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(引用はじめ)

 

日本の政治で一番問題なのは野党がないことだ。

 

社会党は野党ではない。

 

労働組合だ。

 

かつては社会党も政権を取ろうとした時期があった。

 

しかし、今では政権を取れるだけの候補者を選挙で立てていない。

 

労働組合と同じで、要求するだけだ。

 

それが日本政治の最大の問題なんだ

 

 (引用おわり ※ 改行は、引用者が、読みやすいようにかえました)

 

 『裏支配 - 今明かされる田中角栄の真実』 田中良紹 P.81 

 

これは、1983年ロッキード事件で、謹慎中だった田中角栄元総理の話を

 

当時の番記者だった著者が、目白の田中邸で聴いたものである。

 

この上記の引用に続いて、

 

(引用はじめ)

 

 『かつて労働組合記者クラブに在籍した頃、いろいろな労働組合を取材したことがあった。労働組合は経営側に対して労働者の立場にたった要求をし、それを勝ち取ろうとする組織であったが、現在の経営者に代わっ自分たちが経営を行おうとする組織ではなかった。 (中略) 労働組合の場合はそれでも構わない面もある。しかし、政治の場の野党がそれでは困ると思った。野党という以上、この国の経営はいつでも自分たちに任せろという気概と戦略を持ってもらわないと国民は不幸だ。しかし角栄氏が言うように、確かに社会党は修正要求をするだけで、この国の経営を行おうとはしていない。それを我々マスコミは「野党」と呼んできた訳だ。(中略)角栄氏の一言によって、私は急に日本政治の構造が見えてきたような気がした。

 

(引用おわり)

 

 

 

昨日行われわれた、2017.10.22の衆議院選挙は、自公政権が圧勝した。

 

与野党どちらに投票しようが、投票した53%有権者は、

 

たいした対立軸のない権威主義的な政治構造を、信任したと思う。

 

 

投票に行かなかった有権者は、現政権にしか政権担当能力はないので、

 

選挙結果に影響しないので、投票しても無駄だと、思っていたのだろう。

 

 

 

今回の選挙戦を眺めながら、35年前の田中角栄元総理の

 

『日本の政治で一番問題なのは野党がないことだ。』

 

という言葉が、現在の日本の民主政治の欠点をズバリと言い当てていて

 

うなだれるしかないような、やるせない気持ちにさせる。

 

 

野党各党は連携してでも、政権を取りに行こうという気概がなかった。

 

自民党を抜け出して、1993年の細川連立内閣と、2009年の民主党で、

 

二度、政権を取った際の、立役者である小沢一郎氏が関わった野党勢力を除けば、

 

政権担当能力や、政権を取ろうとする気概のある野党は、実のところ今の日本にはない。

 

ただ、労働組合のように、各種の権利を要求する野党はある。

 

立憲民主党は、そういう野党だ。

 

 

 

野党は、要求はしても、政権を担当する気概がない。そして、戦略もない。

 

政権担当能力担当のある二大政党による政治を目指して選挙制度を改革したが、

 

結局は、権威主義的な政局が延々続くだけだ。

 

 

 

自民党内の主流・非主流の派閥抗争も、ほとんどないのだから、

 

今後も、盤石安泰の長期政権である。うんざりするほど長く続きそうだ。

 

 

パッとしないオーナー企業が、粉飾決まがいの決算しながら

 

だらだら身内で固めた経営をしているような状態だ。

 

凋落したシャープや東芝の経営体制も、おそらく権威主義的だったのだと思う。

 

いま、経営問題が噴き出している神戸製鋼も似たような構造を抱えていそうだ。

 

 

一方で、経営問題が噴き出している当該企業の労働者は、

 

権利だけを要求する労働組合が、組合員に闘っているふりだけして見せている。

 

 

裏では、経営者と労働組合が握り合っているのかもしれない。

 

実体は、握り合っていなくても、握り合っているかのような構造になっている。

 

これも、権威主義的だ。

 

 

 

政府主導で賃上げしているから、

 

大企業の労働組合は、そこまで強い政治的行動には出ない。

 

一方、労働組合に支えられているような野党の議員は、政権交代を、と口ではいうが、

 

自分が議席にしがみついて、生き残ることしか考えてない。

 

 

とりわけ民進党から希望の党に合流した議員には、エゴが透けて見えていた。

 

野党にいながら、権威主義的であった。

 

 

 

そんなことない。野党はしっかりしていた。

 

実際、そんなことはないのかも知れないし、そう考えたくもないが、

 

当人たちの思いと裏腹に、野党も権威主義の陥穽にみごとにハマっている。

 

 

思えば、小池百合子東京都知事が、権威主義の権化だった。

 

 

自民党一強の継続については

 

ネオ・コーポラティズムだとか、右傾化だとか、ファシズムかだとか

 

いろいろな政治的分析はあるが、

 

問題なのは、角栄先生の言うとおり、専制じみた政権与党よりも、

 

政権を取りに行くはずの野党に、ぜんぜん気概がなかったことだ。

 

 

もしかしたら、そういうシナリオ書いた人がいたのではないかというくらい

 

希望の党への民進党の合流は、政権交代を匂わせながら、

 

小池都知事の排除の論理で、みごとに自壊して

 

公示日以降に、すごい勢いで失速していった。

 

 

 

そうなると

 

労働組合のないような中小企業に勤める庶民や自営業の人(私もそうだ)

 

年金の減額を恐れるシルバー世代は、

 

公的年金制度の維持やバラマキ政策を期待して、自公政権を応援するしかない。

 

 

権力に腐敗の臭いがしようが、そこには、鼻をつまんでしまっている。

 

忖度やら、お友だちへの口利きの疑惑は、選挙の争点にはならなかった。

 

 

 

格差社会の是正や再分配を訴えていた野党は

 

権利の要求しかしていないのだから、権利の要求がいくら正論でも、

 

かつての社会党と、何ら変わらない。

 

実体としては、野党ではなくて、保守勢力の受け皿であるだけだ。

 


 

53%の投票率というのは、形式的に国民主権の民主政治を、

 

やっているというアリバイを示しているにすぎない。

 

 

政権交代の可能性がないなら、選挙に行っても無駄だというのが、

 

現政権の圧勝をみつめる半分のしらけきった有権者の無意識の本音だろう。

 

 

権威主義的状況で圧殺されるのは、『自由』と、『良心』である。

 

 

 

日本社会が『自由からの逃走』をはじめているのだとしたら、

 

このあと待ち構えている、心理的な閉塞感は、マジ絶望的だ。

 

息もできないほどだ。

 

 

戦後日本の民主政治の構造的欠陥は、なんにも変わっていない。

 

 

その根本の原因は、国民の自覚の問題であり、

 

また、読み書きなど基本的な学力の問題だ。

 

 

問題設定から、やりなおさないと

 

民主政治がどんどん形骸化してしまう。

 

 

そのためには、本を読もうよ、読書しようよ。

 

権力を取りに行く気概を持とうよ。

 

 

(おわり)

 

 

 

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(引用はじめ)

 

最近になって、「良心」の重要性は失われてきた。

 

 

個人の生活において力をふるっているのは、いまや外的権威でも内的権威でもないようである。

 

すべての人間は、もしじかれが他人の合法的な主張に干渉しないならば、完全に「自由」である。

 

 

しかしわれわれのみるところによれば、権威はなくなったのではなく、

 

むしろ目に見えなくなっただけである。

 

 

あらわな権威のかわりに、匿名の権威が支配する。

 

 

そのよそおいは、常識であり、科学であり、精神の健康であり、正常性であり、世論である。

 

それは強制せず、おだやかに説得するようにみえるのである。

 

 

それは自明のことだけしか要求しないようにみえる。

 

 

母親は娘に「あの青年といっしょに外出するのはいやでしょう」といい、

 

広告は、「このシガレットを吸ってごらんなさい、そのさわやかさは

 

お気に召すにちがいありません」と暗示する。

 

 

-- けっきょくわれわれの全生活をおおっているのは、

 

これらの微妙な暗示の雰囲気である。

 

匿名の権威は、あらわな権威よりも効果的である。

 

 

 

というのは、ひとはそこにかれの服従することが期待されているような秩序が

 

あろうことなど想像もしていないから。

 

 

 

外的権威のばあいには、秩序があり、命令するものがあることは明瞭である。

 

ひとは権威と戦うことができる。

 

そしてこの戦いのうちに、個人の独立性と道徳的勇気とが

 

発達することができる。

 

 

 

あた内的権威のばあいにも、命令は内的なものであっても、

 

それは認識しうるものである。

 

 

 

ところがこれにたいし匿名の権威のばあいは、

 

命令も命令するものも、目に見えないものとなっている。

 

 

 

それは目に見えない敵に砲撃をうけるのにに似ている。

 

 

戦うべきなにびとも、またなにものも存在しないのである。

 

 

 (引用おわり ※ 改行は、引用者が、読みやすいようにかえました)

 

『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム 第五章『逃避のメカニズム』

 

日高六郎訳 P.185-186

 

 

※ あやまって、記事を削除してしまったので最初から書き直しました。(2017.10.23)

 

 

現代社会の情報空間は、匿名の権威でおおわれている。

 

 

とりわけ、消費行動で顕著だが、「なぜこの商品がほしいのか?」という根拠は

 

品質や、価格を除くと、権威の問題に関わることが圧倒的だ。

 

ブランド品が良い例だが、

 

ブランドというのは、広告宣伝にかけた時間の蓄積でできている。

 

長年の戦略によって、人々の頭の中にブランドイメージを確立している。

 

世間のブランドイメージが、暗黙のまま共有されて、

 

ブランドを知らない人への暗示として伝わることで

 

購入の動機にまで、つながっていくのである。

 

 

一方で、商品のマイナス評価も、暗示によって、決まっていく。

 

企業ブランドの失墜は、早めに対処しないと致命的になる。

 

評価は、詳しく語られなくても、暗示によって強く伝染していく。

 

 

 

それだけ、消費社会では、暗示がものをいうのだ。

 

 

芸能人のブログやインスタで、特定の商品を紹介させる

 

ステルス・マーケティングや

 

全く関係のないシーンに、特定の意図へ誘導する暗示効果を悪用した

 

サブリミナル効果などが、暗示的マーケティング手法として有名だ。

 

 

 

私たちの現実的決断というのは、

 

実は、暗示に影響を受けているかもしれない。

 

 

 

しかし、暗示にかかっているという自覚がないまま

 

他人の意図した誘導に沿って、自分が行動していると

 

想像したら、したら怖ろしいことだ。

 

 

それは、催眠状態にあるのと同じことだからだ。

 

 

上記のエーリッヒ・フロムの引用文のような母親よくいるのではないか?

 

 

 

この母親の怖ろしさは、娘を自分の気に入らない青年から引き離すために、

 

微妙な暗示を持ってするところである。

 

娘が思ってもないことを、暗示によって、植えつけているのだ。

 

 

エーリッヒ・フロムのいう匿名の権威というのは、

 

対立する2つの勢力の間に生まれてくることがおおい。

 

 

権威に追従するものと、権威に反抗するものを例に取るとわかりやすい。

 

 

追従と反抗が、はげしくなると、中間にグレーゾーンが出来上がる。

 

どちらでもない多数派のいるゾーンだ。

 

 

たとえば、部活の顧問の先生が、一人のサボっている生徒を強く叱るとする。

 

そして、そのサボっている生徒の連帯責任として、みんなを正座させたとする。

 

そして、その顧問の先生は、ネチネチ何時間も、説教したとする。

 

もっともらしい説教で、くどいが一理あったりする。

 

 

 

顧問の先生への権威の追従と、連帯責任という不条理への反抗心が

 

説教されている生徒たちの心に生まれているはずだが、

 

やがて、その対立の間にグレーゾーンが生れる。

 

 

面従腹背と云うべき態度だ。

 

 

 

顧問の先生に本当の権威があれば、面従腹背は成り立たない。自分から従う。

 

あるいは生徒の反抗心が本物なら、面従腹背が成り立たない。言うことを聞かない。

 

 

しかし、追従も反抗もしないという消極的な態度には

 

グレーゾーンが現れ、面従腹背が成り立つ。

 

グレーゾーンが、ひとりひとりの生徒の頭の中で現れてくる。

 

これが権威主義的性格の萌芽である。

 

 

実は先程のマーケティングの例を取って、説明した暗示の伝染こそ、

 

グレーゾーンに深く関わっているのである。

 

 

自分で選んだ自覚がないまま、選択肢を狭められ、選ばされている状態だ。

 

 

先生の権威に全面的に従っていないが、さりとて反抗する気もない。

 

商品に積極的に惹かれるわけではないが、ついつい購入してしまう。

 

 

グレーゾーンにある人々は、その場所にいることで

 

無意識に匿名の権威に奉仕してしまっている。

 

 

これが頭の中でも起こるのだ。

 

 

権威主義的性格のひとびとは、腐葉土に生えるキノコのように

 

グレーゾーンに現れる。

 

 

2つの対立が激化すると、かならずグレーゾーンが広がっていく。

 

そこは、戦闘地帯ではないのだが、匿名の権威が支配している。

 

 

 

匿名の権威は、グレーゾーンのひとびとの自由や独立を圧迫する。

 

現状維持がとりあえず最善の選択であると暗示して、

 

目に見えない秩序に、とどまらせようとする。

 

 

何もしないで立ちすくむという行動を選択する。

 

 

とどまるのはあくまでも自分の選択なので、服従ではない。

 

匿名の権威が、欺瞞的選択を、計画的にひとびとに植えつけているのだ。

 

 

社会の閉塞感は、匿名の権威が支配するグレーゾーンに充満する。

 

 

ひとびとが、自らの選択で、自由や独立を手放し、良心を押し殺しはじめる。

 

権威主義の怖ろしさは、ここにある。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

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2012年の自民党の改憲草案に

 

(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 

とあります。

 

現行の日本国憲法の原文は、

 

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ

 

です。

 

  自由と責任、権利と義務がセットになったのが、自民党の改憲草案バージョンですが、

 

  権利と義務の話はおいておいて、今日は、

 

  『自由』と『責任』は、果たしてセットなのかというテーマについて書きたいと思います。

 

 

 

  カントの『純粋理性批判』は、まさしく『自由』についての哲学です。

 

  私が読んだところで、簡単にカントの哲学を要約すると、

 

  『自由』というのは、この宇宙の現象の原因となるものです。

 

  この宇宙を、物理学で考えると、宇宙には宇宙の発生原因があるはずです。

 

  この宇宙は、様々な条件のもとに成り立っているが、

 

  原因をつきつめると、無条件にたどり着く。それが『自由』だ、ということです。

 

  ビッグバンで、宇宙が膨張して広がったとすると、

 

  ビッグバンの原因は、カントに言わせれば、『自由』だということです。

 

  『無』のなかに、突然に、『自由』が現れて、この宇宙ができたのです。

 

  そう考えれば、『自由』の対立概念は『無』と言ってもいいかもしれません。

 

  『自由』には『無』が伴う。

 

  

 

  しかし、仮に、『自由』をもたらした、超越的存在(神仏)を仮定すれば、

 

  『自由』は、神仏の恩寵だと考えることもできます。

 

  とすれば、自由は、神仏の恩寵だから、マジ感謝、大切にするっす。

 

  マジ責任重大! 神様仏様、ぜったい粗末にしません。

 

  という感じで、『自由』には『責任』が伴うでしょう。

 

 

 

  じゃあ、『自由』と『無』のセットと、『自由』と『責任』のセット

 

  どっちが正しいのかと言えば、これはどっちも正しい。

 

  カントは、アンチノミー(二律背反)として、

 

  対立する二つの命題がどっちも成り立つことを証明します。

  

  『自由が存在するか、しないか』『必然者(神仏)が存在するか、しないか』は、

 

  人間の認識の外側の話なので、どっちも成立するというのです。

 

  (私の解釈による要約です。厳密に言えば、もっと別の書き方してます)

 

 

 

 

 

  『純粋理性批判』の中巻には、そういう話が延々書いてあります。

 

 

  確かに、日本では、「自由には責任が伴う」というのが、普通の感覚だと思います。

 

  責任は、一人では背負いきれないから、社会のみんなで責任を背負うという

 

  連帯責任の感覚が、日本社会に強く働いています。

 

  たとえば、部活で、ひとり練習をサボれば、部員みんなが先生から往復ビンタ食らうとか、

 

  正座させられて、ネチネチ何時間も、説教されるとか、ああいうのです。

 

 

  「世間に対する義理」といいかえると、わかりやすいと思います。

 

  あるいは、 「ご先祖様に申し訳ない」とか「世間をお騒がせして」とか

 

  「勝手なことしないで、空気読めよ」というセリフにこめられた想いに、

 

  濃く表れています。

 

  

  日本社会では、自由が、世間への責任とセットになっているのです。

 

  ただ、公共の福祉への責任ではなく、あくまでも、世間への責任です。

 

 

 

  ただ、カント哲学の『自由』は、

 

  これは、純粋に頭の中の問題(形而上学的問題)なので、

 

  世間との関係では語られません。

 

 

  『自由』 は、世間には存在しないが、

 

  理性には『自由』をもとめる働きがインストールされている。

 

  こういう考えが、カント哲学における『自由』です。形而上学的『自由』です。

 

  だから、『自由』が『自由』としてあると仮定したら、

 

  それは無条件でマジ大切だよね、って話です。

 

  

  世間とかカンケーネーYO! という話です。

 

 

  もちろん、社会生活や経済活動の、世間的自由というのも語られています。

 

  (おそらく、J ・ S ミルの『自由論』などは、実証主義的『自由』の話です。)

 

 

  日本の『自由には責任が伴う』の考え方も、現実問題としては正しいと思います。

 

  ただ、自由は自由という理念、そのもので

 

  尊ぶべきだという考え方もあるということです。

 

 

 

  現行の日本国憲法は、『自由』を理念としてとらえています。

 

  しかし、押し付け憲法による戦後民主主義に、民族的なわだかまりがある人たち

 

  (おそらく改憲草案を起草した人たち)は、理念としての『自由』より、

 

  現実的な責任を伴う『自由』、つまり道徳規範に縛られた『自由』のほうが、

 

  日本民族の固有価値として大事だという立場を強く主張したのだと思います。

 

 

  その熱い思いは、あながち、わからんでもないのですが、

 

  近代国家の憲法に(道徳的な)固有価値を盛り込んでいいのかという、

 

  別の問題が発生します。

 

  十七条の憲法とかだったら わかるんですが。

  

  

  議論として、どっちの『自由』が正しいか話しだすと、

 

  収集がつかなくなるのは、議論の土台が、そもそも違うからだともいます。

 

 

  ただ、学校教育で理念としての『自由』を子どもに理解させるのは、

 

  難しいだろうなあと思います。

 

  私も、色々と哲学書を読むまでは、

 

  まったく素朴に、『自由には責任が伴う』と思っていました。

  

  海外文学を読むと、日本人とぜんぜん違う『自由』が描かれているので、

 

  そこで、ようやく、なんとなくわかってくるという感じですかねえ。

 

  最近、イプセンの『人形の家』や

 

  フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』で読書会をやったのですが、

 

  海外の女性の『自由』の考え方を通して、

 

  『自由と責任はセットなのか?』を考えさせられました。

 

 

  おフランスの『自由』は、それを成立させたフランス革命の血みどろの歴史的経緯が

 

  セットですから、『自由』の重みが、日本の『自由』とは、違います。

 

  

  

(おわり)

 

 

  

 

 

 

 

 

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2017.9.29に行った村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

「井戸でやり過ごす」

 

 保守とリベラル(革新)の対立軸というのが、日本の戦後政治を動かしていたが、2017年10月になって、その対立軸がそもそも仮象だったと思わざるをえない光景が広がっている。

 

 『ねじまき鳥』の綿谷昇という人物は、まさに日本の保守政治家の欺瞞が凝縮したような人間だ。日本の保守の中には、戦前の朝鮮半島や満州での植民地経営に携わっていた政治家の流れを組む人たちがいる。日中戦争にも深く関わっていた人たちだ。

 

  GHQの逆コースによって、ある流れをくむ保守系政治家たちは安全保障権益を隠れ蓑に反共保守というかたちで生きのびて、日本の戦後復興と繁栄を推進してきた。綿谷昇もまさしく、その流れにある政治家として描かれている。

 

  綿谷昇の不気味さというのは、戦後保守の不気味さそのものだ。

 

  「なぜ人間が戦争をするのか?」という問題について社会心理学者エーリッヒ・フロムの著作に、鋭い分析がある。

 

  資本主義のある段階には、極端な能率主義(合目的主義・功利主義)が現れる。カント風に言えば「人間を目的としてではなく手段としてみる」傾向である。あるいは「最大多数の最大幸福」であり、人間を数=numberに還元する考え方だ。

 

   生きた人間を手段として、つまり数としてみるというのは、つきつめれば、死体を数えるようなものだ。大量虐殺も、強制収容所も、無謀な総力戦による玉砕も、結局は生きている人間を死体と同じく数として捉える能率主義から生まれる。 

好戦的な政治家は、死体愛好家に極めてよく似ている、とフロムは指摘していた。(『悪について』)

 

 生きている人間の皮を剥ぐのも、バットで脳漿を飛び散らせるのも、人間を数として、あるいは、死体としてみていれば、造作のないことなのだ。国民を数として、有権者を数として、その数の足し算引き算で、政治を動かすこと。いわば、死体によるチェスである。

 

 綿谷昇のような保守政治家が数の論理で動くと、政局は死体が踊りだす『かんかんのう』に似てくる。

 

 暴力による抑圧と軍靴の跫音が脳裏にちらつく。

 

(おわり)

 

読書会の模様はこちらです。

 

 

 

 

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前々回の記事  『自分の記憶の中にのみ、友だち関係は残るんだ』 

 

前回の記事 『「純粋ごっこ」の時期を除けば、この世はぜんぶひとりひとり』

 

の続きです。

 

ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った 上』 岩波文庫に『友』という章があります。

 

 

引用して解説します。

 

 

(引用はじめ)

 

 われわれは友を愛するが、しばしばそれが友への嫉妬を飛び越えるためにすぎないことがある。また自分に攻撃されやすい弱みがあることをかくすために、しばしば人を攻撃し、敵をつくる。

 

 「せめて、わたしの敵となってくれ!」  - 友情はほしいのだが、そのために膝を屈することのできない真の畏敬は、こう言う。

 

 友を持とうと思う者は、その友のために戦おうと思わなければならない。そして戦うためには、人の敵となることができなければならない。

 

 友のなかにも敵を見て、この敵を敬わなければならない。あなたはあなたの友のごく近くにいて、しかも彼らの立場に乗り移らないことができるか?

 

 友のなかに、自分の最善の敵を持たなければならない。あなたがかれにさからうとき、あなたの気持ちが、かれにもっとも接近していなければならない。

 

 

ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った 上』 岩波文庫 P.92-93

 

(引用おわり)

 

 前回、吉本隆明さんの言葉を引用して、青春期に入りかけた時期には、お互い骨の髄までわかりあえるような、友情が成立することを紹介しました。

 

 しかし、それは、社会や世間で通用しない時期の〈純粋ごっこ〉だからこそ、成り立つものです。

 

 結局、「純粋ごっこ」の時期を除けば、人生はひとりぽっちだと、私は思います。

 

 しかし、この〈純粋ごっこ〉をこじらせると、〈純粋ごっこ〉をつづけるために群れて、その群れを維持するために、仮想敵を作ります。

 

 仮想敵を作り、結束して、醜い離合集散を繰り返す様子は、暴走族や不良集団の日常茶飯事ではなく、我々の日常茶飯事でもあります。

 

 例えば、職場や学校の人間関係だったり、政治活動だったり、宗教活動だったり、芸能人のスキャンダルををネットで叩くことだったり、いろいろなかたちで、季節外れの〈純粋ごっこ〉を目の当たりにします。

 

 さらに、そのドラマの多くが、週刊少年ジャンプの友情漫画よりもクオリティー低いの筋書きで繰り広げられています。

 

 それはさておき。

 

 ニーチェは、〈純粋ごっこ〉の時期の終った後の友情について、鋭い見解を述べています。

 

 純粋でない友とは、例えば、どんなものでしょうか?

 

  最近、私は、NHKで放送していた14歳のプロ棋士、藤井四段のドキュメンタリー番組を見たのですが、藤井四段は、どうやら学校には友だちがほとんどいないみたいでした。

 

 彼は、放課後、友だちと遊ぶことはなく、帰宅すると、6時間以上も将棋盤とにらめっこしていました。

 

 コタツで独り将棋を指す、14歳の孤独な姿が、TVに映っていました。

 

 その孤独な姿を思い浮かべながら、上記のニーチェの引用を読んでいると、まこの引用はまさしく、藤井四段のことを、描写しているとしか思えなくなりました。

 

 つまりは、こういうことです。

 

 藤井四段は、将棋の盤面において多くの棋士と友情を築いています。

 

 彼が、その棋士の誰かを頭に思い浮かべながら、コタツで将棋を指していると思うと、コタツの向う側には、我々の目には見えない、彼にとっての本当の友だちの姿が見えてきます。

 

 彼にとって、対戦相手の棋士は、「敵」でありますが、同時にそれは、骨の髄まで探り合っている「友」だと言えないでしょうか? 

 

 将棋の棋士は、対戦しながら相手に乗り移り、相手の手を読んだり、思考の癖を予想したり、敵に全神経を巡らせています。

 

 それも長いとき(タイトル戦など)には何十時間もです。

 

 だから、藤井四段や、棋士たちにとって、最大の友は、敵=ライバルなのでしょう。

 

 『友のなかに、自分の最善の敵を持たなければならない』

 

 骨の髄まで分かり合っていながら、一生、敵である。

 

 ひとりぽっちの世界を生きている人にとって、友だちを探すことは、敵を探すことに等しいということです。(権力闘争にあけくれる政治家にとっても同じく、政敵が友である、そんな気がします)

 

 世間で、友情だと思っているものは、やはり季節外れの〈純粋ごっこ〉なのかもしれません。

 

 『自分の記憶の中にのみ、友だち関係は残るんだ』 

 

 この意味で、思い出に浸って感傷的になるところ以外に、友情が存在する場所がありません。

 

 ただ、もし仮に、大人にとって友情が成立するとすれば、それは、ニーチェの言う通り

 

 『友のなかに、自分の最善の敵を持たなければならない』

 

 という意味での、人間関係の中にだけでしょう。

 

 それは、共依存や、権威主義を越えた生産的な次元に、自らを置かないと、決して見つからない関係です。

 

 (続く)

 

 

 

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前回の記事  『自分の記憶の中にのみ、友だち関係は残るんだ』 の続きです。

 

 

(引用はじめ)

 

(吉本隆明さんの発言)

 

 でも本当の友だちっていうか、親友っていうか、それができる可能性がある時期が人生には一ヵ所だけあると思うんです。

 

 青春期に入りかけた時期です。

 

 (中略)

 

「純粋ごっこ」の時期を除けば、この世はぜんぶひとりひとり

 

 で、この青春期の入りかけの時期については太宰治が、学校の講演かなにかで似たようなことを言っていました。

 

 そのような時期の友情のことを太宰は〈純粋ごっこ〉みたいなものだといっているんですね。

 

 〈純粋ごっこ〉とは人間と人間がお互いどれだけわかるかということで言えば、もう骨の髄までわかった感じを体験できる時期なんだ、と言っているんです。つまり、世間的、社会的には通用しない時期だからこそ〈ごっこ〉なんだけど、でも、心から、自分以外の人をわかった、人間もわかったというふうに思えるのはその時期しかないんだとね。

 

 僕もそういう感じがしているんです。だからこの〈純粋ごっこ〉の時期を除けば、結局、この世は全部ひとりひとりだよってことなんですよ。

 

(中略)

 

 加えて先に話した〈純粋ごっこ〉の時期をすぎると、実際は、同性の友だちより異性関係に重きが置かれ始めるということもあります。

 

 ここで、男女関係だってお互いにわかりあえるじゃないか、という意見もあるでしょう。でも、男女関係っていうのは、肉体を含めて親しくなったということがあっても、わかるところは全部わかるんだけども、わからねえところは全然わからねえ、検討もつかねえってのが特徴だと思うんですね。その感覚は必ず伴うものだし、大人になればなるほど、男女関係において互いの理解なんてどうでもいいとか、利害関係だけで結べればいいんだってこともありますしね。

 

 だから〈純粋ごっこ〉というか、純粋に相手の気持ちなんかが全てわかる。つまり、こう打てばこう響くんだってことがわかること、それこそが友情なんだってことになるんです。

 

               『悪人正機』 吉本隆明 糸井重里 新潮文庫 P.39-40

 

(引用おわり)

 

 吉本隆明さんは、ずいぶん悲観的なことを話している。

 

 友情を〈純粋ごっこ〉と定義している。

 

 世間的に社会的に、ゼロであり、全く通用しないから、純粋な友情関係が成立する。

 

 大人になって、世間や社会にどっぷり使ってしまえば、現実生活の利害関係の波にさらわれて、美しかった友情の絆も、夢やまぼろしのように消えてしまうというのは、私はわかる。

 

 包み隠さず、思いを語り合って、骨の髄まで、お互いのことをわかりあえる「友情」いうのは、青春期の入り口の、ひまで、やることがなくて、時間があって、ものを知らない、悪い言い方すれば、無知やバカのなかで、すくすく育つものである。

 

 そんな「友情」は、結局のところ錯覚かもしれないが、その錯覚が、青春の入り口の時期では、奇蹟的に成り立つのだ。

 

 こんなこと言ってしまえば、これは身も蓋もないことだ。

 

 (そうじゃない、友情は永遠だ、と思う人がいても、もちろんもいい。)

 

 話は変わるが、

 

 一度も友情を結んだことがない人でも、友情がどんなものかは、わかるという皮肉がある。

 

 例えば、週刊少年ジャンプの人気漫画は、友情をよく描いている。

 

 ジャンプの読者は、仮にひとりも友だちがいなくても、友情がテーマになった漫画を読んで、〈純粋ごっこ〉としての友情が、何かは知っているのだ。

 

 友だちがいなくても友情の尊さを知っている。これは、薬物みたいなものだ。

 

 凄まじい中毒性があり、友情に憧れを抱く人は、骨の髄からわかりあえる友だちが、喉から手が出るほど欲しいものかもしれない。

 

 また、夏目漱石の『こころ』の先生なんて、まさしくこの〈純粋ごっこ〉をこじらせた人だ。

 

 だから、自分の不作為で、〈純粋ごっこ〉としてのKとの友情を台無しにしてしまったことに、深く傷ついたのだ。

 

 『こころ』の先生は、先生に惹かれて訪ねてきた学生に、こういった。

 

 「恋の上る階段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです。」

 

 青春期というのは、相手構わず〈純粋ごっこ〉をふっかけていく時期だ。

 

 それが「友情」となれば、「恋愛」ともなる。

 

 夏目漱石の『こころ』の場合は「友情」と「恋愛」とが、一緒くたになった先生とKとお嬢さんの三角関係のもつれが描かれている。

 

 純粋であろうとして、傷ついて、結局は、ひとりぽっちだという、味気ない事実に気づく。

 

 Kの死後、先生も「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」自分に気がついたのだった。

 

 この味気ない事実に、気づきたくない、耐えられない人が、政治運動や宗教に〈純粋ごっこ〉を持ち込んで、さらに苦しむというのが、近代文学のお約束のテーマであるいうのは言いすぎだろうか?

 

 しかし、〈純粋ごっこ〉を求めてやまない人間の性(さが)は、否定しようがない。

 

 〈純粋ごっこ〉とは、言い換えれば、「理想」や「自由」への切ないまでの憧れである。

 

 〈純粋ごっこ〉を経て、人類は成熟し、発展してきたが、

 

 同時に、〈純粋ごっこ〉を止められないがゆえに、善意に端を発する恐るべき愚劣な出来事も巻き起こしてきた。

 

 (続く)

 

 

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(引用はじめ)

 

 『自分の記憶の中にのみ、友だち関係は残るんだ』

 

 小学校の時に、ものすごく仲の良い友だちがいたんです。学校の成績がいいとは言わないけれども、性格もよくて、スポーツもできて、人に対して気配りもできてってヤツデね。本当に仲が良かった。

 

 当時小学生は、卒業したら、一般的にはなんらかの職に突いていたんです。どこかの工場とか、川向うの築地の魚河岸とかさ。結局、僕は工業高校に言ったんだけど、その友だちは職についたんです。

 

 そこで離れちゃった。

 

 でも正月には会おうって約束をしていたので、卒業して一年目の正月にあったんですよ。

 

 そうしたら、もう全然話が通じない状態で、「こいつと俺との関係はどうしてこんなになったんだろう」と思い悩みましたね。

 

 結局、そういう幼い時の、小学校くらいの友だちっていうのは、離ればなれに、もうどうしようもないくらい別々になっちゃうんですね。その経験で僕が思ったのは「そいつがいい目にあってずっと生活できていればそれでいいや。以後、会うことはないかもしれないけれどそれでいいじゃないか」ってことなんですよね。

 

 だから幼い頃の付き合いをさ、どう考えて、どう解決するかってことはちょっと考えようがないんですよね。その友だちとの関係は、友だち関係があった当時だけのこと以外はない、つまり、自分の記憶の中にのみ、友だち関係は残るんだ、っていうそれだけしかないんですよ。

 

 でも本当の友だちっていうか、親友っていうか、それができる可能性がある時期が人生には一ヵ所だけあると思うんです。

 

 青春期に入りかけた時期です。

 

 (中略)

 

 僕にはそういう友だちがひとりいます。

 

 まあ、青春の入りかけの頃っていうのは、生涯の中で唯一、なんかあった時にはお互い助け合える関係の友だちができる可能性のある時期だと思うんですよ。その時期を逃したら、もう、ちょっと不可能だと思いますね。

 

                   『悪人正機』 吉本隆明 糸井重里 新潮文庫 P.37-38

 

(引用おわり)

 

 

 私は現在、昔の友だちとは、連絡を取らないが、勤め人だった頃はそれでもたまに小学校時代の友人と、たまに自分から誘って、飲みに行ったりしていた。

 

 今は、自営でやっていて、なかなか思うように行かない部分もあって、友だちとは会っていない。

 

 (まあ、自分が、すでに、なんらかの精神的な廃人ではないかと、思わないでもないが・・・)

 

 みんな所帯を持って、きちんとした生活をしている(・・・と思う。それぞれにドラマはあるだろう。)

 

 私はそういうことに向いていない人間なので、どうでもよくなっている。世間体も、忘れた。忘れたふりだ。短くて長いような人生だろうが、自分の生きたいように生きると決めた。あれも、これも、やっておけだばよかったと、死期を悟ってから、後悔する人生を想像するというのが、私には、一番つらい。失敗することのつらさよりも、つらい。

 

 おそらく、いま、友だちとあったとしても、思い出話以外に話すことがないのだ。それに、私は独身だし、友だちに子どもの話をされても、わからない。(いつか自分も結婚して、子供ができれば変わるかもしれないが)

 

  『自分の記憶の中にのみ、友だち関係は残るんだ』

 

 私は、自分なりの課題があって、それと取り組んでいるなかで、それを友だちや他人様と共有することの難しさを、痛切に感じた。記憶の中にある友だち関係は、今でも尊いのだが、現在の友だち関係は、当人たちが変わってしまっているから、関係の中身も小中学生当時のそれとは、まったくもって、変わってしまっている。

 

 結局、人間一人ぽっちだというのは、この文章の続きで吉本隆明さんが書いていることなので、引用が長くなるので後日紹介することにして、「そいつがいい目にあってずっと生活できていればそれでいいや。以後、会うことはないかもしれないけれどそれでいいじゃないか」という思いは私もよく分かるし、昔の友だちにも、そう思っていてほしい。

 

 そして、今から友だちができるとは、まったく思ってもいない。

 

 友だちは、青春期に入りかけた時期にしかできない。

 

 

  (おわり)

 

 

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12週目から22週未満の人工中絶は、中期中絶と呼ばれ、死産届が必要だそうです。

 

死産届を出すと、埋葬許可証が発行され、胎児の火葬などの手続きが可能になるそうです。

 

12週から22週未満の胎児というのは、法律上は人間ではないということです。

 

この胎児は、独力で体外で生きられないので、法律上は、

 

人間ではなく、「生命をもった何か」であったという事になります。

 

22週以降の中絶は、堕胎罪になります。

 

『(22週以降の)胎児の体の一部が母体から体外へ出た段階で殺人罪の客体たる「人」となり、以後、殺人罪で処断されることになる。 』

 

 

ということになります。

 

 

22週未満の胎児は、生物学的には人間でしょうが、法律上は、人間ではないということになります。

 

しかしながら、人間の死は、まず法律上の問題としてあるのであって、

 

生物学的な問題は、二の次です。

 

 

この法律は、社会秩序の中で決まっています。

 

生きている人間の合意のもとに、法治国家では、国会で可決され、

 

成立し、法律として施行されていることになります。

 

 

 

「生命をもった何か」を心の中の問題として、(形而上学的な問題として)

 

埋葬しているのであって、それは、人間未満の生命の魂だということになります。

 

不思議なことに、

 

生まれていないものが、死んだということが、起こっているということです。

 

 

(それぞれ事情があるので、中絶の善悪の道徳的な問題として語っているのではありません。)

 

 

そう考えると、人間の死というのは、一体何なのでしょう?

 

 

日本とキリスト教圏では、明らかに考え方が違います。

 

アメリカ大統領選挙でも、必ず人工中絶が政治問題として取り上げられます。

 

キリスト教で人工中絶の是非が問題になるのは、宗教的には

 

胎児の死を人間の死として、考える人が多いからだと思います。

 

 

生命倫理の問題として、日本における形而上学的な死を、

 

どうやって哲学的に捉えるかによって

 

我々の生きている社会、例えば「少子高齢化」のような

 

政治的、文化的課題の根っこに迫れると、私は思います。

 

(おわり)

 

 

 

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いつものようにカワウソ大将が食後の昼寝を楽しんでいると、

 

いつの間にか、そばに、アビシニアンが座っている。

 

まるで、昔からの知り合いのように、くつろいでいて

 

毛づくろいさえはじめた。

 

 

目を覚ましたカワウソ大将に、「起こしちゃったかしら?」

 

と猫なで声をかけた。「ごめんなさいね」

 

 

そこの声の響きは、落ちついていてツヤのある声だった。

 

日曜の午後にFMラジオから流れてくる

 

低音のハスキーボイスの女性のナレーションのようだった。

 

 

とんでもなく気品のあるネコなので、カワウソ大将は

 

口をあんぐりと開けたまま、見つめていた。

 

 

 

「こんにちは」

 

「やあ、おいらは、ええっと、ニホンカワウソ」

 

カワウソ大将は、思わず嘘をついた。

 

本当は、自分がなんの種類のカワウソなのか知らない。

 

「あら!? ほんとう?」

 

ネコは、大きく目を見張った。魅力的な表情だった。

 

「あなたが、高知で38年前に見つかった、野生のニホンカワウソなの?」

 

「ああ、まあそんなところだ・・・」

 

 

 

お近づきの「しるし」に、プレゼントを

 

と思ってカワウソ大将は、とれたてのザリガニを・・・

 

しかし、並べてあったはずのザリガニがない。

 

 

「あの赤い変な生き物かしら? さっきお友だちが、食べてたわよ。」

 

《あいつか!》 カワウソ大将は舌打ちした。

 

「友達だちじゃねえよ。勝手に喰ってたんだ」

 

 

「ところで、あんたは、カワウソじゃないようだが?」

 

「あたしは、アビシニアン。エチオピア生まれのネコ」

 

「エチオピア?」

 

「そう、晩年のランボーが暮らしたアフリカの国」」

 

 

そして、そのアビシニアンは、ランボーの《地獄の季節》を口ずさんだ。

 

「おいらは、よくわかんねえけど、哀しい詩だと思う」

 

 

 

カワウソ大将の目には、涙があふれた。

 

そんなのは、生まれて初めてだった。

 

 

 

アビシニアンは、尻尾でカワウソ大将の涙をぬぐった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

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2017.9.22に行った永井荷風『濹東綺譚 (ぼくとうきだん)』読書会のもようです。

メルマガ読者さんから頂いた感想文です。

私も書きました。

「文科綺譚」




 『濹東綺譚』は、昭和11年が作品の舞台となっている。その年の2月に二・二六事件がおこり、霞が関の参謀本部などが、陸軍皇道派たちによって占拠された。クーデター、鎮圧された。世相が暗くなり、市井の庶民は、世情に憚って本当のことを言わなくなった。翌年には、盧溝橋事件が起こり、日中戦争がはじまる。

 
 今日で言うところの言論の自由とか、思想及び良心の自由などが、どんどん制限される重苦しい雰囲気が伝わってくる。


 お雪は、民家の窓から顔を出して、道行く人に声をかけ、客をとっている。もとは芸者だったというが、長唄も清元も知らないので実際は、怪しい。溝から沸いてくる蚊のぶんぶん飛んでいる中で、生活しているのである。


 今で言えば、歌もダンスも苦手な自称元タレント(なんとか48)の女の子が、場末街の飲み屋に住み込みで勤務して、何人かのお客と深い関係になりながら、生計を立てているようなものである。


 遊学経験もあり大学で教鞭もとっていたとおぼしき作中の老小説家が、そんな女性の生態に興味を持って、着物代として、現在にして10万円の小遣いを与えるのである。


 そういえば、元文科省の事務次官が、現役時代に新宿歌舞伎町のガールズバーに通っていたという話が新聞にすっぱ抜かれていた。


 あくまでも職務の一環として、視察目的でガールズバーを訪れ、馴染みになった女性とはカラオケなどして、生活ぶりをヒアリングして、5000円程度の小遣いを与えていたのだという。奥さんにも貧困調査であると目的は伝えて、許可を得た上での行動だったと本人は弁明している。下情に通じるためのキャリア官僚の涙ぐましい努力である。


 小説内小説にふさわしいネタである。元キャリア官僚が、不祥事で役職を辞す。退職金を手にして、歌舞伎町のガールズバーの女の子と『失踪』。


 その小説の結末を書きあぐねる、自称小説家の私が、職務質問にあって、交番でねちねち巡査に問い詰められるオープニング。


 やがて突然の夕立。さしたビニール傘に入ってきたのは、さっしー似の女で……。


(おわり)


読書会のもようです。


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