自尊心の培い方 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

個々の自尊心を破壊しようとするWT組織の中にあっても、自尊心を培うことはできると思います。これはどんな割り当てでも常に他者の福祉を気遣い、神を信仰しているというのであれば、「すべてのことを神に対して行っている」と言う聖書の言葉を真剣に受け止めることが大事だと思います。



王国会館で外の駐車場の割り当てがある会衆も多いと思います。大抵は若い兄弟たちや、無役の兄弟たちが割り当てられます。なぜか『卑しい割り当て』のような雰囲気があります。


ある会衆で若い兄弟たちは、屯って、ポケットに手を突っ込んでいたり、ロクに挨拶もしない人たちが当たり前でした。


私が案内係の割り当てを受けた時に、その兄弟たちに対して次のような話をしました。


いわゆる一流ホテルと言うところに宿泊すればわかるのですが、とにかくスタッフ全員が『お客様をもてなす』ことの精神が行き届いています。ドアマンから、フロント、コンシェルジェ、レストランスタッフ、客室案内係すべてがそうです。


特にドアマンの仕事は重要です。ホテルに到着し、最初に出会うスタッフがドアマンです。本当に訓練の行き届いたドアマンは、そのホテルに対する期待を膨らませます。ドアマンが無愛想なら、もうそれだけで不愉快な気分になります。


兄弟たちは、駐車場係は音響係よりもつまらない割り当てだと思っていますか?実はそうじゃないんですよ。集会に初めてこられた方が、王国会館に最初に出会うJWは兄弟たちなんですよ。集会でなされる話なんか、初めて来られる方にとってはちんぷんかんぷんなことが多くて、つまらなくて退屈なものです。バプテスマを受けた兄弟たちですら、そう感じることはありませんか?ましてや聖書のひき方もわからない人にとってはそうなんです。


しかしその人たちですらもJWの行状に引き寄せられる人も多いのです。その第一印象を与えるのは兄弟たちなんですよ。つまり兄弟たちは演壇で講演する長老たちよりも場合によっては、神に用いられていることになるんですよ。その意味では音響係よりも目立った割り当てなんですよ。」


この話をした後、兄弟たちの態度は少し変わりました。


どんな割り当てでも「他者への福祉と神への愛」に基づいて誠実にそれを果たすことは、見ている人にとって明らかになるさわやかさを与えることになるということです。これは特権を削除されたときにも当てはまります。大きな特権を得ていた人が理不尽な扱われ方をされた場合、平常心でいることは非常に難しいと思います。とはいえ、だからこそそういう立場にいた人が、その立場にいた時に演壇で話していた精神を、その立場から離れた時にでも示しているならば、人々は心を打たれます。これは特権的立場についていた人だけが示せる「特権」です。そういうものの考え方が必要です。


人々はそういう兄弟に対し、早いうちの復権を願います。


「いやしくも行なう価値のあることならば、それは十分に行なう価値がある。」

最近知った言葉です。どんなことでも「これは価値があると思ったことは、適当にするのではなくきちんと行うこと」が大事なのです。以前ものみの塔研究で「長老でもトイレの清掃をすることが大事」だと言われました。じゃ、トイレの清掃をすればそれでOKなのでしょうか。それはあくまでも形だけのものです。どうせするならピカピカにするくらいの気持ちが必要です。上記の言葉はそういうことを教えています。


以上のことはなんか組織擁護のように聞こえるかもしれませんが、言いたいことは、どんなにつまらなく見えることでも誠実に果たしていると自尊心は培われるということです。それが自尊心の培い方の一つです。


そしてその培われた自尊心こそが、組織のしていることを冷静に判断することができると思います。「果たして組織の指示は他者へ福祉と神への愛を培わせるものだろうか」と言う判断基準を持つことが出きると思います。自尊心があるがゆえに、とれる行動があると思います。これは自分がどういう扱いを受けたかというものとは無縁のものです。たとえ組織内でひどい扱い方を受けずに『順調に』歩んでいるとしても、必ずこの壁に突き当たります。


一方組織の中で「自己愛」ゆえに割り当てを果たしているならば決して自尊心を培うことはできないと思います。これは私たちが「愛の神」にかたどって創られていると思うからです自尊心」と「偏った自己愛」とは対極の位置にある思います。


この意味で統治体成員や支部の上層部は自尊心がない言うことです。もし支部上層部に自尊心があれば、統治体の誤導に気が付くはずです。たぶん気が付いているのでしょう。しかし統治体の組織崇拝の方針に輪をかけて圧力を加え、善良な信者に「真実を隠して」締め上げるのは、「他者への福祉と神への愛」に著しく欠けた行為であり、それはやはり保身、つまり「自己愛」だと思います。


組織を離れた後でももし信仰があるならば、この二つを意識して生活することが大事なのではないかと思います。「他者への福祉を気遣う」思いがあれば、組織から離れると「JWだけが救われる」という意識から解放されます。


信・仰・者・として真の自尊心があるならば、自分を神以外の他の何物にも支配されることを許さないはずです。組織の中で常に強調されていた使徒たちの言葉である「私たちは人間の支配者に服するわけにはいかない。」という教えが本当に心に染み入っているのであるならば、統治体成員ごときに振り回されるような人生を決して歩むことはないでしょう。


統治体の「新しい光」と称する「怪しい光」によって繰り返される聖書解釈の変更によって、結局それを伝える一般信者は、自分たちは恥をかかせられていることを自覚しなければならないでしょう。統治体はWT組織における支配者であり、それにこびへつらう支部上層部はその亜流にしかすぎませんから。


この場合神が戒める自分の心の中にある負の感情をも含めてです。