一度した選択はもはや修正がきかないのでしょうか。
キリストの最後の夜、その人間的弱さを露呈した弟子たちはキリストを見捨てるという選択をしましたが、それは彼らにとって生涯にわたる決定だったのでしょうか。
彼らのその後の歩みを考えると、やはり彼らは間違った選択を悔い、忠節を示しました。
殉教の死を遂げたと言われるペテロがキリストの処刑の日に流した涙は本物でした。
その他の弟子たちも忠節な歩みをしたことは使徒行伝の中に書かれています。
JWは伝道者になる場合討議があります。
バプテスマを受けるときも資格にかなっているかどうか討議があります。
この討議は信仰を吟味する質問で伝道者になる時と比べて
遙かに難しい質問です。
正規開拓者の申込書にも信仰の質を試す質問があります。
ベテル申込書もそうです。
長老や奉仕のしもべになる時も、まず長老団が協会に推薦し、
協会がその推薦を受け入れた時に長老団から会合が持たれ、確認の質問があります。
「私たちは○○兄弟を推薦し、統治体から任命が来ましたがあなたはそれを受け入れますか。」という感じです。
こういった質問に対し、誠実な態度で自分の良心に従って肯定的答えを出した人が、それぞれの立場を得ます。
そしてその答えは私たち自身の「選択」でした。
この選択に際してはやはり自己責任を認識しなければならないと思います。
確かに圧力はあったことでしょうし、そうせざるを得ない状況にあったかもしれません。
しかし幼いころのバプテスマはその種の言い訳が大きく考慮されるとしても、正規開拓者や長老や奉仕のしもべなどは会衆内で注目される立場になるわけで、それを見ている人はその人の信仰を信頼します。
その人たちが実はそんなことをしたくなかったんだと言われると、その人自身に対する信頼を失うのです。
とりわけ長老や奉仕のしもべはその責任の重大さから見て、純粋な信仰を持っていると期待されますし、WTの道徳基準に対して肯定的見方を持っていると期待されます。
重大な悪行に対する組織の基準に疑問を持ちながらその任務を遂行しているのならそれは他人のみならず自分も欺いていると思います。
長老や奉仕のしもべの立場にいる人が「組織に教えてもらわなかった。」と愚痴をこぼすのではなく、自分がそれを教える立場になった以上は、自分が考えていかなければならない責務が与えられたと思います。
そういう認識を持たないで任命確認の質問を受け入れるというのは、組織に騙されたというよりも自分が周囲を騙していたのではないかと思います。
とはいえ、神の霊が働いていない組織の中にあって行なった選択が、組織の実態を知るにあたって「騙された」という思いになり、その選択が間違っていたと気づくときはどうなんでしょうか。
結局「選択」をした動機が試されていると思います。
神に対する純粋な思いで選択した場合は、その神への心は果たして「騙されて培われたもの」なのでしょうか。
人を愛する自分の思いと、神の愛とが結びついたと思った時に得た感動が騙されたものなのでしょうか。
本当に神を愛しているがゆえに行なった選択ならば、選択の修正をしたとしても聖書の原則やキリストの教えからははみ出さないように次の選択をするのではないかと思います。
組織を離れて全時間の仕事に就くにせよ、新しいコミュニティの中で生きていくにせよ、その中で聖書の原則に従い神に喜ばれるような生き方をしているかどうかが大事だと思っています。