特権に対する見方2 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

JW信条に従ってバプテスマを受けたころ目標にしたものは何ですか?

楽園で永遠の命を受けること、確かにそれもあるかもしれません。

しかしそれではあまりにもさもしい動機。

生き残りたいというのは誰もが願うものだし、それは自然な感情なので悪いものではない。

しかし根本原因に、贖いの教理に基づき、キリストの愛が私たちに迫ったがゆえに創造者ヤハウェ(エホバ)の御意志に叶う生き方をしたいと思ったのではないでしょうか。

キリストの利他的な精神に見倣うことによって心の平安を求めたのではないでしょうか。

キリストに見倣って愛を示すときにその行為そのものが私たちにほのぼの感を与えたのではないでしょうか。


そしてそれゆえに、つまり私たちが利他的な愛を示すがゆえに、幸福感が得られたがゆえに、「ああ、私たちが愛ある創造者の像によって形作られた。」という信仰を強めたのでないでしょうか。


ヤハウェとキリストの愛に心を動かされ、お二方に見倣いたいと思ったのではないでしょうか。それゆえに新しい人格を身に着けるために我慢し、忍耐し、辛抱し、野外に出て、集会に行き、予習をし、時には仕事の調整をしたのではなかったのでしょうか。


神の是認を受けることが目標ではなかったのでしょうか。


神に献身し、バプテスマを受けた目的は特権を得ることでしたか?

「健全な思いを持つ男子ならば」という条件付きですが、決してそうではなかったはずです。


確かにバプテスマを受けた男子は「長老を目指すこと」をいつも言われます。


(今にして思えばこれはクリスチャン人格を培うよう励ますものではなく、組織にとって「長老を目指せ、というのは組織に従順になれ」という真意があったと理解しています。表面的には人格を培うように言ってはいますが人格を培わないで長老になっている人も多いですし、人格者でも組織批判をする人は長老になっていないことからもわかります。)


だからこそ人格を培うよう励んできたのではなかったのでしょうか。


ましてや教える立場にいるものなら他の人の人格を培うようキリストの教えを演壇から偉そうに言ってきたのではなかったのですか!!!!!


正しい見方をすれば、たとえば長老は二倍の誉れがあるとはいえ、神の御前で申し開きをしなければならないのです。つまり長老であるがゆえに責任は重大でその立場で神に裁かれます。

長老でないがゆえに神に裁かれないことであっても、長老であるがゆえに神の裁きを受ける案件があるのです。


もっとわかりやすく言えば、JW信条に従って考えた場合、長老であるがゆえにその責務を全うしないならば神の是認を受けることなく楽園には入れないのです。モーセの例を考えてみればわかります。


長老職が楽園に入るためにより近い位置にあると考えるのは大きな勘違いであり、いい加減な気持ちで果たす連中にとってはそれは滅びに近い位置にいることになるのです。


特権によって自分の価値が否定されたとか言って大騒ぎし、恨みつらみを吐き出すのは「特権が救いにつながるわけではない」という本来持つべき認識が欠けていると感じざるを得ないのです。


特権削除で信仰の歩みが鈍くなるというのであれば前の記事でも言ったようにそれは特権的立場にない人を侮辱しており、特権的立場につくことのできない姉妹たちを永遠にさげすむことになります。


その人の信仰の質が試されていると思います。結局その程度の信仰であり付け焼刃的な人格でしかなかったということです。


私は三流週刊誌も含めいわゆるワイドショー的なものは昔から嫌いでした。他人のどうでもいいようなことを根掘り葉掘り取材し、プライバシーには平気で踏み込み、あることないこと吹聴し、そして大きな事件を待っているかのようなハイエナのような精神が嫌いでした。


ブログで汚い言葉で組織を批判する人は、誰かが大きな事件を起こすことを待っているのでしょうかね。テロとかしてくれるのを待っているのでしょうかね。

責任とれるんですか?といいたいです。


組織の犬にならざるを得ない長老職を削除されたことによってより神の是認を受け、御意志ならば楽園に入りやすくなったというぐらいの余裕がないものでしょうかね。

それに気づいたのであるならばですよ


削除されて心が痛むこと自体はわかります。それで一時的に気鬱になることも理解できます。理不尽なことをされて悔しい気持ちもわかります。強烈なストレスを与えるということも重々わかります。


問題はその状態をどのように克服しどのように立ち直るかということです。そのプロセスで悔しい気持ちを公開されることは間違っていないと思いますがそれなら相応の言葉遣いがあるはずです。


オウムでは正大師とか正悟師とかホーリーネームを得るために犯罪行為に積極的に加わった人たちがいます。特権がいかに人を動かすエサであったかがわかったはずです。

特権削除で騒いでいるのは、ではオウムだったら、そういう立場にいたいと願ったのでしょうか。客観的に考えればわかることです。

こういう見方ができることを「離見の見」というのです。


WT組織が神の組織ではないと認識しているのに、一方でいつまでたってもそのことに拘泥されているのはおかしいと思います。神の御前で罪ある立場から解放されたことで結果的には救いに近づいたわけですからね。


特権階級になる前に、ほかの人に親切にしイエスに見倣って愛を示した時に感じた幸福感は本物だったはずですよね。私はそれを疑うことはないです。


で、問いたいわけです。特権階級になることがバプテスマを受けた目標でしたか?