吉田松陰の教え | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

吉田松陰に対しては、花燃ゆ を見ていて今までとは違った印象を受けました。いろいろ調べていくうちに、非常に優れた教育者だということがわかってきました。それはただ単に「立派なこと」を言うだけではなく、個人個人の個性を見極め、自信を与える教育方法でした。


松陰は今なお萩の人たちは必ず「松陰先生」と呼ぶほど尊敬を集めていますが、松陰自身は自分が決して人より優れているという接し方をしませんでした。


たとえば松下村塾においてある塾生が「先生、私はどうも記憶力が無くて読んだらすぐに学んだことを忘れてしまうのです。」と相談します。

松陰は「それはとても素晴らしいことです。なぜなら、すぐに忘れてしまうから何度も読み直します。書というのは何度も読むうちにそこに書かれていることがわかるものです。そして心に残ります。しかし記憶力の良い人は一度読むと復習をしないので心に残らないのです。さあみんな書を読みましょう。」


これは今でもよく言われることですが、それでも今の教育の現場では詰め込み暗記教育で知識は一方的に伝えられ、学習者はそれを習得するだけです。そこに討議はありません。


WT組織のものみの塔研究なども注解という確かに討議形式ではありますが、これも資料に異議を唱えることは許されません。


真の討議とは反論や反対意見を持つ人が自由闊達に自分の考えを表現できるものでなければなりません。それを頭ごなしに否定されるならば自分を否定されたことになります。それは成長を阻む教育ですし、そのような教えの場で学習したいという気力は失われます。キリストの教え方もそうだったのではないかと思います。教育を受けていない弟子たちがあれこれ自由に話すのをきっとキリストは耳を傾けられたのではないかと思います。


松下村塾からは多くの英傑が輩出されました。それは学ぶことが楽しかったからです。松下村塾では松陰から一方的に講義を受けるのではなく、朋輩の言葉も存分に聞け互いに白熱した議論がなされていました。


松陰の読書量は半端ではありませんでした。また11歳の時に藩主の御前で兵学講義をしその才を殿様に称賛されるほどの人でした。ですから「先生」にふさわしい素養はありました。しかしそれでもほかの人から、書道を学び、句を学びました。他の人から学ぶ姿勢があったからこそ松下村塾においても塾生の自由な意見に耳を傾け、生徒からも学びました。そういう塾生たちがそれぞれの個性を伸ばし、それぞれ異なる方法で維新の原動力となっていきます。それが人を伸ばす教育の方法だと思います。


ブログもそうなのかもしれません。自分の意見や考えを自由に表現し、そして辛い気持ちや哀しい気持ちを書き殴ります。多くの人の目に触れることは承知の上ですが、そしてそれを読んだ人の中には気分を害する人もいるかもしれないということもわかった上ですが、それでも今の自分のこの気持ちを文字にすることで心の整理をしたいという悲痛な思いが感じ取れます。そこで生まれるコミュニティがあるならば、そして友が生まれるならばそれは大事にしていけばよいと思います。


そういうことを踏まえながら、そしてそういう人たちの気持ちに配慮しながら書いていこうと思っています。