「我(われ)、事において後悔せず。」 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

吉川英治著「宮本武蔵」の中で出てくる一節です。


武蔵はその生涯において完全無欠な人格者であったわけではありません。

むしろ沢庵和尚によって大木に吊るされるなどした悪たれ小僧でした。


また若いころは殺伐とし「強くなりたい」の一心で剣の道を追求しました。


様々な決闘を選択しそれに臨むのは命をかけての勝負ですから怖気(おじけ)づく心もあったことでしょう。


全国を旅するにあたっても、見知らぬ人との出会いによって人生が変わる局面もありました。

しかし武蔵は選んだ道で最善の努力をしました。


とはいえ、その選択のすべてがいつでも最善であったわけではないと思います。

完全なのではありませんから。


ただ生涯の道を決定する重大な局面で行なう選択に関してはやはりそれ相応の覚悟が必要です。


「後悔しないようにする。」という気持ちでいるならばその局面でいつも逃げ腰になるに違いありません。消極的になります。


しかし行った選択に対して「後悔しない。」という決意はたとえそれでどのような結果になろうともそこから学ぶべきものを学び、次への踏み台として試金石にしなければならないと思います。

つまり事後策を常に考える知恵を求める気構えが重要になります。


今般安倍首相は消費増税延期に対し国民の信を問うために衆議院解散するのがもはや既定路線となっています。この決意は武蔵の言葉を体現しています。

同時に約2兆円の補正予選を組むという原案も出しているようです。

事後策も十分考えています。

批判ばかりをし、対案を出さない野党とはやはり違います。


結婚にしてもそうです。離婚することを想定し結婚する人はいません。しかしその選択が間違っていると思い込む人は果たして一方的に相手のせいにするのでしょうか。自分に落ち度がなかったのか。責任回避はしていないか。事後策としてどれほど修復に努力したか。


そういう思いを弱めるのが今の世相です。


私の場合、自分の行った選択がいつも正しかった訳ではありません。大いに間違っていたことの方が多いのです。しかしそれを誰かのせいにする気など毛頭ありません。勿論いきさつに他人が関与していることはありますが、我慢している人もいるのですから最終的にはすべて自分の責任です。


自分の知恵が足りなかった、感情に押し流された、それを知る学習です。

人は試行錯誤による学習によって成長する、それが重要です。


そして「賢者は歴史によって学び、愚者は経験によって学ぶ。」という言葉があるように時に愚者であったことを思い知らされます。


前にも書きましたが、たとえば犯罪責任年齢に満たないバプテスマなどはある程度周囲の圧力はあるかもしれません。


しかし、正規開拓者になるというのは事情が大いに異なります。その申込用紙の質問に対して肯定的答えを出すことは完全に自己責任の分野です。


そこに自分を高めたいという欲求は無かっただろうか、大会でインタビューされたいという欲求はなかっただろうか、人に褒められたいという自分の欲求はなかっただろうか。あわよくばべテライトや長老と結婚したいという願望はなかったか。


それは自己吟味しなければならないわけで、やはり根底にそういう願いがあったとするならば、その選択によって歩んだ道を誰かのせいにすることなどできようはずがないのです。


奉仕のしもべや長老の推薦認可を受託するのもこれまた完全に自己責任です。

長老職にいるものが「組織に教えてもらわなかった。」と不平を言うのは正しい表現ではありません。「自分が長老として教えなかった。」という謙虚さが必要です。


私は、失敗を数多く重ねてきた人間です。しかしそれを後悔しても時は元に戻りません。


戻ってこない時のことを反芻し、負の感情を育てるよりも、これからの時をよくするために何が今できるかという生き方が重要だと思います。


武蔵は20歳くらいで主題の言葉を述べました。

私もその言葉を知ったのはほぼ同じころでした。