バプテスマを受けるときに必ず聞かれます。
「あなたは無条件で神に献身しましたか。」
「はい」と公の宣言をした人がバプテスマを受けます。
ところでこの「無条件」とは一体どういう意味で解釈されているのでしょうか。
「無条件」という言葉が連想させるのはやはり第二次世界大戦後の「無条件降伏」でしょう。
日本はポツダム宣言を受け入れることにより明治以来多くの犠牲を払って獲得した海外の領土をすべて失い、国体まで変えさせられました。
GHQの改革案をすべて受け入れなければなりませんでした。
日本国憲法までもその草案を作ったのは連合国でした。
従って「無条件」という言葉は言いなりになるという連想が付きまといます。
そこで「無条件で献身」という言葉は、ある人は自分の生活の中で神を第一にするというマタイ6:33の言葉に従い、たとえば全財産を寄付すると解釈するかもしれません。
またある人は開拓奉仕こそ無条件で献身することだと思うかもしれません。
実際そういう考えの人は少なからずいます。
しかし私はたぶんそういう人たちとは少し違った感覚でした。
まあ、もともと「無条件で献身する。」ということが聖書中にあるわけではなく、
それがバプテスマの必要条件として述べられている聖書的根拠はありません。
ただキリストがバプテスマを受けられる時に「あなたの御意志を行なうために参りました。」と述べられたのでその言葉を拡大解釈すればそういう言葉すなわち「無条件で献身」という言葉が出てくるのも致し方ないのです。
とはいえ、私にとって「無条件の献身」は高校卒業後開拓奉仕を意味するものではありませんでした。
なぜなら私は野外奉仕があまり好きではありませんでした。ですからそういう気持ちで野外に出ても神が喜ばれるわけはないと思いました。それは「キズのある犠牲」を神に捧げるものだからです。
申命記15:21 (新世界訳)
そして,それに欠陥があり,足なえであったり盲であったりして何かの悪い欠陥がある場合,それをあなたの神エホバに犠牲としてささげてはならない。
週1~2回の奉仕ならばそれほど苦痛ではないですし、証言ができるときの喜びはありました。ただそれを生活の中心とする気持ちにはなれなかったのです。
ただ自分の心がそれをしたいという気持ちが自然に生じた時に、その気持ちには素直に従うだろうと思っていました。開拓をしだしたのはそういう思いでした。
とはいえバプテスマを受けた時はそういう気持ちはありませんでした。
できれば大学に進み効率の良い仕事につき、時間を聖書の活動に充てたいと思いました。
聖書を読むと、その中には商売上の表現がいくつか出てきます。箴言には「偽りの分銅」という言葉もあります。テモテの手紙の中でもヤコブの手紙の中でも「富んだ人」が出てきます。
ヨブの受けた祝福や、ソロモンの栄華という言葉があるように、神の祝福は物質面における豊かさも時に含まれます。
ですから物質的繁栄を聖書は否定していません。これは明らかです。むしろそれに伴う危険に注意喚起し、富んだ人でもその敬神の思いが神からそらされないようにと助言しているのです。
ものみの塔誌には「人並みの幸福を手に入れるために高等教育を受けようとしますか。」という言葉がありましたが、それは間違った指導です。
大切なのは人並みの生活を手に入れなくても物質主義的な人もいますし、人並み以上の生活をしていてもそれの執着しない人もいるのですから、そこに焦点を当てるべきなのです。
株式投資にしても批判的なJWもいますがそれは全く経済というものがわかっていないのです。
では私にとって「無条件の献身」とは何を意味していたのかというと、それは何があっても神から心を離反させることはないということです。
たとえば、自分の生涯中にたとえハルマゲドンで来なくても、神への感謝の思いは消さないということでした。
たとえ組織の中でどんな仕打ちを受けても決して神を恨まないということです。
自分の生涯においてたとえば10年後、20年後、30年後、50年後にいつか創造者のことを意識しない生活を送ることは考えられませんでした。
ハルマゲドンとその後の楽園での永遠の命などは確かに素晴らしい希望です。でも、全能者と私は取引をするわけではないのです。
既にいま受けている神からの恩恵、それらは私のプロフィールにも書いていますが、水や空気、自然の美しさ、愛する人たち、音楽や芸術など生活を楽しませるものに対する感謝の気持ちは、もうすでに創造者から十分報いを受けているという思いでした。
素敵な贈り物を頂いた時に私たちはその人に感謝します。感謝していることを伝えたいと思います。
私にとって祈りとはそうでした。今でもそうです。
何があっても、この感謝の気持ちを忘れないこと。それが私にとっての「無条件の献身」でした。
私自身は理不尽な削除も2回受けました。
一つは既に書いています。
しかし、こういうことがあるのと、日々の神からの祝福を忘れることは無関係だと思っています。そもそも次元が違うのです。
組織内の人間の醜さなどをいくら経験してもそれが私と神との関係にヒビを入れるものではありませんでした。そういう醜い人は神から報いを受けるだろうと思っていましたし、そもそもそういう人間の不完全さで信仰を失うということは考えられませんでした。そのようなつまらない人間に、自分と神との絆を切るような真似をさせたくは断じてなかったのです。
私は割り当てで次のように話したことがあります。
まだ1980年代でした。
世代の解釈が徐々に変わるころでしたね。
「もし、組織の年代計算が100年間違っていたという発表があったとするならば、あなたはエホバの証人をやめますか。もしそうならあなたは神の献身したのですか、それとも時(とき)に献身したのですか。」
こう話したこともあります。
「古代イスラエルは、神によって選ばれました。しかし神からの恵みを失いました。キリスト教世界もやがて本来のキリスト教から離れていきました。どれほど神の是認を受けていても、やがて離れるのであるならば、この組織が神から離れないという保証はどこにもないのです。仮にもし統治体が神の御意志に反する指示を出した時に私たちはそれを見極める眼を持っているでしょうか。人間よりも神に従うというのはいつの場合でも重要なことです。」
さすがにこれは長老から顰蹙(ひんしゅく)を買いましたね(笑)
私の場合、創造者の圧倒的力と荘厳さの前では、ただもう塵にも等しい私たちが神に向かってブイブイ言ういわれなどなく、ただもうひれ伏すのみという気持ちでした。
組織を離れたのも「神に無条件の献身」をしたからにほかなりません。