スヴェトラーナ・アレクシエ―ヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』読書会(2020 3 13) | 信州読書会

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長野市で読書会を行っています

 

2020.3.13に行った

 

スヴェトラーナ・アレクシエ―ヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

 

「シラミのように、はびこるもの」

 

 

戦場で、洗濯をしたり(P.262)、大鍋いっぱいのスープを作る。(誰も食べるものがいないのに P.131)

 

戦争は、日常生活の延長にある。戦争中でも、人間は、食べて、排泄し、洗濯をしてというルーティンを逃れられない。

スターリン体制の粛清という、いわば内乱の後の戦争。内乱の次は、ナチスの国家社会主義と、スターリンの共産主義のイデオロギーを背景とした絶滅戦争である。そして、抽象的なイデオロギーの背景には、生身の人間の日常がある。

 

トルストイの民話に出てくるような素朴な村人、それも若い女の子の村人が、志願して、狙撃兵となり前線に出て行く。

私は、読書会で何度も、トルストイの作品を扱ったが、19世紀の西欧文明から遅れた農村から、なぜ、女性を志願兵にするまでに至ったか、その経緯が、少しずつ分かってきた。ハンナ・アーレントは『フランス革命』の帰結が、絶滅戦争に至ったと『全体主義の起源』で考察している。フランスで生まれたイデオロギーがロシアの村々の隅々まで浸透したのだ。

 

2020年の3月の第2週だけで、金融市場に未曾有の暴落が襲っている。自由主義市場経済は、戦後の繁栄を支えたイデオロギーだ。結局、ナチスの国家社会主義も、共産主義も、ハイエクいわく、集産主義なのであるが、それらは、長い目で見れば、英米の自由主義によって打ち負かされてきた。

 

その自由主義市場経済は、冷戦体制の崩壊後には、唯一のイデオロギーだったが、それも、雲行きがあやしい。

所詮、金融市場を通じた競争は、イデオロギーであり、別のカタチの戦争の継続である。

 

この暴落の後で、中小企業の倒産、就職難やリストラが起こる。市場経済の『悪魔の碾き臼』で、人間がすり潰されるのは、人間が集産主義の結果としての白兵戦で殺しあうよりもましだという、選択だと私は思う。だから集産主義的な政策を、私は支持できない。公的資金を通じて、市場経済を延命させるとどんどん集産主義的になっていく。

 

人間は、洗濯したり、スープを煮たりしている。株価や債券が暴落しようが、日常生活は続いて行く。なぜ、こんなに疲れ切ってギスギスしているのだろう。子供の声をうるさがったり、必要もないトイレットペーパーを買い占めたり、コロナウィルス感染者をヒステリックに叩いたり。平和な日常生活が、これほどまでに荒んでる。

 

贅沢できない、所帯じみた世知辛い、日常の匂いが、倦怠やケチくささを催すにしても、戦争よりもマシである。

しかし、一度上がった生活水準は、なかなか落とせない。だから、社会は、はけ口を求めて、どんどん右傾化して、不寛容になっている。

 

祖国のために殺し合いをしたいという、何か得体の知れないイデオロギーが、人間の心に萌している春だ。それは、シラミのように…… 男のシラミは焚き火で殺せるが、女の服についたシラミは・・・・・・ 見えない場所で、ジワジワ繁殖する。日常生活のルーティンで、シラミを駆除しなければ、それは、どんどんはびこる。それだけの余裕を、なんとか自分で確保しなければ。自分のための塹壕を。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。