2020.2.28に行った
李 光洙(イ・グァンス)『無情』読書会(2020 2 28)のもようです。
私も書きました。
「近代的自我と無情」
(引用はじめ)
人間の生命も決して一つの義務や一つの道徳律のために存在しているのではない。人間の生命は、人生の全義務および宇宙に対する全義務のために存在しているのだ。それゆえ、忠とか孝とか貞節とか名誉などは、人間の生命の中心ではない。そもそも、人間の生命が忠や孝のために在るのではない、忠や孝が人間の生命から発しているのだ。(P.187 53章)
(引用終わり)
旧世界の道徳である忠や孝を否定し、人間の生命力に由来する主体性や私的領域を広げていくプロセスこそが、近代的自我のめばえである。『無情』を読んでいて、ふと頭をよぎったのは、『罪と罰』のラスコーリニコフだった。李亨植は、虐げられている生命のために怒っている。ドーニャやソ―ニャが、農奴解放後の社会体制の急激な変化によって、過酷な運命の奴隷になったように、英采も一家の没落によって妓生(キーセン)にまで落ちぶれ、生命を酷使される境遇に陥った。しかし、亨植本人のジレンマは、結婚相手として善馨と英采のどちらを選ぶかであり、斧で誰かの頭をぶち割り、ジレンマそれ自体を突き抜けて、ナポレオンのような英雄になることではなかった。
『無情』は、魯迅の『故郷』にも似ていた。留学から戻った李亨植にとって、故郷は、どうしようもなく遅れた旧世界だ。人が歩けば道ができる。たくさんの留学生が、学んだものを持ち帰れば、忠や孝の徳目でがんじがらめの旧世界にも新しい道が開けるかもしれない。それにはどのくらい時間がかかるのだろう。
近代的自我は、罪の自覚からはじまると思う。人間が絶望的な存在だという自覚である。『無情』というのは、絶望の一種である。『こころ』の先生は、Kに対して『無情』だった。『三四郎』の美禰子も三四郎に対して『無情』だった。人間の生命は、自分の生命のことなら、それは、まさにエゴイズムと同じである。エゴイズムというものの罪深さ、絶望的な醜さに身悶えながら、近代的自我は育っていく。他人の生命の犠牲の上にしか、自分の生命は存在しないというジレンマこそ『無情』である。『無情』こそが、生命あるものの宿命であり、近代的自我の苦悩のはじまりだ。
チャリティコンサートを機に、それぞれが、リーダーシップ決意表明する最後のミーティングのシーンは、あまりにも牧歌的だと思った。人間の生命を称揚しながらも、全体主義に加担しただけの結果に終わった社会主義リアリズムの作品の雰囲気に似ていた。社会主義は絶望が足りないから、それ自体が絶望的な政治体制を生む、という矛盾に、まだ自覚のない作品にも思えた。この若者たちの何人かは、その後、「人生の全義務」を背負って、啓蒙的な社会主義者になり、一層過酷かつ無情な政治闘争に巻き込まれていっただろう。
それでも、いつしか朝鮮半島に自らの手で、独立を勝ちとるのだという、若者たちの民族的自覚ひしひし伝わってきた。この物語はまだ終わっていないのではないか。
(おわり)
読書会の模様です。
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