「正義の追求」の淵でうずくまる暗黒 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「正義の追求」と言えば一般的には聞こえがいいのですが、聖書の中には「義に過ぎる」ことの危険性も書かれています。


「あなたは義に過ぎてはならない。」伝道の書7:16(口語訳)


この「義に過ぎる」というのは一般社会ではまず耳にしません。わたしもWT組織にいなければおそらく聞くことの無い「表現」だったと思います。


一般的には「正義感が強すぎる」という表現になるのでしょうか。ただそうであってもそれを「悪」だという認識はないと思いますね。普段の仕事でも「彼は正義感が強すぎる。」というのがせいぜいで、それはそれで結構その人を非難する言葉としては用いられない気がします。「ちょっと厄介な人だな。」という程度でしょうか。


しかし聖書の中ではこの言葉は良い意味では使われていません。というのも伝道の書の続きではこうあるからです。


「あなたはどうして自分を滅ぼしてよいのだろうか。」(同)


つまり「義に過ぎること」は聖書的には滅びに通じるということになります。いったいなぜなんでしょうか。


WT組織にいるとこの言葉はよく耳にします。たいていは長老をはじめとする指導者層に何らかの不平を言うと「長老も不完全だから許しなさい。あなたは義に過ぎている。神の権威に逆らうことと滅びますよ。」と言いくるめられるときに使われるということは身を持って経験しています。結果、長老たちが正されず多くの人が躓いているのですがね。


しかしそういう浅薄な適用ではなく、もっと深い意味があると思います。


私はスターウォーズの第二作「帝国の逆襲」を見た時に、悪の限りを尽くす帝国軍のリーダーのダースベイダーが実はかつては正義を求めていたジェダイの騎士であったという場面で少し違和感がありました。今はジェダイの騎士である息子との一騎打ちに際し「お前もやがて私のようになる。」と言って、正義の騎士が持つ暗黒面をほのめかしたことがあまりよくわからなかったのです。


「なぜ正義を求めて悪に走るのか。」ということがですね。


しかしながら過去記事にも書いてきたように、極左とか、オウムのようにおとなしくて学力優秀な若者が女性を含め狂気に走るようになったのも、ある意味において「正義の追求」のなせる業です。


「正義」というのも難しいものです。個々によって価値観が異なれば正義の定義も個々によって異なります。泥棒にも三分の理という言葉があるように、どんな人間もその行動においてはそれなりの「理」があります。それは罪人が、自分の行動を他人のせいにする傾向で表われます。実際自分が加害者であることを忘れ、いつの間にか自分が被害者であるかのような認識のすり替えが行なわれます。


さて、この「正義の追求」というのはやがて実力を持つことを望むようになります。


「カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。」であるという言葉があります。フランスの哲学者パスカルの言葉です。彼はその理由を次のように述べています。


「力なき正義は反抗を受ける。正義なき力は弾劾される。それゆえ正義と力を結合せねばならない。」


極左にしても武器を集め爆弾を作りました。オウムは当初は選挙で勝利したうえで「「平和的」な方法で力を持とうとしました。しかし選挙で壊滅的惨敗を喫し、それを契機に方向転換をし、武器購入およびサリン、VXなどの殺人化学兵器を作りました。これらは「正義の追求」が力を持つことを願うようになった好例です。


とはいえ、最初は正義の行使のために力を持とうとするのですが、いったん手に入れた力というものは試したくなるものです。早い話が拳銃を手にすれば、撃ちたくなるということですね。名刀を手に入れた侍がその切れ味を試したくなり夜な夜な辻斬りを行なうとかなんとかという話もあります。ま、そういう輩を別にしても強大な力を手にすると、それを行なうに際し「正義」が後付けの理由になっていくのです。いわゆる大義名分を主張し、やがて本末転倒が生じるのです。フォースの威力を知ったジェダイの騎士が暗黒面に陥るのはそういうことですね。何しろ力の強大さを相手かまわずやみくもに行使できるのは真の正義ではできないからです。


いまだにオウム犯罪者の中には麻原信仰を崩さずその帰依を捨てない人がいるのも、麻原の教えに「正義」を見出しているからだと思います。そして極左にしてもオウムにしてもそのような正義の追求をしているのも、現状に対する不満があるからでしょう。現体制の中における様々な矛盾に対し、純粋に許せないという思いがあるからだと思います。


こういう苛烈な純粋さは、世間に対する敵意が潜在的にあると思います。矛盾だらけの世の中で、一部の者だけが巨万の富を手にし、道徳的には堕落し、我欲に満ち溢れている世の中で何ら危機意識を持たずのほほんと生きている人たちに対する軽侮の念があると思います。それが無差別テロを引き起こす要因にあると思います。無差別テロで亡くなる人たちに対しては、たとえ自分の行為によって死ぬ人がいたとしても、その人たちは所詮生きる価値がないと判断しているのです。だから力の行使に当たって暴力的になるのでしょう。


「義に過ぎる」ことが滅びに通じる悪であるというのはこういうことでしょうね。他人の価値を認めなくなっていくのです。そしてこれこそが「他人の眼にあるワラを見ながら、自分の眼の中にある垂木に気が付かない。」ということにつながると思います。


では、何が欠けているのでしょうか。なぜこういう悲惨な状態が生み出されるのでしょうか。


アガペ愛だと思います。


力と正義だけではなく、愛とそれに伴う知恵ではないかと思います。