特権削除によって得られる信頼 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

まず最初に断わっておきますが、私はWT組織は神の聖霊など受けていないと思っています。色々理由はありますしそれらは「冒涜集団統治体」や「すべての教義は統治体に通ず」などのテーマで記事を書いていますが、今ここで一言でいえと言われると、結局神の名エホバを標榜しながらそれを利用して神の名を最も穢している点であると思います。ですから神の組織でないところに神がご介入されるという考えは間違った信仰であるとすら思っています。そういう私の認識で下記の記事を書きます。




WT組織の組織運営における非常に大きな過ちは「特権」を高めすぎるところにあります。聖書には「男の頭はキリストである。」と明言されているのに、WT組織では「一般信者の頭は地元長老であり、地元長老の頭は巡回監督であり、最終的な頭は統治体」です。決してキリストではありません。そして統治体に行くまでに非常に頑強なヒエラルキーが構成されておりそのヒエラルキーの上位者は下位者に対して明らかに強大な権力を持っています。

そして統治体はこのヒエラルキーの中での特権を餌に信者を思いのままに操るのです。



「あなた方の中で一番でありたいと思うならひたすら上位者の犬になりなさい」というものです。これが「長老が黒と言ったら白いものでも黒というのがふさわしい。」という教えを確立させます。ただしそのご褒美はほかの信者に君臨し自らがその権威を利用してたとえ中間特権階級でも自分の下位者を操る快感を与えることです。



しかしこういったヒエラルキーの上位者が特権削除されるときは一般信者には理解できない苦痛を経験します。もともと下にいるならともかく上にあげられて奈落の底に叩き落されるからです。傷は甚大です。しかし特権上位者はいとも簡単に無慈悲にしかも冷酷にそれを行います。


組織が特権階級を過剰の評価するように教えているということは特権削除はただの人になりますし、特権ミーハー姉妹たちは特権的立場に群がりますから一気に寂しい思いをするのも弊害です。


私はその苦痛は理解できます。私自身も削除経験があるからです。それも一度ではありません読者の好奇心を満たすために私は自分のことはあまり語りたくはないのですが、少し今日はお話しします。



私の削除は今では冤罪とか言いますが、当時は不当削除と言っていました。端的に言いますと、必要の大きな会衆へ協会の指示で行ったときに推薦できないと受け取れるような手紙を長老団は新しい会衆へ送りました。



巡回大会で「必要な大きな会衆へ行くことを希望される人は昼休みに前に来てください。」という発表があり、巡回監督と会合を持ち協会から招待があっていくというもので個人的な移動ではありませんでした。普通では考えられません。



所属していた会衆では送別会もしていただき、長老団もニコニコして握手して送っていただき、意気揚々と新しい会衆へ移ったのですがそこへ届いた手紙が資格推薦とはほど遠いものでした。当時の組織の認識でも「移動の際に次の会衆へ送る手紙で推薦しないのは愛と親切の欠けた行為である。」と打ち出していた見解です。その線で行けば前の会衆からの手紙は「愛と親切」の欠けた手紙でした。



はっきり言って削除のための会合すらなく、抗弁できる機会すらない一方的削除です。新しい会衆での最初の巡回訪問で資格検討されますが、その手紙が原因で推薦無し、様子を見るということでした。



開拓奉仕学校へ行き、数人の方をバプテスマまで援助し、貯金もし、十分に準備して、それでも給料の良かった都会から仕事のない田舎に出る決意をして自分を犠牲にしたのにもかかわらずです。



新しい会衆ではゼロからの出発になります。いや迎え入れる会衆から見ると「問題のある人が来た。」という目で見られるから、以前の働きすべては評価されることなく、マイナスから見られます。
注解するにしても何をするにしても「どこを助言してやろうか。」と新しい会衆の長老団は見てきます。でももともと大した削除理由などなかったわけですから、普通にしていても評価されません。



何をしても裏読みされます。たとえていうなら歓迎をすれば「僭越だ。」しなければ「怠慢だ」という具合です。



パートナーを組みましたが相手は私よりも年下ですが特権はありました。やはり複雑な思いでしたね。



そりゃあね、正直言って恨みますよ。腹が立ちますよ。「愛と親切に欠けた行為」をしたつまり手紙に署名した奉仕委員三人とも削除してほしいと願いますよ。今日もぬくぬくと地元の会衆内で偽善的なふりをしているならばその偽善の化けの皮をはがしてやりたいという気になります。だからわかるんですよ。恨む気持ちそのものは。



でも一度下った削除決定はまず覆りません。野球でいうならストライクボールの判定はたとえ誤審でも覆らないのと同じです。アテネ五輪で金メダルを逃した篠原選手の世紀の大誤審も覆らないのと同じなんです。


ましてや神権秩序で任命された長老団の下した決定はたとえ手紙が不備でも覆らないのです。もし覆るようなことをすると、長老団が聖霊で任命されたこと自体に異論をはさむことになりますからその時点でWT組織では背教者として扱われます。



それほど「長老たちが聖霊によって任命された」という強い認識を長老団は本気で持っています。これを理解しないといけないのです。



ではなにをすべきでしょうか。私自身は自分がそれで傷ついているというのをあまり周囲の人に悟られたくはありませんでした。理由は一言でいうと「かっこ悪い」からです。特権にしがみついているようですし、それにしがみつくというのは目の前にいる人に対して「上位に立ちたい。」と思っている証拠だと思いましたから。そういう目で兄弟姉妹を見たくなかったですからね。



それでもやはりそういう不満が言葉の端々に出るんでしょうね。妙に批判的になったりして。でもそれを聞かされる会衆の人はたまったもんではありません。とばっちりを受けるのですし、私のそういう姿を見たくないでしょうね。未熟な証拠でした。


特に新しい会衆の人は私のことを知らないのですから。自分を慕ってくれる人がいるならなおさらわたくしごとにその人たちを巻き込みなくないのです。


応援 でその気持ちは書いています。



移動した先の巡回には私のことを気遣っていただきました。そしていただいた助言は「陶冶することです。兄弟は人が経験しないことを経験しています。これを人格陶冶の機会としてみなすのはいかがですか。乗り越えたらよい援助者になれますよ。」というものでした。



当時の私は次のように考えました。「削除過程は不当でも、削除された事実はやはり私の何かが神の聖霊に逆らっていたことを示すのだろう。削除されたという厳然たる事実を真正面から見て自分の改善点を探して行かなければならない。そうなると私にそれを気付かせたのはエホバであり、長老たちはそのために用いられた道具であるならその長老たちを恨むのはかわいそうだな。」何しろこの組織に神の聖霊が流れているの信じ切っていましたから。


このように恨みを持たないようにしたときに心の平安を取り戻すことができました。



特権に対する見方


特権に対する見方2


は私自身が自分の辛かった経験から学んだことです。


自分の最終目標は神の是認を受けること。それであることを自分自身に銘記させることが重要でした。



この巡回は私のことをよく知ったうえではっきりした言葉をおっしゃるかたでしたが私のものの見方を評価していただいていたのでよく話をすることができました。よく食い下がりもしましたが応えていただきました。


その巡回は皆からは厳しいといわれていましたが私は好きでした。上辺の愛でないと思ったからです。「士(もののふ)は己を知るもののために死ぬ」という心境でした。



先にストライクボールの判定で抗議しても無駄なのですと書きました。もしそれで執拗に抗議し、暴力でも振るおうものなら退場を宣告されます。ですから長老の裁定に反抗し続けるのは組織から退場宣告を受けることになります。


世の中に理不尽なことは多々あります。しかし多くの人はそれに対する恨みの状態にとどまっていると自分がますます傷ついていくのがわかるのです。どんな社会においてもです。



もし誤審があっても次はそれを教訓にして、もっと技術を磨いて誤審されないようなスキルを身につけたいし誤審されても影響を及ぼさないような強さを身につけたいと思いました。



ですから開拓奉仕をやめることはありませんでしたし、集会は人より早く来て歓迎したりいろんな人と奉仕したり、仲間を食事に招いたり、若い人と時を過ごしたり…

削除されてからのほうがより真剣にクリスチャン活動をしました

特権がない暇な状態だからできることに時間を費やしていました。



あるとき長老がいいました。「兄弟がうらやましい。私たちは忙しくてそういう兄弟や姉妹とゆっくり時間が持てないんですよ。」


その言葉を引き出しただけでも私は有意義に時間を用いていたと思いますし、その長老たちが私を再推薦することに対する良心を気遣うことができたと思いました。任命するに際し長老たちは良心を試されるからです。


置かれた立場でできることを行うということが大事だと思いました。会衆の人からの「兄弟の講演を聞ける日を楽しみにしています。」という言葉は励みになりましたね。

実際講演をすることにより感謝の言葉よりも、無資格の時にそういう言葉のほうが実はうれしいものでした。



削除されたがゆえに得られる信頼があると思います。


そのあとの努力次第では復権もあるので削除されたときにいかに潔い態度を示すかが重要です。


それこそ桜木の潔さです。侍というのは刀を振り回すものではないのです。


桜は咲くときは全エネルギーを費やして咲きます。

しかしそれで力尽くのでそのあと虫に食われやすくなります。


弱るのです。

しかし次の年には蓄えたエネルギーを放出し満開の美しさを見せ人々を魅了します。


最初の傷は相手が付けたかもしれません。しかしそのあと傷を深めていくのは自分のせいではないかと思います。



今思うのは確かに組織は神の聖霊が動かしているとは思いませんが、でもそんな中でもひたすら神の言葉を重んじる気持ちでいるならば個々の人に神は励みを与えてくれるんじゃないかなということですね。