情。ロリペド大国ニッポンの旅情。それが「ポキン」と折れたのは、お茶を給仕して、真紅になりながら、ぶるぶる震える踊子の手付に、四十女が『まあ! 厭らしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれ…・…』というきついツッコミゆえである。「私」は、人権意識のない俗情から目を覚まされたわけである。

 

 一高生の制帽といえば泣く子も黙るエリートの証である。要するに、『水戸黄門漫遊記』の葵の御紋の印籠である。しかし、エリートでありながら己の孤児根性に苛まれる「私」は、反省に倦んで、メンがヘラって伊豆を旅している。こんなことは、旅先の人々は知らない。踊子も、無論知らない。でも、彼のメンがヘラってるのは、この一行は薄々知っている。

 

 薫こと踊子は、一高生の「私」に思いを募らせていくが、彼女は、厳しい渡世の旅が宿命である。やっぱり、投げ銭を握って帰ってくる踊子である。要するに、櫛だって、犬の毛を梳いて、汚して、かんたんに形代にはしない。(兄貴の栄吉がその代わりに、口臭清涼剤「カオール」をくれた 半笑←)真っ裸で朝日の中を立ったり、眦に紅を残したまま見送りに来たりするような無意識の媚態と渡世のなかを踊子は生きている。

 

 四十女が、「私」しきりに孫の四十九日に立ち会うように求めたのは、家族にならなければ、薫との関係を許すわけにはいかないという意味だ。栄吉が、始終なにげなく「私」のもとにやってきて、慣れて、なおかつ投げつけられた金包を、断ろうとするのは、彼なりの渡世の了見があるからである。四十女と栄吉のコンビプレー。栄吉はそれでも紋付きの礼装で「私」の船を見送った。爺さんを追い出して、楢山参りに連れてっても、「私」を大島に呼ぼうとする、四十女の浅ましさ。あてが外れて、急に冷たくなる四十女と千代子の夏目漱石の『こころ』の叔父さんのような仕打ち。畳み掛ける。

 

 この一座のプロモーターたる四十女の世知は、栄吉のように、夫婦となって一座に同行して、共同生活することを、「私」に対して、暗に、求めている。それに反発して、「私」は旅情が同情に変わらないように、亡くなった子の花代だけ渡し、東京に帰るだけの世知があった。そこは、腐っても一高生である。太宰とは違う。薫という名前で表記されず、終始踊子であるのは、結局は、「私」にとっては最後まで踊子であったからだ。それも世知だ。世知辛いとはこのことだ。

 

 吉永小百合や山口百恵で映画化されているが、私は、藤圭子さんのことを思い出した。藤圭子さんも両親が浪曲師で、旅回りに同行していたそうだ。芸能界の古い体質ということが言われる。最近の宇多田ヒカルさんをみて、私が世知辛さを感じるのはそこだ。ジャニーさんの言った「ショー・マスト・ゴー・オン(お座敷よ!毎日続け!)」。アメリカナイズされても、まだ日本の芸能の名残は深い。

 

 千代子は、子供を早産で亡くしてもドサ廻りしてお座敷を続けなくてはならない。だから、芸能人は、安定と持続を求める市民社会の倫理になじまない。一般市民の知らない悲しみを隠して、踊子は、お座敷を続ける。

 

 川端先生も、「物乞い芸人村に入るべからず。」を自らへの戒めとして生きていったように感じた。彼の選んだ道も、踊子の世界と同じである。

 

 金歯だかジルコニアにしたほうがいい(P.37)という千代子と踊子の会話に、百合子が入っていないのがみそである。百合子は、この旅芸人一家の了見を、これまた雇女の世知辛さで、むっつり見抜いている。

市民社会の倫理が、以上のことを隠蔽すると、吉永小百合やや山口百恵主演の『伊豆の踊子』になってしまう。

 

 孫を三人抱えて、水戸に帰る婆さんの悲哀は、踊子と「私」が一緒になったあとの四十女の未来を暗示しており、冒頭の薬の能書きの中に埋もれる中風の老人は、栄吉のこれからの姿だったのかもしれない。そして、隣に寝ている少年は、昨日までの「私」だ。

 

 最後の涙は、世知が極まった衝撃と、所詮、そんな世知が、自然の智慧に抱かれてると悟ったゆえの賜物である。

                                             

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

2019.12.20に行った太宰治 『ダス・ゲマイネ』読書会のもようです。

 

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「知ることは幸福であるか?」

 

太宰を読み直すにつれ、以前読書会で扱った又吉直樹さんの芥川賞受賞作品の『火花』の中に潜んでいた太宰のエッセンスを、強く感じるようになった。『火花』には、神谷さんという破滅型の先輩芸人が出てくるのだが、彼は、『ダス・ゲマイネ』の馬場によく似ている。

 

この作中で、太宰を殴ったあとに、馬場が、芝居の台詞みたいなリズミカルな口調で語った「『荒城の月』の作曲したのは誰だ。滝廉太郎を僕じゃないという奴がいる」という泣き落としは、佐野次郎の気持ちが、太宰に移っていったのを見計らっての、演技である。才能や魅力は、人を惹きつける。若者の熱狂は移ろいやすい。泣き落としで、馬場は、佐野次郎の気をもう一度、惹こうとした。でも、いったい、何のために?

 

『火花』 の神谷さんは、後輩芸人の徳永に「俺の伝記を書け」と言い、その内容にふさわしい佯狂を演じ禅問答をふっかけて、一生懸命に徳永をひきとめていた。お笑いも、芸術談義も突き詰めれば禅問答みたいになる。アパートでの『海賊』の打ち合わせは、太宰と馬場と佐竹の下手な禅問答である。だが、この禅問答の、本当の答えは、佐野次郎の行動によって明かされたのだ。

 

世の中に、恰好をつけるために、彼らは群れる。己の才能は、頼りないから、三人寄れば文殊の知恵とばかりに、徒党を組む。例えば、お笑い芸人なら、弟子入りするか養成所に入るだろう。そうやって、芸能界や同人誌の鳥居をくぐり、、己のわずかな才能や魅力を担保とした、本物か偽物かわからない手形を振り出して、世の中に向かって恰好をつけようとする。

 

その手形が世の中にどこまで流通するのか? 芸人でも作家でも売れるというのは、怪しい手形を人に押し付けるような、一種のやましさがあるに違いない。多くの人が、やましさで逡巡する一の鳥居を、えいやとばかりに、くぐってしまえば、あとは着飾ったイチゴの悲しみばかりだ。怪しい手形が、いつか不渡りなるまでのタイムラグこそ、ばけものの恰好をした者の悲しみだ。

 

馬場の振り出した手形が、太宰に渡って、そして佐野次郎に押し付けられた。

 

その手形は、結局は不渡手形だったのだが、佐野次郎は、その手形を受け取るまで、彼らの茶番に巻き込まれた。そして、とうとう彼だけが手形の決済にまつわるからくりを直観した。馬場の言う通り、フレキシビリティの極致であり、知性の井戸の底であり、禅問答の唯一の答えは、佐野次郎自身だったのだ。

 

その答えを持って、佐野次郎は、意味不明なことをつぶやきながら、走り出したゆえに、電車にはねられ、死んだのである。

 

鰯の頭も信心から。『お稲荷さんを拝んだ後の空虚』は、宗教の領域だ。『空虚』の本質を知ることこそが、仏教では智慧の本質だろう。それをもって「悟り」というのであれば、悟ることは幸福でもなんでもない。悟れば、結局、人は、走り出さざるをえず、電車にはねられざるをえない。

 

残された生悟りの者たちは、また一から、怪しい手形にまつわる下手な禅問答を、延々と繰り広げはじめる。そして手形が世間で不渡りになるまでのタイムラグを、ともするとそれなりに幸福に遊んで、「人は誰でもみんな死ぬさ」、とうそぶきながらも、けっこう長生きするのだ。

 

 (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

 

 

2019.12.13におこなった城山三郎『官僚たちの夏』読書会のもようです。

 

 

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私も書きました。

 

民族派通産官僚の美徳

 

1938年の国家総動員法成立の直前の1937年に商工省(のちの軍需省→通産省)に入省した風越信吾=佐橋滋を中心とする通産官僚の群像劇である。

 

物語は、民族派=統制派の風越と、国際派=自由貿易派の牧、片山の対立が軸である。通産官僚としての風越は、戦時経済体制の統制的価値観をひきずっている。貿易自由化による外資の脅威と、過剰生産による過当競争のつぶしあいという2方面から、民族資本を守るため、通産省の独自の主導権を確立しようとした。彼が起案した指定産業振興法という法律をめぐって、政官財が火花を散らす。

 

スポンサーなき立法、すなわち官僚主導の産業政策を強力に進めるための法律の成立のため、風越は、通産省内の人事を自分の子飼いの部下でかため、政財界に働きかけるが、彼の高圧的な態度は各方面から誤解を招き、一度は、事務次官のポストも失いかけた。

 

指定産業振興法は、国会に提出されたが、採決されず結局、廃案となった。個人主義で西欧かぶれとみられている牧や、片山のほうに私は好感をもった。最終部分は、フランス経済の官民協調を研究した牧ら、国際派官僚の時代が来て終わるという流れになっている。

 

風越のような民族派の辣腕は、一歩間違うと、超国家主義者である。つまり、民主的統治というより植民地統治のような強権的な意識が透けて見える。高度経済成長期は、こういう官僚も重要なのかもしれないが、現在に風越みたいな人がいたら、どうだろう。風越の子飼いの部下は、みな過労による殉職であった。天下国家のために無定量・無際限に働いたあげく、戸板で担がれて帰宅というのは、戦前の超国家主義の時代から官僚だった人たちの美徳のような気がした。自分だったらまっぴらごめんである。

 

『通産省と日本の奇跡』を書いたチャルマーズ・ジョンソンによれば、風越のモデルである通産官僚、佐橋滋は、単なる統制官僚ではなく、経済環境の変化に対応して産業構造を変えた有能な官僚だということだそうだ。

 

指定産業振興法が廃案になった以上は、この小説は、風越の敗北の物語なのだが、通産省が『行政指導』という法的に根拠のない手段で、日本株式会社の産業構造の変化をリードする道筋をつけたという功績は、佐橋滋氏のものだという。

 

現在の通産省も、未だに風越のような統制的価値観を残しているように感じる。安倍首相の秘書官件補佐官、今井尚哉(たかや)氏は、経産省出身で、この作品で風越の同期で先に事務次官に就任した玉木こと今井善衛氏の甥である。安倍総理の祖父は、御存知の通り、戦前の東條内閣で商工大臣を務め、戦時経済体制を作り上げた岸信介だ。現在の産業政策も、戦前の商工省の人脈を色濃く反映して行われている。目下、日本は経済産業省中心に、日本経済の立て直しを図っているが、国際的な経済環境の変化に対応しているのだろうか? 『一億総活躍社会』は今井秘書官の作ったキャッチコピーだそうだ。全体主義的なコピーのような気がするが、このご時世なら仕方ないのか。

 

 (おわり)

 

読書会の模様です

 

 

 

 

 

 

2019.12.6に行ったアナトール・フランス『神々は渇く』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

「人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全である」

 

エロディの父でブルジョワ商人のブレーズは、ガムランにこう忠告した。

 

(引用はじめ)

 

―――失礼ながら、一つ忠告させてくれ給え。君が生活の資をかせごうと思うなら、愛国的なトランプ札など描くのはよすのだね。革命の象徴だとか、ヘラクレスだとか、ヒュドラだとか、「罪」を追求するエリニュエスだとか「自由」の天才だとかを描くのはよすのだね。そしてきれいな娘たちを描くのだ。市民たちの世直し熱は時とともに冷えていくが、男はいつになっても女を愛するだろう。(中略)そして、よく頭に入れておくがいい、もう誰ひとり革命に関心を持っていないってことを、革命の話なんかもううんざりしているってことを。(P.47)

 

(引用おわり)

 

ガムランは真面目で純粋なために、革命の熱狂で我を忘れ、鬼神と化してしまった。革命裁判所の陪審員として、反革命分子に死刑判決を下し、ついには知人たちをもギロチン送りにする。「地獄への道は善意で舗装されている」という格言があるが、ガムランの善意は、たくさんの命を奪った。

 

選挙戦のさ中に子供を作る政治家が多いといわれている。清廉潔白なロベスピエールやガムランは、祖国と法に忠実だ。あくまでも忠実であろうとするあまり、人間性を踏み外すテロ(恐怖政治)に突き進む。この自己矛盾に、革命の本質が立ち現れる。

 

人は政治闘争の渦中に、オルガスムスに似た高揚を味わうという。革命の本質であるエロスとタナトスの物語るのは、祖国を愛するために人間性を踏み外したガムランに、そのためにいっそうエロディが、欲情させられていることだ。(P.239)

 

しかし、その高揚感は媚薬のようなもので長続きはしない。血の滴るステーキを食ったあと、しば漬けが恋しくなるように、世直しの熱が消えれば、みな卑俗な個人的生活に戻っていく。

 

「美徳と恐怖」で革命を前進させるという恐怖政治も、やがて倦怠に取り巻かれ、人は政治的安定を求めるようになる。「清廉潔白の人」ロベスピエールは、クーデターを予感し《私は深い謎のような不正の動きを蔽っているヴェールを全的に引き裂く決心はつかない。》と語った。非人間的な政治の怪物に化けてしまった彼らに、戻る場所はない。

 

ブロトが見抜いたように「最も血なまぐさい場面に最も卑俗な道化た場面を混ぜるシャイクスピアの或る劇(P.302)」のように、政治的怪物による権力行使は、道化芝居の筋書きに回収され、彼らは、墓穴に投げ込まれる。みんな政治にうんざりしている。野球場と芝居小屋はいつも満杯だ。

 

 (おわり)

 

読書会の模様です。